石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

11月25日の石仏巡り記

2006年11月26日 | Weblog
11月25日は、仕事が石橋町方面にあったので小山市へ足を伸ばした石仏巡りに出かける。まずは、宝篋印塔の銘文取りに犬塚地区の共同墓地へ行き、2基を片づける。それから、近くにいるのだからと、中久喜地区の持福院へ行って「雨引山」塔を写真撮影。どうせ来たのだからと、写真が取りにくい延宝九年の庚申塔を部分的に撮影して、後日一枚の写真にするために計算して撮影。
その後は、雨ヶ谷地区へ入って主に「雨引山」信仰塔を中心に探し回る。この地区には3基の「雨引山」塔があるというが、2基しか見つからない。地元の方に、もしかしたらあそこにあるかも知れないと場所を教わったが、そこで見つけることが出来なかった。この雨ヶ谷地区は、年々住宅化が進んで昔の面影はない。そのために私の持ってきた古い地図では道が変わっていて思うように石造物探しが進まない。そんなこんなで、雨ヶ谷地区をウロウロしているばかりで時間が経過し、早くも午後2時過ぎ。3時半にお客さんと逢う約束をしていたので、そろそろ小山市を離れる時間となる。それでも、帰路途中に立木地区へ遠回りし、十二所神社の延宝庚申塔の今まで読み切れないでいた銘文を解読しようと立ち寄り、今回で完読することが出来た。もっとも、その後の帰路に選んだ4号線が工事渋滞していて、お客さんとの約束に少しばかり遅れてしまったが…。
そんな訳で、今回はHPの方へ掲載する画像はあまりありません。

 そして今日は、仕事で「カラー年賀状」の印刷である。数が多いので、明日一杯かかってしまうので日曜日だが真面目に仕事をしている。その合間に、別のパソコンで窓の外に広がる雑木林の紅葉を見ながらこれを打ち込んでいる。
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11月18日の石仏巡り記

2006年11月19日 | Weblog
昨18日は、栃木県芳賀町へ行って来ました。といいましても、今回は既に調査済みの庚申塔を中心とした写真撮影です。芳賀町の、代表的な庚申塔を見たい方は必見です。特に、栃木県には管見ながら7基しかない庚申真言塔を拓本に取ってきました。また、同じく数の少ない四臂青面金剛像に、青面金剛像の万延庚申塔に見る一猿一鶏もご覧に入れたいと思います。同様に、剣人型青面金剛ながら、人身の見えない庚申塔もお見せします。おまけとしては、明治年間と新しいのですが、「疱瘡太神」の文字塔もご覧下さい。
いずれにせよ、栃木県の方は別にして「芳賀町」といわれてもその場所はわからない程の土地ですので、このようにHPにて芳賀町の庚申塔等が公開されるのは初めてなのではないでしょうか。
なお、最初に「水神」様と言われている梵字種子塔をご覧下さいまして、その種子を他で見ているかたは是非のご教示をお願いいたします。

※ホント、この頃はボケが酷くなりました。途中で宝篋印塔を見かけましたので、これ幸いと宝篋印陀羅尼経を書き写して帰宅し調べてみたらずいぶん昔、既に調べた塔であることが判り、ガッカリ!。あの、1時間近い無駄な書き写し時間は何だったのだと、苦笑しています。それでも、昔と今回の銘文に書き写し違いが一字もなかったことに、なぜかホッとしています。

※、あきる野市のT様、今回の庚申塔も森の中にあったり個人宅にあったりと、所在地が判りにくい(地名だけでは絶対に探せない)ので、過日の平成庚申塔と一緒に詳細な所在地図をお送りします。もう少し、お待ち下さい。

昨日帰宅しメールを見たら、高橋久敬氏より小山市にて「合爪」文字を確認した碑塔を画像入りでご教示下さる。お陰様で、「合爪」文字が確認された碑塔は合計10基になりました。これをご覧の皆様の中で、石塔に「合爪」文字がありましたら是非ご教示下さいますよう、重ねてお願い申し上げます。
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11月15日の石仏巡り記

2006年11月16日 | Weblog
今回は、仕事途中で撮影しました石仏を数点ご紹介します。それらは、全て過去に実見済みでしたが、カメラを持たない仕事途中で見たために未撮影だったものです。特に、平成の庚申塔に並々ならぬ興味をお持ちの、あきる野市在住T様にご覧頂きたく撮影しました。詳細な所在地は、後日郵送いたします。この周辺、今も庚申講が健在なだけに聞き込み調査をすればまだまだ出てきそうですね。
 それと、栃木県内の方でも滅多に登らない馬頭町の鷲子山奥社の庚申塔も掲載しました。この地域では非常に珍しい日光型庚申塔です。
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11月12日の石仏巡り記

2006年11月13日 | Weblog
11月12日の日曜日は、昨日のリベンジでまたしても延宝庚申塔探しに行きました。しかし、目星をつけた古墳や墓地に該当庚申塔を見つけだすことが出来ず、気が付いてみれば栃木市の大塚上区薬師堂にいました。ここにある、二猿塔の紀年銘がどうしても判読できずにいたのです。その庚申塔、どう判断しても延宝年間を下ることはない像容だけに、気になるとどうしようもなくなります。今回は、野田市の戸向氏よりも先に読んでやろうと大胆な試みで、面壁ならぬ石面と向かい合うこと約1時間。水洗いを繰り返し、霧吹きで吹きかけて現れる一瞬の陰影から文字を読みとる行程を何度も何度も繰り返しては、何とか「寛文」の文字は判読できたが、次の干支がどうしても読み切れない。そこで月日の文字がある場所を推定して同じ事を繰り返し、こちらの方は「三月八日」と読むことが出来た。暦早見表によれば、寛文時代の3月8日の庚申当たり日は11年とある。もう一度元に戻って、「寛文」の次に「十一」が出てこないか、また干支に「辛亥」と現れないかと目を皿のようにして眺めるもどうにも読めない。それでも、何とか「寛文」塔であることが読めたことだけでも今日の所は良しとして、この場を離れる。

そして気が付けば、いつの間にか栃木県藤岡町の歓喜院跡に立っていた。ここに立つのは今回で5回目。気持ちを新たにして、もう一度全ての碑塔を眺めて肝心な個所はカメラで撮影する。特に、未だ未解読の不動明王像正面に刻まれている梵字真言は、手書きする。当然、その全てを拡大写真に納めたことは言うまでもない。側面、これは拓本を取らなければ解読出来ないが、今日は警報まで出ている強風の中では無理と判断して、取りあえずは片面のみ拡大写真だけで諦める。

今日は、この時点で撮影コマ数が70枚になっている。memory-sticを交換して、次は町内の庚申塔調査に切り替える。というのも、もう少しで藤岡町の像容庚申塔調査が終わりそうなので、その完成により一歩近づくためである。あちこちと、藤岡町内を巡り歩いて調べるが、いつのまにか午後の陽となった太陽で逆光位置が多くて撮影に難儀する。また、特に部屋地区の帯刀研修館にある大正五年の線刻青面金剛像は、拓本をぜひとも欲しくなった庚申塔だが、今日ばかりは風が強すぎて流石の私も手が出ない。この庚申塔など、あきる野市のT氏が知ったら必ず見に行くと思われる塔である。そこで、私流に撮影したその塔をHPの方へその内掲載しておこう。※忙しく、少し掲載は遅れます。

そうこうしている内に、早くも時刻は午後3時。まだ19基しか調査票に書き込んでいないが、強風の中で石仏巡りをしただけでも良しとして帰宅する。
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11月11日の一日

2006年11月11日 | Weblog
 11月11日土曜日は、午後から天候が荒れると言っていたので、隣の鹿沼市へ出かける。その目的は、野田市の戸向氏だけが見ている延宝庚申塔探しである。何しろ、見て写真を撮った戸向氏さえ、既に昔の話しで詳細な場所を忘れてしまった代物だけに、私もこれまでに恐らくその周辺という場所を何度も探したが見つけだせずにいた。それだけに、今日こそはという思い入れがあって出かけた。
 捜索地をこれまでの経験と戸向氏のうろ覚えの話しを頼りに、鹿沼市北赤塚町の広斎寺周辺と決めて出かけたものの、その周辺には碑塔が存在する場所は全て過去に調査済み。そこで仕方なく広斎寺さんを訪ねて住職さんに会い、アドバイスを受けることにする。住職さん曰く、「まず、うちの墓地内を探してみたら」と。当然ながら、墓地内には見つからないので、この周辺で住職さんが思い当たる墓地等を教えてもらう。と、その時に突然の雷と共に豪雨が襲いかかってくる。急いで辞して車に戻り、暫く雨宿りすることにしたが、小雨になるどころか益々空は暗くなって雨と雷が激しくなる。こうなってはお手上げである。車の中に雨靴も用意してきたが、とてもではないが外に出られる状態ではないので、今日の所はまだ来て1時間も経たないのに早々と帰路につく。時計は朝の9時前だというのに、行き交う車は皆ヘッドライトをつけて走る中を、雨に濡れた衣服をタオルで拭き拭き運転して帰宅すると、家内が笑いながら出迎えてくれた。
 嗚呼、何と言うことだ。天気予報を信用したばかりに酷い目に遭った。明日こそ、せめてもの雨が降らないことを祈るのみである。
 その後は何をして過ごしたかというと、昨日壊れてしまったプリンタの代わりに、新しいプリンタを購入。しかし、私の古いパソコンOSでは最新のプリンタドライバー対象外でがインストール出来ない。メーカーのHPにアクセスして何とか対応するソフトウェアを見つけてダウンロードし、使用できるまでに3時間ほど無駄な時間を浪費してしまった。午後は、少し昼寝を決め込んで起きた後は、雨の中を散歩に出かけて先ほど戻ってきた次第である。
 雨のために、ここの所の寒さは感じられず、ついつい橋の下の雨に濡れない場所へ腰掛けて水面を眺めたり、時折川面を素晴らしい速さで通り過ぎるカワセミを眺めてのんびりしてしまった。おそらく今夜は、このままのんびり何もしないで時間を過ごすことになるだろう。まあ、そういう土曜日が時には必要かとも思っている。
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11月4日、日光の庚申塔調査に行きました

2006年11月05日 | Weblog
 昨日11月4日は、先週に引き続いて日光へ行きました。朝早く行ったので、東照宮裏の滝尾道には観光客の誰一人としていなく、気分快適に一週間違いで綺麗に色づいた中で、一人静に庚申塔調査をしてきました。勿論それらは過去に見ているのですが、今回はその精査の為にです。特に、滝尾道の手掛け石の近くにある寛文塔、今回は本気になって拓本も取りました。紅葉に中に身を置くと、ついつい景色にばかり見とれてしまって精査が終了したのは10時を過ぎてしまい、我ながら時間の無駄遣いに笑ってしまいました。それでも、拓本を取って初めて判った事もある、やはりこれからの庚申塔調査は今までの調査方法から一歩脱却しての精査が必要なことを実感した。
 その後は、先週も訪ねた白糸の滝にある栃木県最古銘の庚申塔を見に行きました。相変わらず、杉の大木の下に横たわっていました。紅葉の中で繊細な白糸の滝を眺めながら、「そいうえば、この庚申塔の下部に宣告された連座のみは、拓本に取っていなかった」と、一人つぶやきながら駐車場へ戻り、拓本道具一式を抱えてこれも手拓してしまいました。もっとも、こびりついた苔を落とすのに(金属ブラシを仕方泣く使用)多大な時間を要しましたが…。そんなこんなで、この滝尾周辺でほぼ午前中を過ごしてしまいました。そんな訳で、午前中は滝尾道の1其とここの調査のみという体たらくですが、その分を紅葉の静かな景色が楽しめました。
 昼食は、所野の磐裂神社で食べようと混雑し始めた日光山内を離れ、先月に春日部市の中山氏を案内したばかりの磐裂神社へ到着。ところが、前回と違って今回は猿の集団が周囲を徘徊している。猿たちにかかっては勝ち目がないので、境内での食事を広げての昼食を控え、まずはこれまでに何度も見ている庚申塔2基の拓本を取ることにする。もちろん、用心のために手頃な棒を山の中から拾ってきて手元に置き、道具類は一個所に纏めての作業である。今までは紀年銘や銘文を読むだけだったので、その他の個所は泥と苔が酷い。手拓するための碑塔面水洗いに、ここでも莫大な時間を要してしまう。※そんなわけでここの調査に行くのなら、今が最高の状態です。ピカピカに磨いてきましたので(^O^);
 ようやく水洗いも終了し、いよいよ手拓開始となったころに風が吹き出してくる。苦戦しながら両手に両足まで使用して画仙紙を当て、いよいよ墨入れ開始という時になって、突風によって画仙紙が吹っ飛んでいく。泣く泣く、もう一度最初からやり出すが、今度は張り終える前に風が持っていってしまう。幸いにも、猿の集団に襲われないだけましかと思いつつも、そんなことを繰り返してようやく墨入れが完了したのは午後も2時を過ぎていた。この場所のたった2基の精査のために要した時間は3時間強。一体私は何をしているのだと歯がゆくなるが、これが今までの調査よりは深く突っ込んだ精査と自分で慰める。もちろん、この時点で昼食をまだ取っていなかったのは当然である。
 真下に見える学校の校庭を、猿の一団が通り抜けて田に掛けてある稲を引き抜いては喰い荒らし回っているのを見ると、どうにも一人では食事を広げられないと空腹を我慢していたが、もう限界である。車へ戻って窓を閉め、先週に引き続いての遅い昼食にする。
 昼食後は、この磐裂神社から直ぐ近くの滝尾神社にある寛文塔の精査に向かう。その場所は、道が狭くて車が置けないので磐裂神社から歩いていく。その途中の、民家にある柿木という柿木には何匹もの猿たちが登って大騒ぎしている。その脇を通って、庚申塔調査に入るが、流石に猿が周囲にいては落ち着いて拓本を取る気力を無くして写真だけにする。それでもここで小1時間程を費やしてから磐裂神社へ戻る。
 今日は、紅葉見物を兼ねてとはいえ一日でたった4基の庚申塔調査で終わってしまった。単純計算すれば、1基当たり2時間も時間をかけたことになる。嗚呼、一体私は何をしているのだろう。腹を空かせて、腰はバラバラになるくらい痛い思いをしてまで、石仏相手に遊ぶことはないのだが…。せめてもの、もう1基位は調査したい気持ちもあるのだが、今日の所は疲れも感じてきたので日光街道が車渋滞になる前に帰宅することにしました。
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