石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

今回は、矢板市から塩原町への石碑調査でした。

2016年02月23日 | Weblog

今回も土曜日は天候悪化で出かけられず、仕方なしの日曜日に期待したが、朝は深い霧に閉ざされている上に、天気予報では風が強く、特に行く予定だった佐野市方面はこの季節特有の強風が吹き荒れるとのこと。仕方なしに、前回に取り残した矢板市の石碑拓本を採りに目的地変更。深い霧の中を塩谷町への道を北上するが、途中から霧は晴れたもののそれと入れ替わりに強風が吹き出して、道路沿いのノボリはバタバタとはためいている。途中から矢板市への道を取るが、その強風は益々強くなって、「こりゃ~、現地に着いたところで手拓どころではないな~」と車中で独り呟きながらも、折角ここまで来たからにはと、とにかく現地へ向かう。勿論、現地へ着いても拓本を取るような状態ではない。仕方なく車の中で様子を見ることにして、コーヒー等を飲みながら過ごす。だが、このまま何もせず宇都宮へ戻るには悔しいので、暫くしてから拓本道具一式を取り出して石碑の前に立つが、常識では手拓どころの話ではない。それでも折角石碑の前に立ったのだからと、下部の70センチばかりの拓本が、強風だからと諦めては沽券に関わると一人決めして画仙紙を取り出し、水張りする。苦労に苦労して水張りを終え、周囲を急いでマスキングテープで目張りしたが、それさえ強風の前には勝てない。しかし、しかしである。そのまま水張りしたのを風に持っていかれるのも悔しく、さらに全身を使って風をふせぎながら、何とか1枚目を墨入れ出来た。しかし、それもここまで。その後は、地面に置いていた拓本道具類まで強風であちらこちらに転びだす始末。流石の私もこの段階で残る3枚の手拓を諦め、すごすごと元の車へ戻らざるを得なかった。さてそれから、「この強風は、南風と北風との勢力争いだろう」と考え、もう少し空気全体が暖かくなるのではないかと十一時まで何もすることなく車中で時間つぶしする。だが、それもここまで。ついに観念して今回のこの石碑の手拓を諦めることにする。
しかし、このまま帰宅するには悔しいので考え、もしかしたらもっと北の寒い地区へ行けば風もこれほど吹かないのではないかと考え、塩原町まで更に北上することにした。矢板市街から塩原町へと北上するする途中に金沢地区があり、そこの薬師堂境内に、確か1基の石碑が建っていたのを昔の石仏巡りで思い出し、そこへ向かって行くことにした。案の定、北へ行くほどに風は弱くなり、薬師堂に着いたときには先ほどまでの強風が信じられないような穏やかさ。これなら拓本が採れると石碑に近づけば、例の石苔で酷い状態。流石に塩原町、水をかけた後で寒い中を金属ブラシででの石面掃除。冷たく、30分ほどで切り上げ、後は何とかなるだろうと、とにかく強風がここまで及ばないうちに手拓を終えたい一心で、そのまま手拓作業へ継続。高さは2メートルを少し欠く大きさなのに、横幅があって半切画仙紙では篆額を含めて4枚必要。あせる気気持ちを抑えながら、文字を気にしながら墨入れを何とか3時前までに終了できた。やれやれ、これで今日の成果は何とか達成した安堵感で記録用紙を取り出して書き込み、最後に碑陰を覗くと、そこには和歌が一首大きく刻まれている。もう一度、片付けてしまった拓本道具を持ってきて手拓したのは云うまでもない。それにしても、寒い拓本採りであった。
その石碑の画像が上記に掲載したものである。それにしても、矢板市の石碑下部拓本が取れていないのには困った。また、その隣りに建立されている石碑も、一応は漢文で記されているので記録として拓本を採っておきたい気持ちもあり、近いうちに機会を見つけて何とか終了させたいものである。

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今回は栃木県矢板市の嘉永四年銘の石碑紹介です

2016年02月15日 | Weblog

ここの所、このブログまで手が届かずに更新をサボっていたが、別に石碑調査はサボっていたわけではないです(笑)。
今月11日の祭日には、宇都宮市内の調査を終えているがまだ未拓のものを採って来ました。市街地の旧日光街道沿いに建立されているので、そこは当然ながら駐車禁止。然しながら、三脚がないと上部は採れないので車で行き、駐車違反で捕まらないように常にパトカー等を気にしての手拓でした。完了するまでに3時間ほど時間を要しましたが、これで何とか五年近くも気になっていた拓本を物にすることが出来ました。
そして先週の土曜13日は、矢板市まで足を伸ばしてまだ山道等に雪が積もっているのをズック靴のまま歩いて、上記に掲載した拓本を採ってきました。この場所は毎年熊の出る場所なので、雪上にそんな動物の足跡があるかをあちこち確認しながらでしたが、流石にこのまだ春浅き季節では熊さんも冬眠中とあってイノシシ等の小動物足跡以外にはなく、安心して拓本をとることが出来ました。地元の人でさえ、山仕事以外には誰も入らない鬱蒼とした山中なので、陽がささずに墨入れするまでの待ち時間がいささかあり、たった全紙1枚の大きさなのに採り終えるまでに二時間も掛かってしまい、一人で苦笑です。
そして昼前に下山。帰宅するには早すぎるので、今度は矢板市街地にある石碑を手拓すべく行きました。今度のは大きくて半切で6枚。もちろん上部は、三脚に乗っての作業。とりあえず2基あるうちの1基を今日は採ろうと手早い作業で始め、上部3枚半までが終了寸前で、突然の雨。慌てて墨入れ途中の画仙紙に急いで墨入れし何とか仕上げた段階で一度撤収。車まで戻り、雨が早く止むことを願っての車中雨宿り。何しろ、銘文の下部が全て採り終えていないので、このままでは帰宅しても銘文の清書も出来ない。しかし無常なもので、30分ほど待つも一向に雨は止まないうちに午後3時を過ぎてしまった。ここで、今日はタイムアウト。今度はいつ来られるか不明だが、潔く諦めて帰宅の途に付く。そして西隣の塩屋町へ入ると、雨が降っていたのが信じられないような天候となっている。今更戻ってもどうにもならないので、悔しい思いを胸にしてそのまま帰宅する。
そして昨日日曜日は、その午前中に採ってきた上記の拓本をパソコンに取り込んで修正作業をした。その夜は、早速に読み下しに入ったが、私の能力では特に後半の一部が何としても読み下せない。嗚呼、悲しい哉。暫くは、その意味が通じるまで悩むことにしようと思っている。

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今回は、宇都宮市の「永井安通君碑」の清書兼読み下しを掲載しました。

2016年02月01日 | Weblog

上記は、宇都宮市清住町の時宗寶勝寺さん墓域内にある、永井家の頌徳碑銘文です。これで永井家に関する石碑は2基とも清書まで終了しました。明日からは田沼町へ戻って、作原で調査した日清戦争の清書に取り掛かろうと思っています。
それにしても、週末になると雪となりどこへも出かけられずに悶悶とした日を過ごしています。嗚呼、早く暖かい春が来ないかと願っていますが、今週末はどうなるやら‥。

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