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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

江戸末期の当地における儒学者、河島易親(島君龍)が揮毫した大橋朝盈の壽碑紹介

2018年06月23日 | Weblog

河島易親(カネチカ)(號は島君龍)は、文政2年に日光で生まれて明治14年に没した人で、江戸の昌平黌で学び、日光学問所の教授となった。そして維新後は宇都宮へ出て梅園春男や戸田香園と親交を結び、最後は栃木県上三川町の白鷺神社祀官となり子弟に皇漢学を教えて一生を終えた人である。私は以前から、彼の石碑等に見る筆跡やら撰したした銘文の奥の深さから敬愛している人物である。旧日光市では唯一の日光の江戸期における個人の壽碑の存在を知りながら今日まで調査できずにいたので、今回はそれを目的として旧日光市では唯一の石碑を訪ねることにした。その場所は、旧日光市としては交通の不便な南西地区にある小来川地区である。そして早速に、今では地元でさえその大橋朝盈という農業をしながら子弟たちに学問を教えた人物の存在さえ知らぬありさまなので当然なのだろうが、高さ117㎝×巾53.7㎝×奥35.5㎝の碑面は長年の放置で酷い汚れようだったのに対面する。幸いに、傍らに小川が流れているのでバケツで何回も水を運んでは丁寧に水洗いし、何とか拓本を採れる状態にしたが、その作業だけですっかり疲れてしまって苦笑する。
碑表には「大橋盈翁之壽碑」と大書され、銘文は碑陰にある。その碑陰に刻まれた銘文が、下に掲載したものである。此のところ、2か月ばかりは面白くもない碑銘文ばかりだったので、いざ拓本を採りだしてみると、心がワクワクしてきて今までの鬱憤を払拭するに十分な嬉しさで、嬉々として一文字づつ丁寧に手拓作業を進めることが出来た。そしてこうして、帰宅してからその拓本をパソコンに取り込んでみると、「こりゃー、難しい。流石に君龍先生の撰文だわい」と、早くも根をあげたくなるが、
その前にその銘文を間違いなく原稿用紙に清書するだけでも大変だと、またまた苦笑いする。今夜から、その銘文転記に入るが、出来上がるのはしばらくかかるだろうし、もしかしたら、再訪しての文字確認も必要になるだろうと恐れている。いずれにしても、痛みの酷い石碑拓本画像だがご笑覧下さい。

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昭和24年12月24日に発生した栃木県日光市の今市地震災害碑紹介

2018年06月21日 | Weblog

当日の午前8時18分に起きたこの地震は、当地における未曽有の大地震であり、地域限定とは言え大きな災害となった。特に戦後間もなくの時期でありながら、各地の災害普及はそのほとんどが地元の人々によって修復された地震災害復旧でもあった。従って、現時点で私の確認した「災害碑」建立は8か所に及び、その石碑には今回ご紹介のようなその復旧内容が詳細に記されている。勿論、その全ての碑文内容は過去に全て記録済みだが、今回はそれらを拓本に採って後世に残そうと思い再度訪ねることにした。その第一番目が今回の日光市山久保地区・稲荷神社に建立されている石碑である。今、調査中の足利市方面が夏場は手拓するのに難しいときは、少しは涼しいであろう旧日光市と旧今市市を訪ねて手拓しようと企てている。ただ、やぶ蚊だけは防ぎようがないので、蚊取り線香持参で。掲載した拓本は、霧雨の中での手拓だっただけに画仙紙が乾かなく、墨入れに時間ばかりを要したほろ苦い作業だった。

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いわゆる、「日光型灯篭」という灯篭に魅せられる

2018年06月20日 | Weblog

上に掲載した写真。これは「日光型灯籠」として、一般に見る灯篭とは区別しています。今回は、暫くぶりに日光方面へ来たついでに見たのだが、嘗ては自分の石造物調査対象として何時かはその全容を纏めてみたいと考えていた。しかし、余りにも調査する項目が多すぎて、どうしても社寺仏閣の付随物としての灯篭には集中する事が出来ず、今ではすっかり諦めている。
しかしこうして改めて眺めると、その安定感あるどっしりとした像容にはなぜか魅せられるものがある。この形態の栃木県における初発塔は、日光山内の開山堂付近にあるもので、紀年銘は寛永五戊子天四月日(1708)で「地蔵堂常夜燈」とある。そして建立されている場所としては当然ながら、日光を中心としたエリアに多く、そのほとんどが社寺仏閣境内なのは一般に見る灯篭と同じである。この灯篭については、日光方面の石造物に興味を持っている方もいるようだが、その全容となると管見ながら見ていない。「嗚呼。もう少し若ければ」と思うのはいつものことだが、この石造物も誰にも調査し纏められぬまま、何時かはその歴史が消えていくのだろうなと残念に思う。

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栃木県の庚申信仰に今も見る「マルメ」行事のご案内

2018年06月19日 | Weblog

全国的に、庚申信仰が衰退した世にあって、今なお厳然と昔ながらな庚申信仰の行事として行われている「マルメ」についてのご紹介です。庚申信仰の「マルメ」行事?と言われても、庚申塔に興味がある程度の方には初めて聞く言葉かもしれませんが…。この、庚申信仰における「マルメ」とは、12年に一度巡ってくる「申年」に、その地区の庚申講(一般的には今までの庚申塔が建立されている地)で、無事に庚申信仰が12年間行われてきたことや、本来なら60年に一度の「カノエサル(庚申年)」に建立される石塔に代わって行われる民間行事である。これを「マルメ」と称して、60年に一度の「庚申年」には「本マルメ」として庚申石塔が建立されることが多い。つまり、今回の「マルメ」は12年に一度だから、5回を繰り返して「本マルメ」になる訳である。こんな庚申民間行事、今では日本全国的に見てもそうそうあるものではありません。それが当地では、その勢いは衰退したというものの、一つの行政区域内の更に細分されたの庚申講を続けている地区において、連綿と行われているのである。正直、日曜日に当地を訪れ、初めてその「マルメ」信仰が今なお継続されているのを目にして、思わず感嘆の声を発したものである。この庚申「マルメ」行事については、昨日のこのブログで紹介した拙著私家本にも紹介しているので、内容に興味のある方は参照してください。
下に、掲載した写真は、「申年」に祀られたマルメ札だから、平成では28年(2016)年の物です。全てが木材で出来ているので、4~5年もすればボロボロになって朽ちてしまいます。右側の自然石庚申塔の所に立てかかっているのがそうです。

これを、今度は拡大して掲載したのが下の写真です。梵字読みは、バーン・ウーン・タラーク・キリーク・アク・フーンです。

次は、この日月瑞雲の板の台木となっている、杉の枝に書かれている偈頌内容です。細い枝に書かれているのですが、その実物写真を細長くなりますが掲載しましょう。
 如何ですか、恐らく庚申信仰に詳しい方でも、こうした「マルメ」の現物を見るのは初めてなのではないでしょうか。私は偶然にも、その前の12年前の「マルメ」も出会っているのですが、その時は地元の方も「もう、これが最後かもしれないね」と話していただけに、本当にそれが今も続けられているのに出会い、感動しました。もし、庚申信仰を少なくも10年以上真剣に調査している個人の方(中途半端な方や興味半分の方はご遠慮ください)で、興味を持たれました方はご連絡下さい。恐らく、次の申年(2028年)には、この信仰も消滅していることでしょうから、調査するなら今の内ですので。それと、今はバス停も無くなってしまった、周囲は山ばかりの田舎で行われているのと、その庚申塔のある場所を探し出すのは普通の方では無理でしょうから。いわゆる、当地の「庚申塚」の殆どは、山の中のその坪の庚申講に参加している方しかしらない所に祀られているのが多いのです。幸いにも、私は過去の調査で現地の方々に教えられてそれらの所在地を実際に調査しているので、すべての場所を知っています。今の、年老いた身には何とも嬉しい事です。(笑)

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「栃木県旧日光市・江戸前期までの庚申塔」の最終版を私家本で発行しました。

2018年06月18日 | Weblog


この私家本は、2012年2月28日の当ブログでも紹介したのですが、今回はその最終版として今までカラー版だったものをモノクロ版に換えて私家出版しました。但し、何しろ最終の印刷から製本まで全てを自分で仕上げましたので途中で飽き、現時点で10冊余で、特別にお世話になった故中山正義氏のご家族や心の通じ合える友達やら特に庚申塔でお世話になった方に順次お送りしようかと思っています。そして最初に、取り敢えずはその当時の庚申塔調査の折にお世話になった日光市図書館へ納めようと、昨日は日光市の石碑手拓も兼ねて日光市の小来川(おころがわ)地区周辺早朝に出かけました。一か所では霧雨の中でも拓本採りで、いや~あ、画仙紙が全く乾かずに墨入れ迄が大変でした(笑)。
実に、日光中心地へ行くのは6年振り。その日光市の街並みの変貌ぶりに驚きました。また、いつのまにやらそれまでの陰気な雰囲気の図書館さえ、今度は日光のメイン道路沿いにある日光地区市役所内に移動していたのを知らずに思わぬ図書館探しという間抜けな事をしてしまいました。この私家本はB5判サイズで、総ページ数は約110頁余。旧日光市内に所在する江戸前期までの庚申塔を精査したもので、その画像はもちろんのこと交名を除いては全銘文を詳細に記録してあります。勿論、今までに発行されている旧日光市の庚申塔としては、これ以上の庚申塔調査記録は他の人にはできないほど「最も良く精査してあるもの」と、自負するほど年月ををかけて記録してあります。また、いわゆる「日光型庚申塔」についても、私なりの新しい視点に立っての論考やら庚申信仰における「マルメ」信仰についても、実例を紹介しながら詳述しています。そうそう、その全所在地も形態別に詳しい所在地図をも掲載しています。前述のように、現時点で公共図書館に収めてあるのは、前述した日光図書館だけですが、興味のあります方は機会がありましたら日光図書館でご覧ください。

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今回は、墓碑の前に献納された石製の瓶(いわゆる花瓶)の紹介です

2018年06月06日 | Weblog

元禄15年に、祖父の墓前に献納された、高さ33㎝の石製花瓶をご紹介します。花瓶面に銘文が記されているのに出会ったのは初めてなので(今までは、全く予想もしていなかったので確認することもしなかった)、物珍しさで調査しました。上部一部分が欠け落ちていたので、近くでそれを拾って載せて写真を撮り、手拓はそれぞれに採択してから画像で張り合わせました。一部に読めない文字が出てしまったが、まあ仕方のない事かと思っています。そしてこれを奉納した女性の名が「常」とあるのだが、その家族の家系図を作ってもその女性の名が出てこない。こちらの方が、私としては悩ましい問題である。秋以降に、再び現地を訪ねて、もう一度真剣に調べてこようと思っている。何しろこれからは、山の中はやぶ蚊の領域なので覚悟をしていてもその凄さに撤退するのは分かっているので、ここしばらくは入らぬことにしている。



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