石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

4月29日の石仏巡り

2006年04月30日 | Weblog
※この頃、文章がだらだらと長く、申し訳ないと思っています。何か、別の書き方を考えます。

4月最後の石仏巡り
昨日4月29日から、いよいよ今年最大の大型連休の開始である。そして毎年の事ながら、私といえばこの期間中はいつもの石仏巡りとは異なり、栃木県内のあちこちをさまよい歩くことになっている。
その例に漏れず、今回の初日もいつもの足利市の石仏巡りから離れて、栃木市へ入る。しかし、この栃木市の寺院さんと私は、なぜか相性が悪い地区なのである。最初に乗り込んだ、皆川城内町の曹洞宗金剛院で早速にその洗礼を受けて、歴代の皆川城主が祀られている墓地を見学に訪れただけなのに、身元調査から始まる嫌な思いをさせられてから、しぶしぶ承知(と、その態度から感じた)となる。
なぜこうも、栃木市の寺院さんは私を嫌うのだろうかと最初に栃木市の寺院を訪ねた頃は思い、その嫌な経験の積み重ねから、いつしか栃木市の寺巡りは敬遠してしまっていた。しかしその後、どうもそう感じているのは私だけでないことを、歴史好きで栃木市の寺院を訪ねた皆様からも同様の体験を聞くに及び、その嫌な思いを受けたのは私のみならず、これは栃木市の人間性にあるらしいことが判った。いずれにせよ、私は栃木市の寺院は好きになれない。が、そういっていては石仏巡りの成果があがらないので、いっそのこと「栃木市の対応の悪かった寺院」一覧表を作ってみようと考えた。そしてどんなに嫌な目に遭っても、とにかくひたすら堪えて石仏・石造物を調査したいと思っている。
 しかし、金剛院の本堂前に建立されている石燈籠、これは文句なしに素晴らしい!。家人の目を気にしながら、その銘文を読んでみると「寛永十年」とあるから、納得する。やはりこの時代の石造物は手抜きがなく、見ただけでその存在感を与えている。
 その金剛院へ行く手前に城下北公民館があり、そこに観音堂が建っている。その敷地には合計で11基の碑塔が集められていて、中にはなかなか面白い物もある。その内の舟形に浮き彫りされた2基の青面金剛像、岩舟石のような石材が災いして今はかろうじて青面金剛像容であることが判る程度だが、像容としては古そうなだけに何とも残念である。
 続いて、真言宗・成就院へ向かう。丁度、住職さんが境内の草むしりをしていたので石仏調査の許可を頂くと、ここではすんなり了解してくれた。車を置かせていただいて、道路入口に祀られている碑塔を調査する。ここでの目玉は、享保四年の四臂青面金剛像容塔である。また、享和二年銘の十九夜供養塔の如意輪像も素晴らしいが、こちらは覆屋の中にあるので、調査するだけでも大変であるのが残念。そして面白いのは、境内にある梵鐘で、戦争に為に供出してしまってなくなった梵鐘再建を始めたところ、近くの持明寺さんのご厚意から譲り受けた物であることが記されている。昭和41年製だが、光明真言梵字が刻まれている。
続いて向かうは、大楽院である。ご挨拶に行くと、生憎と留守で誰もいない。境内には大きな宝塔型宝篋印塔が建っているだけに、その銘文を読むためにも承諾を得たかったが留守とは致し方ない。途中で家人が戻ってきて、了解も得ずに調べていて叱られたのではかなわないので、少し焦りながら銘文を写し取る。が、その偈文はあちこちからの良い所取りなのですんなりとは行かずにやはり30分近くかかってしまう。その後は入口に散在している碑塔の調査、こちらはすんなりと終了。以上でもって、栃木市柏倉町内の碑塔調査は終了したことになる。
 栃木市の碑塔調査はこのくらいで切り上げ、次の今日の目的地であった葛生町の小藤神社へ向かう。そしてその途中、これまで何十回となくその前を通っていながら一度も立ち寄らなかった道路沿いの碑塔を気まぐれ的に覗いてビックリ!。そこの覆屋の中に納まっている青面金剛像、見た目にどうも怪しいので、閉じられている覆屋の扉をこじ開けて見てみると、何とそこに出てきた紀年銘は「延寶八年」とある庚申年の物だった。これは、あの中山氏の資料にもないものだけに一人舞い上がり、精査して後日連絡することにする。
 ところで今日は、いつもなら早めに用意する昼食用の食料がまだ手に入れていない。時計はまもなく12時になるというのに、これは困ったと葛生町の中まで行って購入してくる。そして昼食場所は、今回の目的地である小藤神社境内であることは勿論である。実は、昨年の多摩石仏の会の皆様を滅多に見られない「孔子像」を見せるために案内した折り、その孔子像の上部にある円形の中に北斗七星が線刻されているのを指摘された。それ以後、その北斗七星部分を拓本に取っておかなければと思いつつも、今日まで来られなかったのである。まずは腹を満たして一休み。そして道具一式を抱えて、のんびりと且つ慎重に採拓して、何とかその目的を達成することが出来た。
 今日の、石仏巡りの予定はここで終了。しかし、帰宅するには少なからず時間が余っているので、ここ半年の間に所在場所をご教示頂いていた岩舟町の該当碑塔を調査することにする。まずは、東京の多田氏から教えていただいた岩舟町三谷地区の延宝庚申塔。すでに下見はしていたので、近くの農家のご主人に許可を得てからカメラ三脚を抱えて行く。佐野市の高橋氏は、その青面金剛が納まっている覆屋の扉を開けて撮影したというが、私には何としてもその扉が開けられない。無理に明けようとすると、扉が全壊してしまいそうなのである。これには困った。銘文等は外から確認できるが、写真だけはどうにもならない。仕方がないので、こわれた隙間からカメラを差し込んで何とも様にならない写真を撮る。また、そこにある狛犬も調査する。何しろ、元文銘を持つ狛犬だけに、これは貴重である。また、その像容もなかなかに味わいがある。
 次は、佐野市在住の山口秋葉子氏にご教示頂いていた岩舟町静地区の御門神社の碑塔である。この御門神社は既に調査済みだったが、社務所西側の碑塔だけを見逃してしまっていたのである。板駒の六臂蛇持ち青面金剛様は元禄四年の造立である。こんなにも立派な庚申塔を見逃すようなのだから、私の石仏巡りも好い加減なものだと、一人で苦笑。
 連休最初の石仏巡りは、この辺で終わりにしようとコーヒーを飲んで一休み。時計はまだ3時だから、あと1時間は石仏巡りが出来る計算になるが、何となく一休みした時点でその気はなくなり、そのままのんびり帰路に就く。

朝、メールを開いてみると高橋氏より私の誘いに5月3日は足尾町間藤駅で9時~9時半頃待っているとの連絡が入っている。足尾町へは1年半ぶりの訪問となる。早速今夜は、3日の為の訪問予定地の計画を無駄のないように立てようと思う。
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「多摩石仏の会」の皆様との庚申塔巡り

2006年04月23日 | Weblog
4月22日の石仏巡り
今日は、東京の「多摩石仏の会」様を足利市に迎えて、足利市西部地区の庚申塔巡り日である。JR山前駅に10時11分着の電車で全員が勢揃いするまで時間があるので、私は五十部町で唯一調査未了の瑞泉院へ行って石仏調査。しかし境内には沢山の碑塔が在りすぎて、予定では一時間もあれば終了するだろうと思っていたが10時近くになっても半分ほどが残っている。残念だが、この続きは次回へ繰り越しとして山前駅へ向かう。
いつもなら必ず私よりも先に来ている高橋氏が、今回に限って未到着である。珍しいことが有る物だと駅ホームへ行って到着時間などを確認していると10時きっかりに高橋氏が到着。朝の挨拶をして話しを聞けば、高橋氏も朝の一仕事としてあちこち調査などをしていたとのこと。どうも、やることは一緒でそれなら一緒に行動すればよかったね、と大笑い。そんなところへ、昨年秋以来の同じ顔ぶれの面々が電車で到着。そして今回は、昨秋の庚申塔巡りには直前で来られなくなった、御年92歳になる最長老の森永氏を加えて総勢9名での庚申塔巡りが開始となる。

まずは、直ぐ近くの葉鹿町共同墓地内の延宝と寛文の庚申塔調査。延宝年間の自然石庚申塔の珍しさと、かつて初めに中山氏が読んで知らせてくれた寛文像容庚申塔を見る。その文字の確認に皆でワイワイしながら、どうやら今回も賑やかな庚申と巡りになりそうである。次は、私が先週訪れた庚申塔群へ案内。ここでもああだ、こうだと様々な意見が飛び交うも、結局は庚申塔と結論づけられぬまま終了する。

ここまでは、今日の庚申塔巡りの序章である。いよいよ、山肌の斜面に150余基がずらりと並ぶ山前町入東の庚申山へ入る。中山氏と私は、その間に薬師堂隣にある四天王の内の2基像容塔を見てくる事にする。4体の内の2体しかないが、それでも四天王像容塔は民間信仰石仏としては少ない部類だけに、中山氏も喜んで写真を撮る。と、そこへ庚申塔を見ている筈の面々が後を追いかけてきて、結局は全員でこの珍しい四天王像を見学する事になってしまった。というよりは、庚申山の余りの数の多さに調査意欲を失っての行動と見た。(これは、私にしても同じでここへ何度来てもそれを悉皆調査する気力は失ってしまうのだから、遠方から来た皆様にしてはなおさらのことである)

適当に切り上げて、次へ向かうは高橋氏と一緒に見つけた今迄未発表の延宝庚申塔の銘文確認である。時間節約のため、事前に私が取っていた拓本を碑面に当てながら全員で解読の結果、それは「奉納甲申二世爲安樂」と結論を得た。

次も今回の庚申塔巡りには入れていなかった、番外の松田町・虚空蔵堂敷地にある庚申塔調査へ向かう。上部が欠損している板碑型庚申塔だが、私はこれを江戸前期それも延宝年間と推定していたので、その確認のために皆様を引き込んだのである。ここでも過去に取っていた拓本を見せながらの話しとなる。碑面は摩耗甚だしく、かろうじて下部に線刻された二猿二鶏だけが頼りという心許ない物証だが、どうにか延宝年間塔としての全員の承諾を得ることが出来た。なお、この庚申塔は見た目には酷い物で、拓本によってかろうじて二猿二鶏の姿が浮かび上がってくる物である。ちなみに、さすがは庚申塔巡りの面々である。この虚空蔵堂隣の喜福院境内にある明和九年銘を含めた都合3体の双体道祖神があるのを教えても、見たいとは言わないのだから…

ここで一旦戻って、今度は粟谷町の「弓・矢バンザイ型」青面金剛像を案内する。バンザイ型に興味津々の石川氏が、特に喜んでくれたようだ。また長老の森永氏も、これは面白いと熱心に写真を撮っている。この時点で既に12時を過ぎているので、取りあえずは午前の部を終えて、粟谷町の奥の昼食場所へと向かう。

それにしても今日は、何という石仏巡り好日だろう。昨日までの荒れた天候が嘘のように晴れ渡り、萌え出たばかりの新緑を眺めながらの昼食時間に和気藹々とした会話と共に楽しい昼食時間が過ぎていく。また、その背には庚申塔を初めとした碑塔があるのだから、なおさらである。そこで、ここで全員揃っての記念写真撮影会となる。(その一こまをHPの方へ掲載しました)
 昼食後は、昼食場所への道沿いにある延宝庚申塔へ立ち寄って調査する。もちろん、同地にあるその他の碑塔も見学したのは言うまでもない。

ここから、今日の午後の部開始である。まずは、粟谷町最南端の庚申様へ立ち寄り、ここで「一石百文字・千庚申」四角柱を見る。もちろんこれは、現時点で全国唯一の「千庚申」一石百文字塔だけに、痛みの激しい塔ながら熱心に見学する。

終えて、近くの養源寺さんを訪問。ここでの目玉は、墓地入口にある寛文の庚申塔。そして境内にある百庚申塔群の見学である。特に、百石百書体の自然石庚申塔に注目が集まるのは当然だろう。終了間際に、境内にある不動三尊像を見てくるといった面々が、住職ご家族から、いつもの「お茶を飲んでいってください」というご丁寧な言葉をかけられ慌てて戻ってくる。

さて次は、私と高橋氏の二人で確認した、足利市最古の庚申塔がある小俣町の宝珠坊跡地の共同墓地へと向かう。何しろその庚申塔は、美しさの点でも足利市最高のものだけに、その確認には皆さんのお墨付きが必要だし、何よりもその紀年銘全体の最終確認をしたくて案内した次第である。そして皆さんで時間をかけて確認した結果「寛文四甲辰六月念七日」と判明した。最も喜んだのは中山氏であり、私であるのは言うまでもない。そしてその紀年銘の有る場所の特異性に皆が驚く。恐らくこれからこの紀年銘の有る場所を目にした今日の参加者は、銘文の見つからない古い時代の庚申塔調査時には、この庚申塔を思い出してせっせと磨くことだろうと可笑しくなる。

いよいよ、今回の庚申塔巡り予定地最後の場所である、小俣町鹿島神社へと向かう。そして数年しただけでこうも現況が変わってしまうのかと驚いているのは中山氏。そして多田氏は、一人で倒壊した庚申塔を抱き起こしたという話しに大笑いする。というのも、それは二人掛かりでもやっと起こせるような大きな青面金剛像塔だからである。そして今回は多数で来ていながら、それをまた立ち上がらせようとする者は誰も手を上げない。外野で誰がやれ、あんたがやれと押しつけてばかりいてらちがあかない中、結局は体力がある加地氏と多田氏が挑戦して何とか写真が撮れた。また今回は、高橋氏はハサミを持ってきて足にからみつく枝を切りながら薮道を切り開いてくれたので、みんな大喜びである。それにしても、この地はやがて埋もれて一般の方ではそこに延宝庚申塔を初めとした素晴らしい庚申塔があると文章で確認するも、現物を探すことは叶わなくなるだろう。

以上で、今回の「多摩石仏の会」の皆様との楽しい足利市西部地区の庚申塔巡りは無事に終了した。しかし、まだ陽は高い。このまま帰路への道を辿ったのでは、皆さんの探求心が不完全燃焼するだろうと、時間の許す範囲で寄り道していくことにする。そして今回は私の車に乗り込んだ石川氏の望みを叶えるべく、昭和55年庚申塔を中心に小俣町の道路沿い2箇所と恵性院、そして小俣駅前の山神神社、さらにおまけとして篠生神社へと巡ってJR足利駅へ到着する。

今回も、またまた忙しい足利市西部地区の庚申塔に終始してしまったが、一日の何と短いことかと感じた楽しい共有の時間だった。
ますますの皆様のご活躍を願いながら、ここで別れて帰路に就く。
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4月15日の石仏巡り記

2006年04月16日 | Weblog
昨日15日の石仏巡りも、相変わらず足利市西部地区へはいりました。天気予報以上に快晴となり、新緑と桜の花のコントラストが綺麗な中での石仏巡りで、本当に気持ちの良い一日を午後4時半まで現地で過ごしてしまいました。
しかし、大前町二丁目の「庚申様」碑塔群中の1基に悩まされ、そこで多くの時間を費やしてしまい、お昼にしたのは午後も1時半になってからの有様で体力的に疲労困憊の一日でした。その1基、最終的には寛文元年の紀年銘を確認しながらも「庚申塔」と決めつけるだけの決定打が見いだされずに終わっただけに、余計疲れたのかも知れません。悔しいので、来週22日に来る「多摩石仏の会」の皆様にコースを変更して見ていただこうと思っています。(何しろ、コースの設定は私の特権ですから…)
ここの所の私の石仏巡り、どうも佐野市の高橋氏のまじめな姿勢に感化されたのか、いつもの私らしからぬ行動力で、昨日も今年最大の67基もの調査をしてしまいました。もう少し、私本来の「遊び」を取り入れなくてはならないと思いつつも、ついつい張り切ってしまっています。それだけに、来週は石仏巡りの案内だけですので、今度はのんびり出来るかなと思っています。
そんな、石仏調査に夢中になるとどうしても写真撮影がおろそかになってしまって、今回は逆光の石仏位置が多かったこともあって、調べた碑塔の数の割合には写真が少なく、家に帰ってきてからガッカリしています。そこで来週は、石仏案内の傍らで、写真撮影に重点を置こうと思っています。
何れにしましても、今度の土曜日は「雨」になってくれぬ事を祈るばかりです。そしてそろそろ、多摩石仏の会様との石仏巡りレジュメ作りに入ろうと思っています。昨年と違って、今回は日帰りのためにお見せする碑塔の数も少ないので、その分レジュメ作りも簡単に出来そうですが、最新の「足利市江戸前期までの庚申塔」実見報告書を作成してお渡ししたいと思っています。この報告書だけは、必ず皆様に喜ばれることと自負しています。

それにしましても、まもなく五月の連休がやってきますネ。まだ、予定は立てていないのですが、連休中は少なくも3日間は石仏巡りに当てたいと思っています。その予定の一つとして、足利市小俣町の養源寺さんの庚申塔拓本取り、そして足尾町の庚申塔調査です。それともう一つ、那須の地の馬頭観音様巡りは、連休明けの天候の良い日に行きたいと思っています。
以上、今日の日曜日は天候も悪いことがあって何となく何もせず部屋でゴロゴロして遊んでしまいました。そうそう、先ほど散歩へ1時間ばかり出かけたのですが、ツバメが沢山飛んでいました。また、我が家の前の雑木林では特別にうるさくウグイスが鳴き競っていました。また、田圃ではヒバリが天高く昇ってさえずっていました。やはり、春なのですね!。
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4月9日の石仏巡り記

2006年04月10日 | Weblog
昨日4月9日は、朝8時半には足利市名草上町の「臥龍院」に到着。ここは無住寺につき、今迄ここで地元の墓参りに来た人以外には出会ったことがないのに、今日は私よりも先に来ている写真撮りの人がいたのにまずビックリ。もっとも、そういう私も今日はここへ桜の写真を撮りに来たのだから、他人様のことを言えたことではないが…。それにしても、近頃の人はマナーがないものだ。こちらから先に挨拶したが、何も返事はなく邪魔な奴が来た位の感覚で返事もせずに離れていってしまう。
さて、桜の写真を撮りに来たものの、肝心の桜はようやく満開になったばかりである。そして空には雲があり、この場所の桜の写真を撮るにはどうしても真っ青な空が必要であり、桜の花がヒラリとも舞わない中での光景では、何とも物足りない。そこで、境内にある石仏を画面に取り入れたり、反対側の山と竹林を背景にしてフィルム2本を撮影。9時を過ぎた頃から、ゾクゾクと桜見物と写真撮影の人々が集まりだしてくる。当方は、山の間から青空が現れるのを待つ身なので、桜見物の人々と世間話をしながら時間つぶし。しかし、一向に曇り雲が取れないのと、それでなくても狭い駐車スペースは車が一杯になってきたので、桜の写真撮影だけが趣味じゃないと、ここを離れることにする。
 藤坂峠を越え、松田町へ入って石仏巡りを開始したのは、早10時近くになっていた。そして今日の石仏巡りは、足利市松田町の石仏碑塔類のおさらい日として、これまで何度もその前を通ながらもそれらを軽視していて記録を取っていないものや写真が未撮影のもの、また再確認が必要なものを中心にして一日をこの松田町で過ごすことにする。
「湯ノ沢バス停」から南下しながら、何度も気になる場所があると行きつ戻りつしながら記録取りと撮影と再確認を繰り返しながら進んで行く。ところが、今日はこの松田地区ではどこの観音堂もお祭り日らしく、沢山の地元の人々が集まっている。そんな場所へ行けば必ず、「どうです。一緒にお酒でも飲んでいったら」と声が掛かるし、虚空蔵尊堂では「この時だけ、ご開帳されたご本尊を拝んでいってください」と、ご婦人から招き入れられる。一方、山の中ではイノシシ駆除の銃砲が絶え間なく鳴り響いている。この地区では、竹林があっても、この季節にタケノコを採ることは出来ず、イノシシは地中のあるタケノコをいち早く鼻で探して皆掘り起こしてしまい、滅多なことでは人間様の口には入らないというから、これも止むを得ないことなのかも知れない。
それにしても、間断なく銃声が鳴り響くなかでの石仏巡りは余り気持ちの良い物ではない。特に、喜福寺さん周辺の山はものすごく、本来ならここにある六体六地蔵の銘文を拓本に取りたかったのだが諦める。あ~あ、今度ここへ来るのはいつのなるやら、である。
そして最後は善光寺さんへ寄って、今日こそここにある碑塔を悉皆調査するゾと取りかかったが、途中で時間切れと飽きてきたので山門の石段に腰掛け、コーヒーを飲みながら対岸の里山の春景色をぼんやり眺めて時間を過ごし、そのまま帰宅する。
それでも、帰宅してから調査原簿を数えてみたら、先週にはわずか1基及ばない64基もの大収穫数となっていた。こりゃ~、また整理が大変だ!。
そんなわけで、今回も画像紹介は遅れそうです。
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今日の土曜日は…

2006年04月08日 | Weblog
 今年になって、恐らく初めて週末土曜日を天候が悪いこともあって、どこへも出かけず今日は家にいる。午前中は、手紙を数通書いてから畑仕事に入る。
ジャガイモは既に植え付けていたので、取りあえずは青菜に大根の種を蒔く。また、ネギ苗を購入してきて、そのまま一気に植え付けようとしたが、日光方面からの北風が強く、そして寒く吹いているので中止し、今年の植え付け場所を設定しただけで部屋へ閉じこもってしまう。
パソコンを起動したまでは良いのだが、何となく気が向かないので直ぐに電源を切ってしまう。本当は、今月22日の多摩石仏の会の皆様を当地に迎えるに当たっての、レジュメを作成する予定だったが、まだまだ先のこととする。
 そんなわけで急に思い立ったのが、ここ何年も使用している拓本取りタンポが使いすぎてヨレヨレになっていたので、意を決して新しいタンポを作ることにした。まずは、家内からスカートの裏地を調達してからフトン綿を用意し、今日は時間だけはたっぷりあるからと、中・小・更に小の三種類を作ることにした。
私はせっかちなので、いつもなら適当に作ってしまって、見た目には何とも格好悪いタンポがだ、今日はじっくり腰を据えて作ったので、できあがったタンポは何となく今まで以上にきれいな拓本が取れるような気がして満足する。しかし、一番小さいタンポは、直径1センチ位の物をと思っていたが、綿を入れすぎて100円玉ほどの大きさになってしまう。これでは、石碑角隅の文字は拾えなくなってしまうと思ったが、まあ使用勝手を確かめてからにしようと、作り直さずにここまでで終了する。
 何となく惰性に促されるまま、今度は墨作りに入ってしまった。この作業は、準備が大変で時間も中途半端では出来ない。そしてその作成方法(用意する材料を含めて)は、内緒である。墨は、その人の独自の考えによって作る物なので、試行錯誤しながら自分にあった墨を作ることをお薦めする。それが嫌なら、市販の油墨を購入するのが早いだろう。私の場合は、油墨と共にもう一種類の簡易墨を用意した。もちろん、その墨にあわせて、タンポの素材も変えて工夫する必要がある。
そんなこんなで、全てが終わったのは夕方6時近くになってしまいました。もし、明日の天候が良ければ早速足利へ出かけて使い勝手を確認するつもりです。と同時に、明日は足利市名草町の臥龍院へ行って、桜の写真を撮るのが最大の目標としています。そこで、なにとぞ臥龍院の桜が満開でありますよう、今から祈っています。
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石仏図書のご案内

2006年04月07日 | Weblog
 今日、水野英世氏著の「あちこち 石仏巡りの記4」が、恵贈されてくる。
題名に「4」とあるように、同名の書籍としては第4冊目である。内容は、文字通り日本全国(沖縄を覗く)の石像を巡り歩いて記したものである。昨年10月に、同書の「3」が発行されたばかりだから、半年の間に二冊も発行したことになり、その情熱にはただただ尊敬するばかりである。しかもその内容たるや、B5版サイズで平均190頁もの厚さで、その半分はモノクロ写真が付いているという、石仏図書にとっては何とも嬉しいビジュアル性もある。加えて、その初めての土地を迷いながら訪ねた著者ならではの、手書きの所在地図も付いていて、そこに掲載された石像を訪ねたくなった人には心優しい気配りにも溢れている。
今回の「あちこち 石仏巡りの記?」には、山形県庄内地方・福島県川俣からいわき・埼玉県高崎線沿い・東京都西部・神奈川県茅ヶ崎・長野県木曽路・富山県東部・和歌山県熊野道・大阪府北部・兵庫県加西から加古川・徳島県点描・鹿児島県川内市を訪れたものが掲載されている。
それにしても、日本46都道府県の石像を、しかも自家用車を使用せずに現地へ着いたら只ひたすらに歩いて巡り歩く。これはもう、立派な聖地巡拝、水野氏の自分の心の巡礼であろうと思う。それにしても良くもまあ、その訪れる土地それぞれの見応えある碑塔を、旅立つ前に見事に抽出し調べた物だと感心せずにはいられない。
極端な話し、日本全国の素晴らしい石像を見たいなら、この水野氏の4冊を手元に置いておけば良いほどの内容である。
時々、「日本全国には、どんな石仏があるのですか?」と、問われることがあるが、これからはこの本を紹介し、あるいは見せれば良いような気がしている。そしてこの本は、石仏図書というとどうしても資料的編集になってしまうが、画像を多用した石仏初心者にとって最も嬉しい内容となっていることを付け加えておきましょう。
いずれにしても、日本全国の代表する石像が纏められているのでご紹介しました。発行部数も、頒価も記されていない全くの私家本につき、はたして面識のない方にまで分けて頂けるのかは判らぬが、興味のある方は著者へ直接お問い合せ下さい。

<無断掲載です>
著者/水野英世
住所/192-0907 東京都八王子市長沼町768-2
※必ず返信用切手を同封の上、手紙でお問い合せ下さい。
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4月1日の石仏巡り記

2006年04月02日 | Weblog
 昨日4月1日は、高橋氏と一緒にまたしても足利市西部地区へ石仏巡りに出かけた。朝一番で訪れた徳蔵寺さんは、住職不在で目的が達せられなかったり、両毛線の富田駅の事前確認をしたりして少々時間をロスしてしまったが、大前町の日蓮宗・妙隆寺さんでは思わぬ以上の庚申塔などの収穫があり、二人で思わず笑ってしまいました。その後、お昼には少しばかり早いが、ここで食事を取らないと昼食抜きになってしまうとばかりに、三崎神社の芝生に座ってお花見をかねたランチタイムとしました。
その後は、自性院の墓地やら自性院境内、そして道沿いの碑塔を調べながら北上して、大前町と松田町の境にある庚申塔を調査。私が記録を取っている間に高橋氏は近くのお墓を覗きに行って、面白い自然石石塔を見つけてくる。そして誘われるまま二人で銘文を解読していると、その隣に板碑型文字塔がある。どうせ、墓碑だろうと思いつつもついでに見てみると、その下部から三猿が現れた。色めき立って高橋氏が紀年銘を水洗いすれば、そこには延宝八年銘と共に庚申銘文が現れた。「ヤッタ~」、暫くぶりの大収穫である。もちろんこの延宝庚申塔は私達が初めてその存在を公にすることになる。しかし、銘文を解読するに従い、そこには私達を悩ませる文字が出てきた。「奉納■申二世爲安樂」中の■文字が「向」字にも、「曰」文字にも読めてしまうのである。いずれにせよ、このような庚申銘文には、これまで出会ったことがないので何度も水洗いを繰り返しながら解読努力をするも、私達の解読能力では結論が出ず仕舞いであった。「仕方がない、これは今月22日に当地へ来られる多摩石仏の会の皆様に判断を仰ぐことにしよう」として、次へ進む。
そうそう、その前に入東の庚申山へ立ち寄って、高橋氏にそこが「多摩石仏の会」の皆様を案内する場所に相応しいかを判断してもらったついでに、薬師堂を案内する。と、そこには今迄気づかなかった邪鬼に乗る石像を発見。これも面白いので、多摩石の皆様にお見せすることに決定する。
 さて、途中車を走らせて路傍に見た庚申塔は見逃し、それからは私が入りたかった松田町不入地区へと向かう。そしてこの不入地区にて沢山の庚申塔などに出会うことが出来た。あまりに沢山ありすぎて、手元に持参した石仏調査原簿が足りなくなり、車へ戻って予備用紙を持って来る程であった。特にこの不入地区にて、庚申名数塔に三基も出会えたのは予想以上の収穫であった。そして時計を見れば既に三時半を過ぎている。どうやら今回も、この辺で石仏巡りは終わりを迎えたようである。帰路は、松田町から山越えの馬打峠を経て月谷町へ抜け、そこから佐野へと向かって帰路に就く。
 それにしても今日も実に良く調べたものだ!。帰宅してから調査碑塔を数えてみれば65基にもなっていた。これも、私一人なら途中でサボってしまうが、高橋氏は至ってまじめで、少しの時間でも大切にして調査に当たろうとする熱意から生まれたものと感謝する。朝、家を出るときは「今日はお花見」、そのついでに石仏巡りのような気持ちでいたが、生憎と桜はまだ咲き出したばかりなので、このお花見は来週に持ち越しとなった。
なお、HPへの紹介は今回は少々遅くなります。何しろ数がありすぎるので、その画像処理と調査碑塔の清書・確認などに時間が取られるからです。
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