石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

昨日8月28日の石仏巡り画像を掲載しました!

2011年08月30日 | Weblog
イヤ~ア、暫くぶりに石仏巡りの内容を別HPの方へ掲載しました。余りにも暫くぶりだったので、サイト掲載にまごつく有様で、一人で笑ってしまいました。
当然ながら、今回は数も少なく中身も薄いのですが、まあ暫くぶりに石仏巡りが出来た嬉しさで掲載しました。これからは、この掲載が続けられることを自分の腰に願うだけです。
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二ヶ月振りの石仏巡り再開です!!

2011年08月29日 | Weblog
昨日、8月28日は二ヶ月ぶりの石仏巡りに出掛けました。何しろ、腰の痛さも忘れるような朝からさわやかな秋空になっていたので、もう好い加減おとなしく部屋に閉じこもっていることが出来ません。尤も、目的は石仏巡りだけでなくマタタビの今年の実り具合も気になってのことです。
 最初に訪れたのは、過去に見ていながら碑文書き写しが面倒で調査を先送りしていた宇都宮市福岡町の個人宅敷地にある頌徳碑です。漢文体ではないので、それほど時間が掛からないかと思いきや、やはり一文字ずつ書き写すには約二時間ほどその碑の前に立ち尽くすことになりました。幸にも、腰の状態に変化はなくヤレヤレと安心感と、何となく嬉しくなりました。次いで、これも面倒が先に立って調査を見送っていた、近くの高台にある観音堂へ立ち寄る。森の中の高台だけに、涼風を浴びながらの暫くぶりの石仏調査。調査を終えた後も去りがたく、暫くその縁台に腰掛けてのんびりしてしまいました。それにしても時間が経過するのは早い。早くもお昼近くとなったので、その後は宇都宮市と今市市の境になる新里町と猪倉町の山へ入る。勿論目的は、今年のマタタビの出来具合の確認である。そして今年も例年通りに実っているものの、収穫にはまだ二週間ほど早そうである。また、実っているマタタビはその全てがいわゆる「虫こぶマタタビ」となっていて、普通の実が周りに見あたらない。まあ、マタタビの実としては高級とされる「虫食いマタタビ」なのだから、次回の収穫日が楽しみである。そして地域ネコとして面倒を見ている野良猫達のために、10個ほどをポケットにしまい込む。
 そうそう、その途中で今は廢道となってしまった新里街道の峠にある「道祖尊」の今の状態を確かめに行く。その現在の姿が、ここへ掲載した道祖尊の全景写真である。この金精様は、栃木県で最も立派で大きなものであるが、こうして一般の方が入れなくなったために悪戯される確率も少なくなって、秋の佇まいが漂う風景の中に好ましい姿であった。
 昼食後は、宇都宮市の宝篋印塔最後の調査値として残して置いた田下町の多気不動尊へ向かう。住職さんも読んだことがないと言う、垢で文字が埋もれている石面をタワシで磨きながら四面全ての経文を読み終えるのには、やはりそれなりの時間が掛かってしまった。この頃から、腰が重く感じるようになってきた。境内にある、その他の石造物を幾つか再調査してから下山する事にしよう。ちなみに、この多気不動尊の急な階段途中にある狛犬が、宇都宮市での最古の紀年銘を持つ元文四年銘である。
 下山の為に住職さんに挨拶すると、私のために訪れると良いものが見られるという個人宅を詳細な案内地図と共に紹介してくれる。そんなご親切なら喜んで訪れる事にして地図便りに行けば、そのお宅はいかにも由緒ある構えとなっていて、只のしもた屋とは異なっている。早速、住職様から紹介された旨を伝えると危険なハチが二箇所で巣を作っていることと、三月の大地震で多くの石塔が倒れてしまっているので注意してくださいと、個人墓地見物の了解を得る。確かに、その墓地は十万石の大名の墓域をも超えるような大きさであり、何と言っても其の個々の墓室の立派さに驚かされる。今までにも、墓地は沢山見てきたつもりだが、ここの墓地はその域を遥かに超える驚くほどの素晴らしさだった。もしも私に、墓地調査の能力と興味があったなら、栃木県の墓地として筆頭にすべきものだと。奥様に伺えば、祖は元々武士の出身であったとのこと。また個人墓地故に、一般に知られることも好まないとのことであった。
 お宅を辞したのは午後2時半、腰の状態はまだ我慢できる程度だが今日の所はこの辺で終わりにしようと、その後は暫くぶりに楽しんだ石仏巡りと山遊びを終えて帰路に就く。
次回からは、九月。この調子でまた少しずつ石仏巡りが出来ることを、自分の腰に願いつつ。
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石仏調査についてこの頃思うこと

2011年08月21日 | Weblog
突然の、昨日からの涼しさ! ついつい、その涼しさに誘われて昨日は冬野菜としての白菜の種まきをしてしまいました。暫くぶりに、心地よい?汗をかきながらの農作業に腰の痛さも忘れるほどでした。今年の夏は、腰の痛みでろくに草取りもしなかった畑は雑草が伸び放題。特にスイカ畑は酷く、タネのついた雑草の穂先だけを緊急処置として切り取りました。いや~あ、それにしても今年はスイカを沢山食べました。毎日毎日、一人一個宛で食べても追いつかない有様でしたが、赤と黄色身のスイカを日替わりで食べ尽くし、それも昨日で最後の収穫を感謝しながら終えました。
 さて、そんな昨日は今年最後のスイカを頬張りながら、これからの石造物調査について色々と思いました。特にそれは、ここ二ヶ月間一度も石仏巡りとしては外出せずに部屋に閉じ籠もっていたからなのだろうが、今までの石仏巡りについて反省するところ、大なるものがありました。その第一が、「石に刻まれている文字を疎か」にしたこと。それは、これまでにも私なりに他の人以上に文字のは気を遣っていたつもりなのだが、それでも過去の調査記録を見ると嘆かわしい物が沢山あります。第二に、「調査した数が気になった」こと。石造物調査は、その調査数ではなく調査した中身にあると自覚していたつもりだが、やはり「数量」という魔物に知らずして陥っていた感がなきにしもあらずでした。そんな「数量」は、結果論としてついてくる物だと認識しつつも…。第三に、石造物の調査対象を限定してしまっていたこと。確かに、神社仏閣にある附属物については等閑であったことは認めざるを得ないが、その他の石造物についても目がいっていなかったことに気づきました。従って「見えているのに観えず」、「読めるのに読まず」の石造物が、今こうして過去の調査値を振り返ると沢山あることに気づかされています。
 そこで、これからの石造物調査は何よりも「一基づつ碑塔を大切に調査する事」、と覚悟を入れ直しました。特にそれは、今回のような大地震等の災害に遭えば、野に建っていた石塔類の多くは倒れそして信仰心の薄くなった今はその半分も元に戻すことなくなっています。それは、現在私が取り纏め中の「石幢」や「近世の大形宝篋印塔」関係石造物に言えることで、那須地方等の栃木県東北部では私が撮影した写真が最後の写真という例が少なくありません。百基が集まれば見事な物ですが、それも元々は一基づつの集大成。その一基毎を今以上に大切にしていこうと思っている。当然ながら、そうなるとそこに刻まれている文字は、その中でも最も大切にすべき物であって、今までのような、関心ある碑塔だけに限定せず、文字がある碑塔類はその文字1文字づつを大切にしていきたいと思っている。
嗚呼、それにしても腰がいたい。本来なら、今日は雨さえ降らなければ山地へ入って、今年の事前「マタタビ」調査(もちろん、秋に収穫する実の確認です)の予定だった。これも、山へ入ると益々性格が変貌する私のことだから、神仏が事故のないよう、そしてこれ以上腰が悪化しないよう留めてくれたのかも知れない。
 いずれにせよ、ここへ掲載したアゲハチョウの脱皮し終えた写真のように(早朝に脱皮が始まり、飛び去ったのは夕方。まったく、それまでをのんびり観察していた私達は馬鹿だとつくづく思う)、これからの私の石造物調査は今までとはまた違って変わらなくてはならないと痛感している。
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セメント塗りの神社標柱について

2011年08月18日 | Weblog
天気予報によると、今回の酷暑は今日が山場で明日から少しずつ涼しくなると云う。ホウトウかな?、と思いつつもそうなることを期待している。
さて今回は、暫くぶりに石造物を話題の俎上にしようと思う。先ず、上に掲載した写真をご覧下さい。よく見ないと分からないかも知れませんが、標柱の上部2文字がコンクリートにて塗りつぶされています。それを含めて読んでみると「村社星宮神社」とあります。その内の上部2文字「村社」がコンクリートで塗りつぶされています。しかもその塗りつぶしは、明らかに「村社」と読めてしまいますから笑ってしまいます。
これは、第二次大戦敗戦によって行われたものであって、それはGHQの占領下における名残りでもあり、軍国主義の精神的な基盤となった神社の標柱にまで波及したものです。こんな田舎の神社も、軍国主義を排除しようとしてコンクリートで、その地区の精神的神社の名前の上に付いている「村社」という文字が「イカン!」となって、塗りつぶされたのです。その為、その地区の人々はお上の命令とあれば仕方なしと従ったものの、それは反発心もあって完全には消さない形でこのような姿になったのでしょう。それにしても、その当時はGHQの命令が絶大だったとは言え、それに反論できなかった為政者も馬鹿者揃いだったのですね。村の鎮守の標柱文字を消したからと言って、何の意味も無いことを理解できなかったのかと、こうした標柱を見かけるたびに笑ってしまいます。
そんな標柱、あなたの住んでいる神社にもありませんか。こんなことに興味を持つのも、石造物に関心を持ち始める第一歩です。ちなみに、ここへ掲載した神社は我が家から30メートルばかり離れた田舎の神社です。
その神社境内には「国威宣揚」などという、戦争言葉が台座に刻まれた狛犬があり、それは無傷なのだから、余計に笑ってしまいます。
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残暑お見舞い申し上げます

2011年08月17日 | Weblog


毎日毎日、残暑と言うよりも酷暑が続いていますがご、皆様におかれましてはご健勝にお過ごしのことと拝察しております。
当方、今年の夏の石仏巡りは完全休養日としてサボっていますが、それでも旧盆が過ぎると何となく今秋の石仏巡りの予定を立てたくなってしまいます。まあそれでも、もう少し腰の状態を安定させてからにしようと思っていますが…。
 そんな今年の旧盆中に、石仏関係の冊子が同時に二冊届きました。一冊は、多摩石仏の会様の「野仏」第42集です。拝読させて頂いて思うのは、多摩地域の機関紙でありながらページの半分以上が他地域の物。また、会の機関紙へ掲載する内容と個人誌へ掲載すべき内容とが混同していたり、どう見ても十分なフィールド調査ではなく他の文献抜粋からの投稿など、今の石仏界の機関紙の現状を見る思いがしました。尤も、編集者が替わったための編集方針の変更と思えば仕方ないのかもしれません。
もう一冊は、石川博司氏の「石佛雑記ノート42」です。獅子舞に専念したく、多摩石仏の会を退会されてから数年、それ以後もやはり石仏の世界からは完全に足を洗うことが出来ず、折りに触れては趣味程度に石仏と接しておられる様子。何よりです。研究の世界から趣味としての石仏に移行されました石川様の益々のご健勝を願いつつ拝読させていただきました。
それにしても、その間(いや、指折り数えてみたら石仏巡りを中止してからまだ二ヶ月ばかり)、私といえば部屋に閉じ篭り状態。パソコンや辞典・辞書類を眺めているばかりで、もう何年も石仏に接していないような幻覚に襲われています。早く、この痛い腰から抜け出して、石造物の前に立ちたいと、心底から思うこの頃です。
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