天候は絶好の紅葉見物日和。そこで気分良く栃木県栃木市の大平山まで来てみれば、早朝にも関わらず道は紅葉見物の車で大渋滞。これでは、車を止めるのに苦労するかと思いつつ、渋滞の中を進めば何のことはない。私が車を止める予定の随身門脇は、一台も止まっていない。恐らく、ドライバーはここへ車を止めると大平山神社に叱られると思って留められないでいたのだろう。これはシメシメと車を乗り入れた瞬間に、それを見たドライバーは我先にとその狭いスペースへ車を止めて、私にここへ止めても良いのかと聞いてくる。そこで少しだけ茶目っ気を出して、ちゃんと他の車が出来るだけ止められるように詰めて駐車してくださいと、その場所の管理者ぶって言って、出来るだけ多くの車を止めさせることが出来た。
さて今回は、前回に銘文本体だけの手拓で時間切れとなった宗川先生の碑文台座にある石文調査から始める。そして次に、長~い石段を降りて上記に掲載した石碑の調査を行う。しかし何しろ高さが3.5メートルもある巨大碑。最上部の文字が、汚れていて何としても一文字読めない。悔しいこと限りないが、こればかりはどうしようもない。その他の碑文はそれなりに読めたが、何しろ文字数が多い。予定以上の時間をここで浪費?してしまった。この紅葉真っ盛りの中での碑文調査。次から次へと脇の石段を登ってくる観光客は、「あのオジサン、何をしてるのか?」と怪訝な顔をしているが、そんなことは無視してひたすら銘文手写。何しろ、校正するにはここへもう一度来なくてはならないので、そんな事はしたくない一心での真剣勝負の手写となる。
終わって、ほっと一息。まだまだ今日は時間があることだしと、今度は石段途中にある、この石段を造った時の石碑「石階築造碑」を調査し、ついでだからとこれは手拓することにした。それでも、午後2時には全て終わってしまった。本当は、もう少しこの大平山にあるだろう他の石碑も探し出したかったが、何しろ観光客が多い。車をあちこちと動かすのは大変なので、今日は少し早いがこの辺で切り上げて帰ることにした。それにしても、またまたこれで清書しなければならない碑文が溜まってしまった。そこで次回は、石碑調査を一休みとして、少しは石仏も見に行こうと思っている。尤も、天候が良くて、暖かければの話だが‥。
今回は、栃木県の自由民権運動の基礎を築いた兵庫・摂津の人、中條若処(清太郎)の終焉の地に立つ石碑を訪ねてきた。この碑の存在を知ったのはずいぶんと前のことなのだが、場所の説明が丘の上に建っているというだけで要領を得ず、今日まで訪ねる機会を失っていた。そこで今日は、一日をかけてこの石碑を探し出して記録しようと、この季節にしては暖かく、また風も穏やかなのでいそいそと深程地区へ向かう。そして昭和55年庚申塔を追いかけていた時に、偶然目にした庚申塔の持ち主である石川家がまたしても眼に入る、あつかましくも訪問する。すると、即座にその場所がわかり、しかも当地へ若処本人を招聘した石川伴蔵の本家であるとのことで、何となく今日は朝から縁起が良いと自然に顔がほころぶ。手拓の許可をお願いしたところ、もちろん快諾を頂戴。そして奥様の案内でその場所へ着てみれば、確かに上記に掲載したようにそれは丘の上にあった。
それから5時間強。まず碑面がどうしようもなく汚れているのでその掃除。何とか手拓できる碑面に仕上がったのはそれから1時間以上も過ぎてからだった。既に11月も半ばとなったにも関わらず、その掃除が終わったときは全身から汗が噴出していた。それからが手拓作業開始。しかし、ここへ着いた頃は無風状態だったが、地面が暖まると共に嫌な風が吹き出していた。加えて、今回は石川家の所望もあって同じものを2枚採らなくてはならない。バタバタと画仙紙を風になびかせながら、何とか一人で水張りを終えたが、墨入れを始めてみるとまだまだ碑面磨きが足りなかったようで墨が上手く乗らない。そして結果的には昼食を取る暇も惜しんで手拓に精を出し、二部の拓本を採り終えたのは午後も2時を過ぎてしまっていた。そうそう、碑石の右側に見える墓石の左側には、辞世が二種刻まれている。これも手拓したのは言うまでもないが、碑面を掃除しなかったのでかろうじて読める程度の仕上がりであるが、これは致し方なし。
終わりに、石川家にご挨拶に伺うとお茶をご馳走になりつつ古文書の話となり、江戸時代のたくさんの古文書があるので、興味ある方にはお見せしたいという話であった。特にその中でも江戸幕府の安永~天明期頃の「殿廻記」(?たぶん・記憶違いはご容赦)は江戸城府内における徳川殿様の日常内容を記したもので、非常に貴重であるとのことであった。
いずれにしても、私としてはこれで粟野町の残っていた石碑の目玉を調査し終えたことになる。特にそれが中條若処の石碑だけに、またそれを撰文したのが懐徳堂の樺翁並河鳳来(並河天民の孫)である(しかもこれを撰文したのは明示八年四月79歳とあるから没する四年前のものである)し、篆額と書は、文人儒者であった可亭羽倉良信であった。ただ、石工名はどこを探しても記されていなかった。
これでまた、暫くは毎夜この拓本と時間を共有できると嬉しくなる。それにしても今日は、昨日以上の小春日和。部屋の中でパソコンと向き合っているのが馬鹿らしくなり、そろそろこれを閉じて外に出かけようと思う。
天気予報が、今回の三連休の中では今日が一番天候が良いとのことだったので、前々から行こうと思っていた栃木市の大平山(太平山神社)へ行く。そして最初にしたのは、私が調査したいと思っている碑そのものの探索。何しろ、どんな碑がどこにどのくらいあるのかを知るために社務所へ挨拶に行くが、あまり要領を得ず。それでも、何となく場所のありかの情報を得て、まずはその場所を探すことにした。しかしこれが大変。何しろ広い森の中。結局は2時間かけて私が記録に採りたい碑文石を探し出せたのは4基のみ。まだまだあるのだろうが、そのために森の中のハイキング道を歩き、且つあの何百段もある階段を二往復するという馬鹿みたいなことをした。おかげで、今日3日は朝から足のふくらはぎが痛くて仕方がない。今年の7月に登った日光・大真名子山の数倍の疲れようである。その為、車を止めた随身門脇の駐車場へ戻ってきた時はヘトヘトに疲れ、全身汗まみれであった。それでも、とりあえずはその随身門(仁王門)脇にある碑文手拓から始めた時には既に10時半となっていた。それから石碑の水洗いから始まり、手拓作業が狩猟したのは何と12時半を過ぎていた。その理由は、石碑洗いに意外と時間がかかったことと、水張りした画仙紙が一向に乾かず墨入れするまでに時間を要したからである。
さてここでは、午後から始めた上記掲載の紹介である。それは、森の中の墓地らしい風情の中にぽつねんと立っていた。正面からでは、その両側面に碑文があるとは思われずに通過してしまいそうになったが、その碑表に「墓」ではなく「碑」とあったので覗いてみれば、そこには雄渾な書体で銘文が刻まれていた。その銘文の揮毫者を知りたくて最初に見ると、そこには「悟岡山朝陽」とあった。「山朝陽」とあれば、それは彼の小山霞外のことであり、その前の号名が「悟岡(ゴコウ)」とあるので、それは間違いなく小山霞外の息子さんの名前であった。もちろん、私としては始めて見るものである。当然ながら、拓本が欲しくなる。早速に水洗いし、画仙紙を張り付けたまでは良いが、森の中とあって午前中の石碑以上に乾きは遅く、いつまで待っても墨入れが出来ない。そうこうしているうちに時間は午後三時を回り、ハイキングに来ていた人たちの声も既に途絶えて森閑としている。何しろこの季節、それでなくても森の中にいるので陽の暮れるのは早い。強引に、文字だけ読めれば良いとして左右に貼り付けた画仙紙に墨入れし、何とか30分で仕上げてしまう。本来なら、碑表も拓本が欲しかったし、その台座に刻まれている門人達の名もここでは関心があるので採りたかったが、タイムオーバーで今回は諦める。大平山には、まだまだ探せば他の石碑がありそう。近いうち再度の挑戦に行こうと思いながら、天候のせいでいつもより早く暗くなりだした山を降りて帰宅する。
前回に引き続き、栃木県黒羽町の黒羽神社(招魂社)境内にある、戊辰戦争戦死者の碑(いしぶみ)紹介です。もちろん、石工は廣羣鶴です。この碑は、戊辰戦争中の8月23日に那須郡の小屋村で戦死した益子信明君という若者を悼んでの建立で、三回忌に当たる明治三年に父親によって新善光寺の墓地に建てました。そしてその後、それまでの鎮守であった黒羽神社を招魂社としたことにより、そこへ移転されたことが追刻となって記されています。当地の戊辰戦争の記録として大切な碑文となるでしょう。興味のある方は、いつものように別ホームページに詳細が掲載済みです。ご笑覧ください。
明日からの三連休は、秋晴れに恵まれるとの予報。沢山の未整理碑文が残っているのだが、それはさて置いて、どこかへ出かけなければならぬと思っています。