先週は、もうそろそろ県南へ行っても大丈夫だろうと佐野市へ行ったが、意外と暑かったので今回はまた旧今市市へ行くことにした。そして今夏の目的でだった、今市地震復旧碑残りの三基を一気に片付けることが出来た。最初に訪れたのは、明神中原地区の震災碑、相変わらずすごい汚れようで、バケツ二杯分の水を別に持参したが、その殆どを使用してしまった程である。その画像が、下記に掲載したものだが、画像の最下部に掃除前の苔の状態が移っているが、これがぜんめん全面に付いていたのである。なお、碑陰に、工事内容関係銘文もあり、いつもならこれも手拓するのだが、碑陰を洗うとすると今回は持参した水が足りそうもないので、仕方なく写真撮影での銘文記録とする。
次は、室瀬地区磐裂神社にある震災復旧碑。これには銘文が無いのを以前に調査済みなので、全景写真と裏面にある関係銘文を手写すれば良いとしたが、実際にはその全景写真さえ、石苔で見えないありさま。相変わらず、水で表面を濡らして何とか読めるか!という段階で諦めたが、碑陰にある文字は、折からの逆光で手写もままならないような状態。仕方なしに傘を石碑に立てかけて撮影したが、出来上がりは何とか判読できる始末だった。嗚呼、今回は二基の裏面銘文清書に手こずることになりそうである。そして三基目は、吉沢地区の震災碑。こちらは、すぐ近くに用水路が流れているので水に心配はなし。豪快に水を碑面に投げては思うような水洗いが碑表と碑陰共に出来た。そのために気分よくし、ここの震災碑は裏面の沢山の交名も手拓し、今日の手拓枚数は半切で6枚。
それにしても、今年の夏を振り返ってみると、意外と成果が多くて私の机周囲には未整理の拓本が山積している。勿論、銘文清書もまだなのが沢山ある。これはこれで、困ったものであると自業自得を顧みて苦笑している。そんな訳で9月は4週連続で出かけたことになり、来週も9月中だが調査行は一休みとして、調査済みの1基でも多く清書しようかと思っている。
この石碑の撰文&揮毫は青木安義」で、江戸末期の宇都宮藩にて儒者として活躍した一人です。但し、この石碑では名前の一字、「安」を省略して「藤田義」と記しています。
それでは早速に掲載です。
※語彙説明のところで、上から9行目の「鹿」派別の漢字。とあるは、正しくは「鹿」は別の漢字。のワープロ入力ミスです。全部を訂正して掲載するのは面倒なので、ここでその部分のみを訂正させていただきます。
昨日も、朝から霧雨なので遠出を避けて現日光市(旧今市市)の塩野室公民館敷地に建っている「青木尚徳翁碑」の手拓に行きました。現地に着くも、こちらも雨が降っていて拓本は採れない。そこでいつものよう隣家に声をかけてから、雨の中での碑面掃除。相変わらず、この石碑も汚れと嫌らしい苔が文字の印刻部分にあるので、それを時間をかけて綺麗に掃除する。その掃除が終えても相変わらず雨が降っている。折角ここまで来たからにはと、掃除した石碑に雨傘を立てかけてから、雨が止むことを期待して車中で雨宿り。そして待つこと一時間余、ようやく10時過ぎて雨が上がる。早速碑面を見ると、傘をさしていたために掃除で水分を含んだ碑面は画仙紙がうまい具合に貼れそうな乾き具合。
気分よく水張し、早速に墨入れをしていると、隣家のご主人が様子を見に来る。拓本を採る現場を直接見るのは初めてのようで、興味津々と眺めては、雑談をしつつ作業続行。一枚目を墨入れ終えた段階で、家でお茶でも飲みましょうと声を掛けられるが、今は雨が降っていないとはいえ、いつ振り出してもおかしくない空模様につき、作業が全て終えたらお伺いしますと言って手拓作業を続行。結局、周りの掃除やら後かたずけを終えて隣家に出向いたのは限りなく12時に近かった。「もうお昼ですから、お礼のご挨拶だけで失礼します」といいつつも、余りにも熱心に「お茶一杯だけでも」と勧められて断り切れず頂戴する。世間話をしながらの、熱いお茶の美味しい事この上なし。そして帰り際には、地元名産のお饅頭迄ずうずうしく頂いて現場を離れる。その後はいつもの休憩場所で昼食とし、午後は隣の地区の嘗て拓本を採らせて頂いたお宅に資料等を渡しにお伺いし、そこでも世間話に時間を取られて、結局は午後の部に予定していた石碑の採択は諦めて早めに帰宅する。
さて、そんな訳で今回は拓本だけの掲載をしました。銘文清書などは、終わり次第掲載しようと思っていますが、今週は他にしなければならないことが幾つかあるので、そちら優先で3~4日掛かりそうです。
お約束通り、前回に掲載した手拓画像に続き、その写真と銘文を掲載しました。御笑覧下さい。語彙説明は、その後で手拓画像の頁に付けましたので、残念ながらここでは不掲載となってしまいました。
多分、皆様は銘文中にある「難道」をどう訳したらよいか悩むことでしょうが、どうぞ、楽しみながら格闘してみてください。なお、その下にある「終」は、「ついに」と読みました。また、最大の難問は、その三行目下にある「土」二つの文字をどう料理するかでしょう。これも、皆様の考えと私の意味の取り方にどのくらい違いがありますか気になりますので、ぜひこのコメントへ書き込んでくださると嬉しいです。なお、日光の現地へ観光ついでに行きましたら、そこにある読み下しと私の読みの違いを比べてみると、漢文の勉強になるかと思っています。
知人の展覧会が市内で催されていて、今日はその最終日ということもあって見に行こうという目的があったので、朝の出発時には小雨が降っているも日光へ行ってみることにする。北へ進むにしたがって雨はやみ、何とか今日のもう一つの目的が達成されそうだと、先ずは花石神社に建立されている「焼加羅(たきがら)」碑の拓本採取に向かう。着いてみると、今日は集会所で地元の人々の集会があるとのことだが、拓本許可を話すと快く了解していただける。この辺が、どこかの市町とは大いに異なる住民皆様の心の広さだとつくづく感謝する。しかし、碑面は汚れでドロドロ。集まったご婦人が、集会所にある水道を使って洗えば!と、これまた嬉しい話。全てを甘えて綺麗に磨いてから手拓開始。と言っても、小さな石碑なので手拓は簡単と思いきや、碑面を洗ったのと朝方までの雨で碑面は水分タップリ。画仙紙を水張したものの、まったっく乾かない。仕方がない!と、切れ端の話画仙紙を吸い取り紙よろしく利用してから墨入れした。それが、ここへ掲載した拓本画像である。碑面の水洗い時間を含めて1時間半ばかりで終了。そこで考え、今日は新しい拓本用墨の試し採りを行うことにして再び同じへ碑面に水張。そしていざ墨入れという段階で、墨が少しばかり、いや、ずいぶんと硬い。自分では、墨を柔らかくして持ってきたつもりだが、まだまだ希釈液が足りなかったようである。仕方なくその硬い墨を用いて試してみたが、まあまあ濃さは納得するものの、粘り気が強すぎて慎重にならざるを得ず、思わぬ時間を費やしてしまった。そんなこんなで、今日は同じ石碑の拓本を2枚採ってしまった。日光市で必要とあれば差し上げることにしよう。
次は、近くの八幡宮神社へ行って休憩を兼ねて少し早いが昼食とする。この昼食が行けなかった。休んでいる間に、いつしか小雨が降りだして来た。予定では、境内にある庚申塔の中の1基を嘗て春日部市に住んでおられた故中山さんと採って以来初めて。今日は、改めて採択することにしていたので、慌てて拓本道具一式を抱えて早速作業開始。元々、その庚申塔はひどく荒れた状態なので、手拓するに最高の条件でも文字を読めるよう拓本を採るには難儀な作業。それが雨の中では、どう見てもまともな拓本にはならず。それでも、今夜の難問解読に何度目かの挑戦資料として持ち帰ることにする。
さて、知人の展覧会会場へ行ってみると、準備中で鍵がかかっていて入れない。その辺へ用事で出かけたのだろうと、待つのが大嫌いな私としては珍しく40分近くを現地で待ったが、一向に誰も帰って?来ない。ついに堪忍袋が破裂して、ドアを蹴飛ばさずに體悪言葉を聞くものもいない中で「せっかく日光まで来たのに」と呟きながら、雨の中を帰路につく。
話を最初に戻すと、「焼加羅」碑のある境内には、その銘文の読み下しもあるので読んでみると、少なからぬ箇所で私とは意味の取り方が違っている。まあ、こんな石碑の読みの違いなど、ここへ来る観光客を含めて誰も関心を持たないだろうが、次回は私なりの読みと銘文を掲載したいと思っている。何しろ延宝三年という古さなので、その文字形を含めて非常に面白い上に、短文ときているのでこうした物に興味がある人にとっては楽しい読み物となるでしょうから、お暇な折に挑戦してみてください。なお、拓本画像の行が微妙に傾いている箇所等は、私のせいではなく現物がそうなっています。