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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2008年8月23日は栃木県初発の重制石幢調査です

2008年08月23日 | Weblog
 2008年8月23日は、栃木県鹿沼市板荷の真言宗 薬定寺の薬師堂前にある重制石幢六地蔵を見学に行く。自宅を出るとき、宇都宮は曇りではあるが雨は一滴も降っていなかったが、鹿沼市街を通り過ぎて板荷地区へ入ると雨が降り出し、現地へ着いたときは本格的な雨になってしまった。流石に板荷は、山里である。念のため、自宅へ電話を入れると宇都宮は雨など降っていないとのこと。悔しいので、折角ここまで来たからには見るだけでも見ておきたいと、藥定寺へ向かう。そして実物を見てしまうと、その石幢が重制石幢六地蔵塔として栃木県初発の永正9年銘とあらば、是非とも銘文拓本が欲しくなるのはいつもの悪い癖。車に戻って雨合羽を装い、手拓開始。雨が降っている位なので水貼りは難なく終了したものの、それからが墨入れする迄の長い時間待ち。その時間を利用して、もう一つの延享年間の石幢を調査すると、その像容は六観音となっていたので、思わぬ所での拾いものとなる。その他、同地にある石造を調査したりして時間を潰すも、まったく水貼りしたままの状態で乾かない。それにしても、雨の中での拓本取りは昨年夏の日光庚申塔調査以来である。乾いたタオルで少しでも水分を取り除こうと努力したが、所詮は雨中の拓本取りでは無理がある。逆に、周囲の水分を吸い寄せているのではないかと思えるほどである。
 そんな所へ、私と同じように石幢を見に来た人がいたのを潮時と、無理を承知で墨入れする。何しろ、見物に来たのに肝心の石幢幢身全部が和紙で覆われていたのでは話にならないし、見に来た人に申し訳ないので、手拓用紙を剥がさなければならないからである。秋にでも、また来て手拓することにした。それでも、びしょ濡れの手拓用紙を自宅へ帰ってから乾かしたところ、銘文を確認するには充分な手拓となったので満足である。
 もちろん、本日の石仏巡りは雨のためにここだけで終了。お昼過ぎには宇都宮自宅へ着いていた。それにしても、八月は暑さのためや雷雨等のために満足な石仏巡りが出来ぬまま終わりそうである。八月最後となる次週こそ、スカっとした天候になって貰いたいものである。
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2008年8月17日は栃木県上三川町の石仏巡りです

2008年08月17日 | Weblog
2008年8月17日も栃木県上三川町へ石仏巡りに出かけましたが、現地へ着くやいなや雨が降り出しました。仕方なく、路傍の石仏巡りは止めて多功地区の曹洞宗見性寺へ行きました。挨拶に出られたご住職さんが本堂内に案内してくださり、「私はこれから用事で出かけますからあとはご自由にご覧になるなり写真を撮るなり必要なら拓本も取ってく下さい」と言う。さらに、住職さんが「曹洞宗なのに可笑しいですよね」と笑っていた、本尊裏手に祀ってある弘法大師の石造を写真に撮ったり、不動明王像が祀ってあるのを写真に撮ってから、墓地内にある十九夜塔や念佛塔を調査する。勿論、雨が降っていたのだが面倒なので傘をささずに行った野外の石仏調査では、ずぶ濡れになってしまいました。※終わったあとで、それら真言に関する像容塔は、近くにあった観音堂が廃止になり、そこにあったものを引き取ったからと判明する。
 見性寺さんの駐車場で、取りあえずは雨の様子を見ることにしてコーヒーを飲みながら一休みするも、小雨にはなるが止まない。「仕方がない、次へ行こう」と、近くの天満宮を訪ねる。今度はしっかりと傘をさしての石仏調査とする。傘をさしての石仏調査など、本当に暫くぶりだが、そのかわり「暑くなくて良い」と、強がりを言いつつ境内にある庚申塔二基や十九夜塔を調査。それらの調査が終える頃に、何とか小雨も止んできたのでその隣にある西念寺さんを訪問。境内に、大きな宝篋印塔を確認。取りあえず、庫裡に出向いて住職さんに許可を頂いてから読み出したが、久しぶりの5百文字はある石文に本気で読み出す。しかし、三面目の途中から願文となり解読も不確かとなったので手拓することにする。雨が止み、風もなく暑くもなく、絶好の手拓日和。ルンルン気分で手拓も完了して意気揚々と西念寺さんを後にする。
 ここで12時。急いで、先月に手拓した大山地区浄光寺さんの板碑資料を届けることにして向かう。応対に出られた住職さんが喜んでくれた以上に、今回の昼食場所は、その近くの五所神社と決めていたので、早速境内に乗り込んで昼食時間とする。この五所神社の青面金剛等の庚申塔は1990年代に調査済みだったが、写真が未撮影だったので、その写真撮影も目的としていた。そしてのんびり、今年の夏で最も涼しい石仏巡りになったと喜んでいたのもつかの間。昼食を終えて一休みしていると、突然に強い雨が降り出してくる。しかも今度の雨は空全体に広がっているので止みそうもない。念のため自宅に電話すると、宇都宮も朝と違って強い雨が降り出していると言う。
 ここで、残念ながら本日の石仏巡りは断念し、まだ20数基しか調べていないが潔く諦めて帰宅する。従って、今回はHPの方へ掲載するような写真はありません。それでも成果としては、上三川町で初めて本格的な寶篋印陀羅尼經塔に出会えたので満足である。
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昨日に続いての石仏巡りで思うこと

2008年08月11日 | Weblog
 2008年8月10日、午前中は暫くぶりにおとなしく家にいたが、午後になるとどうにも落ち着きが無くなり、いつしか車に乗り込んでいた。向かう先は、何度探しても見つからない鹿沼市の田村氏教示の、宇都宮市長岡町高お神社(自宅から車で僅か15分の距離)にあるという、昭和五十五年庚申塔探しに再チャレンジである。特に今回は、現場の探索は広大な裏山を含めて既に探索は終わっていたので、地区の農家を中心に聞き込み調査である。しかし、どこへ行っても同じ言葉で「この周辺には庚申塔はない」という。そしてついに、「それほどなら一緒に行って探してみよう」となったが、やはり無いものは見つからない。それでも、栃木県内の石仏はほとんどの地区の悉皆調査が終わっていると豪語していた田村氏のことだから、私や地元の方でも知らない庚申塔があるのかも知れないと、最後の農家に飛び込むと「このでは、昔から庚申講は行われていないので、庚申塔などあるわけがない」と、断定されてしまう。確かに「火のないところに煙は立たぬ」ではないが、庚申講が無い所に庚申塔があるわけが無いと、ついに諦める。
 そして続けて言うには「高お神社にあるというなら、隣町の岩本町の高お神社のことではないか。あそこになら庚申塔はある」という。その岩本町の高お神社にある昭和五十五年庚申塔は既に調査済み。そこで、ハッと気づく。田村氏は、本来なら岩本町とすべきところを隣の長岡町に町名を間違えて教えてくれたのだろう(この間違いは、田村氏独特の所在地ご教示、いや嫌がらせ?方法で、それは意識的にしているとしか思えない地名違いをあえて教えてくれる苦い経験をこれまでに何度もしていたのを思い出した)と推測する。
 嗚呼、これでまた栃木県の昭和五十五年庚申塔の数が一つ減ってしまった。同様に、田村氏教示の昭和五十五年庚申塔で実見されていないものが3基ある。その中の1基は、特にこれまで見つけられずにいるもの。早急に、探し出してその存在の有無を確かめなければならないことを痛感する。
 それでも、こうして田村氏ご教示の幻の庚申塔探しをすることは、ある一面で良いこともある。何しろその地区を徹底的に聞き込み調査して石造物の在処を確認できるので、今では地元の人でさえ足を踏み込まぬ山中、とくに手入れされていない酷い薮の中に置いてある碑塔を探し出せること。今回も、「もう誰も何十年も行かない薮山の中に石塔が転がっている訳だ」との情報だけを頼りに分け入り、約1時間探して山中から十九夜塔を1基探し出せたことなど、或いは田村氏の嫌がらせに近い庚申塔所在ご教示は、「自分で苦労して探しなさい」という、それこそ石仏調査の原点を無言で教えてくれているのかも知れぬと、苦笑する。
 こうして、午後から出かけた足元である宇都宮市の庚申塔ただ1基だけの探索だったが、結果的には普段の石仏巡りでは見つけられぬ「十九夜塔」を1基確認出来たことで、顔中いや身体中汗と蜘蛛の巣だらけにしながらも、満足して帰宅する。
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2008年8月9日は昭和55年庚申塔実見の旅

2008年08月10日 | Weblog
 2008年8月9日は宇都宮市等の石仏巡りです。目的は、宇都宮市の昭和五十五年庚申塔で実見されていないものの調査です。午前中に三基を確認できました。それもこれも、事前にありそうな場所を地図上で徹底的に絞り込んでいましたので、訪ねても石造物が何もないという外れ箇所もありましたが以外と簡単に出会うことが出来ました。
 朝から風が強めに吹いていたので、太陽の下では暑かったのですが木陰へ入ると快適な石仏調査が出来ました。お昼は、神社の境内で取ったのですが、余りにも風が気持ちよく30分ほど微睡んでしまい、「やはり、私にはフィールドが向いている」。
 さて、午後は引き続いて隣接する上三川町へ入ることにする。東汗地区の公民館の広間で昼寝をしている人達を起こしてまで、その地区の庚申塔等の所在地を聞いて向かったが、そこは一面の草むらとなっていて完全に碑塔は生い茂る草の中に埋没。探しようもなく退散です。こんどは目的地もなく適当に車を走らせていて、個人墓地内に重制石幢六地蔵の龕を発見。石文は何も分かりませんが、それでも暫くぶりに出会った石幢に嬉しくなりました。その後、せっかく上三川町にいるのだからと未訪問だった上郷地区の愛宕山神社へ行く。ここには嬉しいことに元文五年庚申塔が3基あり、加えて真新しい舟形光背石の青面金剛像が祀ってあった。余りにも新しいので、昭和五十五年庚申塔ではないことは確かだが、最近の造塔で青面金剛像容塔は珍しく興味津々。しかし、紀年銘がどこにもなく、少しばかり焦りましたが、土の中に埋もれた台座裏面を掘り返したところ、そこにしっかりと平成8年の造塔であることが記されていました。そんな時、急に空が曇って雨が降り出す。それでもなくても薄暗い神社境内の鬱蒼と繁った森の中。まるで陽が落ちたような暗さとなる。だがまだ、そこにある庚申塔の銘文は未調査。慌てて写真を撮ってから解読に入るが、その内の2基の銘文は半分ほど読み切れぬまま撤退する羽目になってしまった。
 雷雨とあらば仕方がないと簡単に諦め(暑さで体が少しまいっていたのも事実なので)、少し帰宅するには早い午後3時半に今日の石仏調査を止めて帰宅する。
 次回の石仏巡りは旧盆休み中。はてさて、どこへ行こうかと早くも思案中である。
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悔しさだけが残った講演!

2008年08月03日 | Weblog
大失敗だった、OHPフィルム原稿を使用しての講演。
主催者側と私とのOHPについての認識の違いがあり、講演会場に着いてから打ち合わせの段で、主催者側は私がOHCで資料説明となっていたので、顔には出さないが驚くばかりであった。事前に、今回はアナログのOHPを使っての講演になるので器材の方の確認をしたところ、「大丈夫です。OPH器材を用意しています」とのことだっただけに、安心しきっていた私が悪いのか。一枚単価150円で約70枚ほどを作成したというのに、透過方式のOHP器材がなく、これが使えないことが講演開始間近になって判明。仕方なく上からの投光方式の器材で試してみたが、所詮は投影方式が異なるので画像どころか文字さえも満足に読めない始末。
 そしてそのまま講演に突入。私の本日の講演は、そのOHPだけが頼りだけだっただけに、最初からスクリーンに映し出されたものは、何が何だか形さえ満足に判別できないような酷い画像状態。勿論、説明用の文字もほとんど読めない状態。ここで、私の頭の中は「真っ白」になる。OHPを使用しての講演が全く出来ないのがはっきりしてしまったからである。予定では、OHPフィルムを使用しての「日光型庚申塔」等の講演だったが、スクリーンに映し出されたものは、それを元に話が出来ない状態なのである。その後の講演内容は、自分でも全く整理がつかないような内容となってしまった。予定では、選りすぐった美しい日光の庚申塔画像をお見せするつもりだったのに…。また、日光庚申塔の様々な特徴についてもその初発庚申塔から順を追って説明するつもりだったが、画像も駄目!文字も駄目!となっては、どうにもならない。加えて、黒板の小さいこと。少し書いただけで黒板面は一杯となり、継続しての文字が書けない有様。万事窮すである。あとはやけのやんぱち、自分でもまとまりの着かない話しに終始して、何とか持ち時間を過ごすことだけに精一杯であった。
 帰りの電車で、「私は何のために今日の講演を引き受けたのだろう」、という思いで悔しさが沸々と湧いてくる。聴衆の皆様も、余りにもの酷い講演内容に驚かれただろうと思うと、それもまた、悔しさに倍加されてくる。
 嗚呼、やはり最後まで講演出席を断るべきだった!。それにしても悔しい。その繰り返しで自宅に到着し、家内にいち早く見抜かれた落ち込みようだったが、既に終わってしまったものは仕方がない。ここに、その顛末を記して忘れようと思っている。もし当日、私の講演を聴講下さいました方がいましたら、ここに深くお詫びし、その間の事情を斟酌下さいましてご容赦下さい。
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