石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

今回の、碑文調査最終報告です。

2016年12月24日 | Weblog

昨夜、拓本画像のパソコン取り込みが終わりましたので、今回の碑文清書の最終として手拓してきた画像を掲載いたしました。暇な方は、前回までに掲載した内容と合わせてご笑覧下さい。そして、この拓本画像文字を見ると判るように、私が最終校了とした物でも、厳密にはまだまだ文字の修正が足りぬところばかりなのが判るでしょう。それは、第一に楷書の神様と言われた巻菱湖の書体を明朝体で現わそうとしていること自体に無理があることなのです。私のは、それに少しでも近づくための便宜的な修正に終始したに過ぎないのです。そのために拓本を採り、こうして実物を画像化して掲載することにしているのです。石碑の碑面にはたくさんの傷があり、また石材は根府川石を使用していながらずいぶんと表面は劣化しています。時代経過と共に致し方の無い問題なのですが、やがてこれも益々劣化して文字も消えていくことでしょう。その前に、こうして手拓して後世に残せる資料が出来ただけでも今は良しとして拓本を採っているのも、一つの私の責務かなと思っています。
なお今回の拓本採りで思うことは、最近になって某会の人たちが遠路から来て拓本を採っていったと、住職さんに伺いました。それだけに、私の番である今回は余りにも綺麗に磨かれ過ぎていたので、何の苦労も無く手拓できましたが、私の感想としては少し磨きすぎたのではないかと思いました。特に篆額部分は、文字が欠け始めているので本来なら易しく丁寧に水洗いすべき(私ならの話です)箇所だったのではないかと思いました。石碑によって、ただ綺麗に拓本が採れれば良いという磨き方ではいけないと私は考え、また実行しているつもりだけに、今回のこの碑の状態を見て考えさせられました。いわゆる、碑としての味わいが消えてしまっていたからです。その辺が、銘文を読むための拓本採りと、拓本が欲しいが為の拓本採りの思想の違いかと、自分を含めて省みること大なることがありました。そんな所が、拓本採りだけを趣味としている人と確固とした目的を持って手拓する私とで、はどうしても相容れないところがあります。
さて、今年の石碑調査も終わりが近づいてきました。今年最後の石碑調査は、来る29日に佐野市での仲間との忘年会を兼ねた石碑調査1基で終了予定です。今から、楽しみにしているので願わくは暖かい無風の一日になることを願うばかりです。

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前回の銘文を再校正し、最終校了を作成しました

2016年12月23日 | Weblog

前回の初回銘文清書(画像右側)を、最終的に拓本を見比べながら最終校了(画像左側)をしました。ご覧のように、1回だけでは文字の間違い(宋を宗としてしまった)やら、作字文字の間違いに加えて修正を忘れた文字等(赤文字の箇所)、30文字以上もダメ出しが生まれてしまいました。今回は銘文が短かったのでこの程度で済みましたが、これが千文字もある碑文ですと、それはもう目も当てられないほどのダメな文字が出てきて、校正を何度も繰り返す羽目になります。本当に、文字校正は難しいものです。なお明日は多分、この銘文の拓本画像を掲載して、今回のブログ内容を終わりにしようと思っています。どうぞ、本物の巻菱湖の書風を拓本から味わってください。

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疲れたので、前回に掲載した石碑写真の銘文清書過程を公開しました。

2016年12月22日 | Weblog


今週は、前回手拓したのを基本に銘文の清書作業をしましたので、それを暫くぶりに公開しようと思い掲載しました。右側の赤文字が多い方が、拓本を見ながら初回用銘文作成としてパソコンにある文字を使って作り、その銘文文字で新たに外字として作成する文字&文字が無いものを■で表し、同時に修正を加えなければならない文字等も赤で表したものです。それにしても、その作字と修正文字の多いこと。修正した文字やしない黒字の文字さえ厳密に言えば修正したいのだから、流石に菱菱湖の揮毫だと呆然とするだけです。それを、根気を継続して作字&修正したのが左側のものです。これとて、まだ今夜の拓本との最終校了が終えていない段階のものなので、実際には文字形どころか間違ってしまった文字まで出てくることでしょう。その校正を経て、初めて最終校了としての文字修正を行って完了です。
勿論その前に、銘文の読み下しを自分なりに行って全体的な意味を把握します。それをしないと、とんでもない文字の間違いに気づかぬままに作成してしまうからです。
出来れば、次回はこの手拓したものを画像化したものを掲載したいと思っています。この、手拓を掲載する意味は、こうして作成した最終校了銘文文字の間違いを、それを見た読者や自分自身で笑って頂く為のものです。時々、石碑などの拓本を採っただけで喜んでいる人がいますが、私の場合は拓本は銘文校正の基本資料としての物です。従って、どうしても見た目に素晴らしい拓本採りよりも、銘文の明確さを最大の目的として手拓するので、未だに手拓作業に甘さがあって納得する拓本が採れずに苦笑しています。
さて、こんなことをしている内にまもなく年末。前回は手拓した石碑は2基。残りの1基は、まだ手付かずのままに居間にぶら下がっている状態。何とか、年内にこれもケリを着けたいものと少しあせり気味です。

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確認しながら、拓本を採らなかった喜連川町の最後の石碑を手拓しました。

2016年12月20日 | Weblog

2014年に、栃木県喜連川町(現・さくら市)の石碑はこの1基を除いては全て調査済みだったのだが、今回の石碑だけは出来るなら知人と一緒に手拓したかったが、その彼も私からの声かけが遅かったとみえて単独で調査済みだったのを後で知る。これはしまったと思いつつも自分の至らなさを反省しつつ、今回で何度目かのお寺さんへ行き手拓してきました。これは、朝川鼎が撰文して巻菱湖が篆額と銘文を揮毫し、窪世祥が彫ったものです。高さは82センチ×幅57センチという小ぶりな石碑です。碑面には升目があるので書丹である。然しながら、銘文中に3箇所の改刻した所があり、撰文者(の可能性が大)或いは揮毫者の何かの理由で彫刻が終了した後で銘文の一部を変更したのが見てわかる。そして何よりも私の不満は、この碑文人物の活躍が当地(喜連川公から月俸を賜ったとあるので地元で活躍したとは推測されるが)でのことなのか江戸での活躍なのか、またそれ以外の活躍経歴が全く判らないことに加え、なぜこの碑の建立にこれほどまでの当代一流の人物が関わっているのかも何も判らず推測も出来ないこと。採択しながらも、嗚呼もう少し内容を詳しく記してくれていたならと、この人物について深く調査もせずに残念に思うのは私一人なのだろうか。
※10行目にある改刻箇所「其塟也□」の4文字の所は、意味的に考えて「其先塋次」だったのではなかろうかと、無学を承知で消えた文字を想像しては苦笑している私である。その理由として、4文字の所の最後の一文字が文字がなくなっているからである。蕨字でないことだけは確かなのだから‥。
そうそう、それとこの碑文登場人物の「津村雨林山人」については、栃木県歴史人物辞典に出ていることが、山口氏のご教示にて判明しました。ありがたいことです。年内に図書館へ行って見てきます。

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栃木県塩谷町の明治35年足尾台風災害碑の御紹介

2016年12月15日 | Weblog

11月のブログで、塩屋町の災害碑写真を紹介したが、これはその2基目の同台風災害碑とも言うべきもので、内容的には前回の石碑と同じである。そして平文なのでこちらのほうが読者には優しい。ただ、所在地だけはメッタ探しにくいところにあり、私も当地の石仏巡りをしなかったなら出会えなかった石碑(石灯篭の竿部に刻まれているのでなおさらである)だと思う。また、この碑文によって、今まで数少ないながらも石仏などに利用されているのに出会っていた赤みのある石が、何の石かが判らなかったったが、それが小豆石という鬼怒川で限定的に採れる石だということが判明した。機会があれば、もう一度拓本を採りたい1基でもある。

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