石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2012年5月27日、さらに宇都宮市で石碑を発見!

2012年05月29日 | Weblog



 これは、宇都宮市で初めて出会った「養蚕記念」碑です。一基くらいは、宇都宮市内で養蚕に関する石碑が欲しかったところだったので、建立年が昭和十七年と新しいものだが、これは是非とも「宇都宮市の碑」に加えなければと、嬉しい悲鳴を挙げながら調査した。
 ところで、この碑がある場所は日光線の鶴田駅前の農家の庭先。それもメイン道路に沿って建立されていたのには驚き!。何しろこの前はこれまでに何度となく通っているいわゆる地元の生活道路。しかもその少し先には鶴田郵便局まであるという、今までに目に入らなかったのが不思議なくらいの場所に建立されていた。本当に、石造物調査の恐ろしさを再実感といった思いです。
 さてこの碑は、建立されていた当主にお聞きしたところ、明治の戦争で中国へ出兵し、そして帰国したときになぜか出身地の群馬県上州(今は高崎市に合併)へ帰らず、鶴田駅に下りて、そのまま当地に住み着いた二代前の先祖のものだという。戦争から帰ってきたものの、縁のない土地へ来てしまって生活に困り、そこで養蚕を思い立って糊口をしのいだという話を伺う。その中心となったのが、当家の先祖さんで養蚕組合を結成して組合長をしていたという。確かに、碑陰には組合長として当家のご先祖様の名前も刻まれている。
 そんなこんなで、この石碑も宇都宮市にとっては当時の生活を知る上で大切なもの。拓本も欲しかったが生憎と風が強く無理なので、後日にまた来ますと挨拶してから碑文を手写して帰宅する。
 嗚呼、それにしてもこの石碑出現によって、「宇都宮市の碑」としての纏めは既にノンブルまで入れてしまったのに、それを最初からやり直さなければならない。200ページ余のノンブル入れ替えとは、またまた大変な作業を自ら作ってしまったことに苦笑しながらも、それ以上に欲しかった内容の石碑だけに不平を言わずそのうち組み替えようと思っている。

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2012年5月27日も蒲生君平の碑文手拓作業で一日が終わりました!

2012年05月28日 | Weblog

 先週に引き続き、今回も朝から宇都宮市二荒山神社にある蒲生君平の碑文手拓作業に入りました。朝8時40分から始まり、昼食時間を30分取った以外は休みなく手拓作業を行い、何とか午後の3時40分に終了しました。本日の使用した画仙紙枚数は半裁で10枚。それを実働6時間半余りで終了させられたので、まあ作業時間としては妥当なところかと思っています。尤も、墨入れには 、少なからず不満がありますが…。
 途中、昼ごろには嫌な風が吹き出して、水張りした画仙紙が風で飛ばされること三度。何しろ上部は狭く不安定な台座に登って背伸びし、やっと銘文上部に届く高さなので、テープで止めることも出来ない有様なので仕方がないとは言え、苦労しました。参拝に訪れたついでに眺めていた外野の方から、「嗚呼、剥がれてしまった」と私の変わりに嘆きの言葉をかけられる始末に、思わずこちらが苦笑してしまいました。
 とにかく、念願だった蒲生君平の碑文拓本取りが終了したのでその喜びは大きいのですが、終わった瞬間の感想としては「嗚呼、疲れた」。そして当分は、手拓作業はしたくない気分になりました。クタクタ、ヘトヘトになりながら、疲れきった身体に鞭打ってママチャリで帰宅し、居間に広げると改めてその大きさに、一人で手拓を成し遂げたことに感心しました。
 さて次は、それをどう料理するかです。碑文の再校正だけでも大変なのに、その内容を書き留めなければならず、またしても当分の間は毎夜毎夜、漢文と格闘することになりそうです。何しろ、二荒山神社で配布している二枚の資料にも間違いが散見しているので、それを正してあげなければならず、当分はその作業に没頭することになるでしょう。それと、手拓した拓本を画像化しておかなければならないと思っていますので、それもどうしようかと思案中です。何しろ、今回のこの蒲生君平の碑文拓本を持っているのは、私だけだろうと思っているから、それを公開する責任もあるかと思っている。
 これで、宇都宮市の石碑で拓本として残しておいたほうが良いかなと思っているのは数箇所。ここまで来たからには、ついでに手拓できるものは取っておいた方が良いかなと、新たな欲が出てきた。本当に困った性分であると、苦笑している現在である。

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2012年5月19日も結局は宇都宮市街地の碑文手拓でした!

2012年05月20日 | Weblog

 宇都宮市二荒山神社宮司さんから私の碑文調査に賛同されまして、特別に彼の「蒲生君平」碑手拓の許可を頂いた。こうなれば、他の石仏巡りに出かけてのんびりするどころではなくなり、それこそ今回の宇都宮市碑文調査の最後を締めくくるに相応しい拓本取りとなる。しかし、何しろ相手は大きい。碑文の実高だけで203センチ。幅は180センチは優にある代物。しかも足場は悪いときているうえに、踏み台無しでの手拓作業となる。許可は戴けたが、その作業は私一人である。
 その作業に入るには決心が必要と、取り敢えずは本殿の東側にある「円山魯庵先生紀恩碑」から始めることにした。これも、今までに何度となくその前に立って碑文を手写しつつ拓本が欲しかったもの。しかしこれも碑文のみの実高だけで180センチり、画仙紙半切で5枚半ほど必要な面積である。ここへ来てあせる必要もないと覚悟を決めて時間をかけのんびりと手拓する。その間、流石は二荒山神社である。拓本取りの現場が見られると、お年寄りから若い人まで興味津々と眺めていく人がいて、中には話しかけてくる方もいる。それでも、早朝からの蒲生神社境内の再手拓を終えてから取り掛かった拓本取りも、何とか午後の1時頃に終わる。体力的にかなりのハードさだったので、昼食をかねて境内の片隅で大休憩。本心は、もう今日の手拓作業を終えて帰宅したい気持ち。
 一時間ほど休憩を取ったためか、やはり蒲生君平の碑を触らずに帰宅するにはもったいなく思う気持ちとなって、碑面の掃除を一通り終了し、午後2時半頃から碑文上部に手が届いて手拓出来るかを試みることにする。画仙紙を貼り付けるには精一杯背伸びすれば碑文上部の少し上まで可能と判り、今日は画仙紙半切1枚分幅の試し手拓として取り掛かる。そしてその手拓方針を今までとは異なって、とにかく碑文文字が読めれば良しとして画仙紙を張り終えるやすぐさま墨入れを行う。その結果、一列目を手拓終えるまでに1時間半程で全作業を終えることが判明した。もっとも、出来栄えは墨入れの濃淡がまちまちで、どう見ても見栄えは悪いがそれには目をつぶることにした。この時点で、午後4時。本日はここまでとし、社務所に来週もお邪魔しますと挨拶してから帰宅した。いや~あ、それにしても今日は疲れました。それでも、宇都宮市の石碑では最も欲しかった蒲生君平の碑文が手拓できるとあって興奮気味で帰宅。「何でそんなに嬉しそうな顔をしつつも疲れた表情なの」と、家内に笑われる。
 いずれにしても、これからは毎週二荒山神社へ通うことになるでしょう。他地区の石仏たちに妬まれつつ…。これまでに誰も(多分)手拓したことのない、蒲生君平の碑文と接することの出来る喜びで。

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2012年5月12日も宇都宮市街地の碑文再確認でした。

2012年05月13日 | Weblog

 早朝から、余りにも早すぎる時間に蒲生神社へ着いてついてしまったので、社務所へご挨拶もせぬまま(尤も、前回に断わって了解を得ていたが)、先週の雷雨で途中になっていた縣六石先生碑の手拓作業に取り掛かる。全紙一枚分の大きさだが、相変わらず念のためにと半切用紙で2枚を手拓する。早朝と言う事もあって風もなく、太陽もまだ石碑までには届いていないので本当に暫くぶりに快適な、満足のいく手拓作業となって、途中で休みながらも約2時間弱で終了する。この時点で、先週に中途半端に取った半切分の手拓を再度取り直すかで悩んだが、結局は「まッ、良いか」と相変わらずの好い加減さで取らなかったが、帰宅してからその今日の分との墨入れの違いが余りにも酷くて、今更ながらに再度手拓しなかったことを大いに反省する。
 さて、本日の主たる拓本取りはこれで終了。帰りがけに宮司奥様に声をかけると、宮司さんはあいにくと外出中とのこと。くれぐれも宜しくと挨拶し、次の目的地である二荒山神社へ向かう。早速に社務所へいくが、ここでも生憎と宮司さんは出張でお留守とのこと。仕方がない、今回で何度目かの境内にある碑文再確認を約2時間かけて行う。そして以って、本日の作業は終了!。帰宅するにはあまりすぎるほどの時間だが、かといって他の所の碑文手拓をするには風が強く吹いているので拓本取りはこの時点で諦める。そこで、これまで行こうと思っていながら行けずにいた、花房町にある常念寺さんへ行くことにした。この墓域に、日本で最初に印度独立運動を唱えた丹野清先生の墓があるので、一度はお参りかたがたその没年を確認したくて…。そして昭和37年2月7日に88歳で亡くなるまで50年以上に渡って印度のために活躍したことを確認する。またその戒名も、いかにも丹野先生らしく「清照院丹譽印度大居士」となっていた。
 この常念寺さん境内の石仏もついでに調査してしまうと、今度こそ行くところがない。そこで仕方なく、トボトボとママチャリに乗ってとてつもなく早い時間での帰宅となり、家内に「どうしたの!?」と不思議がられてしまう。
 これでもって、一応は宇都宮市内の碑(いしぶみ)調査は終了することにした。たった、80基余りに1年以上も掛かるなんて日光の江戸前期までの庚申塔調査以来である。尤も、本当はもう少し碑文再確認と拓本を集めなければとは思うが、些か疲れ気味である。そんな訳で次回は少しのんびりした石仏を眺める予定を立てようと思っている。そうそう、当ホームページに掲載した「宇都宮市の碑」は、最も新しい内容となっています。

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2012年5月6日も宇都宮市街地の拓本取りでした!

2012年05月08日 | Weblog


 今年の大型連休中は、連休途中で悪天候もあったので遠出出来ずに宇都宮市街地だけの石碑拓本取りに終始してしまいました。
 さて今回は、朝食もそこそこにしてママチャリに飛び乗り、最初に到着したのは宇都宮市清住町の琴平神社。ここには船田兵吾(作新学院の創始者)が撰文した「重田先生之碑」があるので、その手拓取りである。早朝と言うこと以上に、今日は高気圧が南から北の高気圧へと入れ替わったので、その気持ちよいこと。タンポの響きもよろしく、暫くぶりに気分の良い拓本取りが出来ました。そこで、とり終えた手拓を大地に広げて眺めようとすると、その目線の先に入ったのは、上記の重制石幢六地蔵。昨年にここへは二度来たが、その時は全くその存在に気づかなかった。我ながら、その注意散漫な調査能力に呆れてしまう。しかも、宇都宮市内の石幢六地蔵調査は完了したものとして、既に一冊の本として纏めてしまっていた。完全に、この石幢はそこから抜け落ちてしまったことになる。今更しかたがない。として、調査項目を台帳に書き込んで写真を撮る。なにかの折に、追加としてどこかへ掲載しておこう。
 それにしても6日の急変した悪天候には驚きました。帰ってからのニュースで、茨城県から栃木県東部にかけて突風による大災害があったことを知り、「嗚呼、やっぱり」と、とにかく、その真っ黒な雷雲は、お昼前後にかけての強い雨風に加えて雷鳴のすさまじさ、しかも宇都宮中心地から見るに、それは急速に筑波山方面から進んできた様子を眺めていただけに納得しました。災害に遭われました皆様に心からお悔やみ申し上げます。
 私はその時、蒲生神社にいましてまさに手拓開始という状態のときに、宮司さんから間違いなく雷雨になるから早めに避難したほうが良いと言われ、慌てて道具一式をザックに仕舞い込んでママチャリに飛び乗り、県庁前の建物に逃げ込みました。雨風が押し寄せる寸前に逃げることが出来、嗚呼良かったと胸をなでおろしました。特に強風が収まったのを幸いとその後は、県立図書館へ移動し、雨宿り代わりに職員の方を捕まえ雑談で時間を過ごしました。その後、雨も止んで晴れてきたので再び蒲生神社へ戻り、縣六石の碑文手拓を開始しました。そして再び碑塔磨きを終えて画仙紙を張り終え、いざこれから墨入れという段階で再び雷鳴が轟き始めました。そこで気づいたのは、コウモリ傘を県立図書館へ置き忘れてきたこと。急いで、画仙紙を貼り付けたまま宮司さんに断って傘を取りに図書館へ飛んでいく。幸いにもその往復した間に雨は降らず、しかも画仙紙は「早く墨入れしなさい」とばかりに乾きだしている。いずれにしても雨が落ちてこないうちにと、出来栄えよりも何よりも墨入れに専念する。そしてもう少しで石碑の半分が終わる頃、ついに雨が落ちてくる。それを見ていた宮司さんが後ろから傘をさしてくれて、何とか画仙紙を張り終えた所までは完成させることが出来た。流石にこの頃になると、残りの半分はあきらめざるを得ず、来週の宿題として残し、宮司さんに厚く御礼を述べて帰路につく。私の住まいは、宇都宮中心地から見れば西側、自転車を走らせるに従い、雨も小ぶりとなりやがて傘も必要がなくなる。後ろを振り返ると、宇都宮市街地は真っ黒な雲の中にあって、今回の雷雨はいかに地域の狭い地区に集中的に降ったことが理解された。さて、帰宅してから手拓したのを広げてみると墨入れがムラムラ、これもあの状態では仕方がないと諦めもついたが、文字だけはバッチリ読めるのでよしとしよう。そして次回は、今回と同じように早朝から蒲生神社へ行って続きの手拓開始から始めようと思っている。

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2012年5月4日、今日も雨!

2012年05月04日 | Weblog

 今年の連休は、昨年以上に石造物調査の予定を立てていましたが、悪天候にたたられてその半分も消化出来ません。もちろんその中には遠出も予定していたのですが、もちろんキャンセルとなりました。
 それでも、4月29日は宇都宮市街地の碑(いしぶみ)調査の最終段階としてどうしても欲しかった拓本を手拓してきました。その一つが宇都宮市西原町にある「菊地愛山寿碣碑」でした。この碑は、北向きに設置されているので写真はいつ行ってもうまく撮れない碑の一つで困っていたものです。それと、材木町の大運寺跡にある「尼港殉難者碑」も、官費での建立なので、これも結局は手拓してきました。それと、宇都宮の東南地区の桑島にある「吉良君八郎之碑」も、手拓出来ました。この吉良君八郎之碑は、菊池教中の嫡子である経政の書及篆額で、撰文が大橋訥庵の嫡子正となっていて、この拓本を以って、栃木県内のいわゆる佐野屋一族による碑文石は一基だけを抜かして手中に収めることが出来ました。ホッツと一安心です。その残る一基は、宇都宮市材木町の観専寺さんにある高久靄の「靄山人之碑」ですから、もう完全に手拓お願いはあきらめています。
 そこで、今年の連休が終わるまでにはもう一日だけで良いから宇都宮市街地へ出かけたいと思っている。少なくも、あと2~3基の碑の手拓をしたくて…。

嗚呼、それにしても那須方面に一日でよいから行きたかった。何しろ、そこには「象に乗ったお地蔵様」が山頂の祠にあると言うのだから、それは間違いようもない猪騎乗の愛宕地蔵さん。那須町での愛宕地蔵を探している私にとってはこれで5基目になる久しぶりのgoodニュースなのだから…。それと、面白い庚申塔があるらしいので、それも見たかった!

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