石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

長らく、ご迷惑をおかけしました

2006年02月27日 | Weblog
本日、只今を持ちまして、HPのバグが終了しまして以前のように見られるようになりました。今後は、今回の教訓を生かして少なくも一ヶ月に一度はバックアップを取るように致しましょう。もちろん、HP中の細かなところまではバグ修正が行き届かないところがあるかと思いますが、もしお気づきになりましたら遠慮なくメールにてご連絡いただけましたら幸いです。

※お願い
今回の騒動で、皆様から戴いたメールのアドレスも全部飛んでしまいました。誠に申し訳ないのですが、ぜひメールにて皆様のアドレスをお教え下さいますようお願いいたします。
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2月25日の石仏巡り

2006年02月26日 | Weblog
昨日、2月25日の石仏巡りは佐野市の高橋氏と一緒に、私としては初めての地となる足利市の西部方面へ出かけました。天候がすばらしく、まさに春本番の陽気となり一日を楽しく過ごすことが出来ました。そして、高橋氏が同道してくれたおかげで、持参した石仏調査原簿用紙が足りなくなるほどの、一日で53基もの石仏を調べることが出来ました。昨夜はその清書で遅くまでかかってしまい、余りにも多くの碑塔を調べられるのも善し悪しだと一人苦笑しました。
今日は一転して、一日中雨という天候。これ幸いと、午前中に画像処理も終わったので、本来なら「石仏巡り記」を掲載すれば良いのでしょうが、まだまだパソコン崩壊の後遺症が残っていて、HPをアップするのは明日以降になります。なにしろ、二月もあと数日で終わってしまいますので、取りあえずは「石仏月報」2月号を発行するための原稿整理があるのです。これも、ほとんど書き終えていたのですがその大部分はパソコン壊れと共に喪失してしまったので、再度作成しなければならない羽目になったからです。しかも、石仏月報2月号は、今年1~2月に出会った足利市の庚申塔特集として普段なら10頁のものが16頁の庚申塔を纏めていたので、余計に大変なことになっているのです。たった5部発行なのに、そこまで凝らなくても良いかなと思いつつも、それは自分自身の石仏巡り纏めでもあるので、仕方がないのです。
それと、今月に限って特別に纏めた「足利市の江戸前期までの庚申塔」冊子も、もう一度編集しなければならなくなりました。合計47基の庚申塔を画像と共にその内容をもう一度編集する作業、この同じことの繰り返しをしなければならない空しさをまず完成させなければなりません。この資料は、初めて纏められた栃木県足利市の江戸前期までの庚申塔資料だけに、今や遅しと待っている方々がいるからです。なお、この資料はまじめに庚申塔を調査していらっしゃる方に限り、郵送料だけでお送りしますのでご希望の方はメールにてその使用目的を明記のうえお申し出下さい。
いずれにしましても、高橋様ありがとうございました。いよいよ三月、来月もよろしくお願い申し上げます。懲りずに、またご同道ください。
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何とも、イヤハヤな1週間でした!

2006年02月24日 | Weblog
甘く見たツケは大きい、話し。
この頃のコンピュータは、滅多なことではハードデスクが突然にクラッシュすることはなくなった。そのため、余程のことがない限りハードデスクに溜めた資料を、定期的にバックアップする事をしなくなっていた私である。だから、前回にバックアップを取ったのは昨年末のことで、それ以来約一ヶ月半は作成した資料をハードデスク内に置いたまま過ごしていた。
それが突然、日曜日の夕方に、まず時間と日付が大きく狂い始めた。これは、コンピュータが壊れる前兆を意味していると感じたので、急いでバックアップ作業に入るべきだったが、その時に頭に浮かんだのは「ウイルスに感染?」ということだった。その時点での日付は、すでに1902年というとんでもない過去になっていた。ウイルス感染防御態勢だけは万全と考えていた、我がコンピュータに侵入したのは誰だ!、と言うわけで、それまでの作業を止め、その元を追求するために一度電源を切って確かめることにした。
結果的には、それがいけなかった。私のコンピュータは、起動すれども全く動かず、というやつで裏技などを併用するも何も現れない。そんなことを繰り返している内に益々おかしくなり、ついにオシャカとなる。
この時点で、頭の中は真っ白!。今年一月から作成した膨大な資料が、一瞬にして消え去ったことを意味していたからである。また、年末にバックアップ漏れの資料も沢山あったのである。それらが、すべて無に帰したわけである。

それからが、私にとっては命がけ?の大仕事に入る。オシャカになったハードデスクから、救える物は一つでも多く回収する作業に入る。こんな大仕事は、実に十数年ぶりのことだから、その方法も忘れていることの方が多く、困難このうえない。コンピュータの周りは参考書籍とソフトと、なぜかドライバーなどの道具類で埋め尽くされる。

壊れた当日の日曜日夕方からは、まず何が回収したい資料かをリストアップするだけで終了して、コンピュータにはそれ以後さわらず。

月曜日の朝から、いよいよ開始。夕方まで、昼食もろくに取らずにがんばるも、何の成果も得られぬまま終了。残ったのは、むなしさと疲れだけ。

火曜日、何とか死んだはずのハードデスクから応答が来はじめるも、デスク内容までは覗けずに終了したので、明日に期待して終了。

水曜日、仕事で半日ばかり出かけたが、頭の中はコンピュータのことばかりが気にかかって仕方がない。加えて、その仕事の半分がコンピュータときたから尚のことである。
どうせ壊れているのだからと、恐ろしいような手段を多用していくうちに、それでも夕方にはすこしずつ中身が見えるようになってきた。ここで、一気に回収作業に入ることにする。でも、その時点でデスクトップに置いていた資料フォルダは回収不能なのがはっきりする。残るは、ハードデスクに運良く残された資料の回収である。フォルダを回収出来ても、その中身までは回収出来ているかどうかが分からぬまま、闇雲に気の遠くなる作業を繰り返して夕方となる。この頃には、既に精根尽き果てて、「もうどうでも良いや!」という気分である。が、例え一つのフォルダを無事に回収出来ただけでも、私にとってはそれを作り直すことを考えるとバンバンザイなので、その日は夜も作業を続行する。
そして最後に、ハードデスクを完全に破棄する。後は、明日からの新しい作業へ期待する。

木曜日
早朝から、回収出来た資料の再構築を行う。ダメなものもあったが、それ相当の内容が回収され、この4日間の奮闘のし甲斐があったことに大満足。
しかし、最も時間を要して作成したワープロ作業内容は回収不能となってしまった。作字に異体字、旧漢字、熟語集に経典用語に経典内容も消滅してしまったことは、少なからずショックである。特に経典の入力は、その一文字ずつの入力と校正に多大な時間を費やしただけに、しばらくは再開に手がつけられないだろう。
また、今年になってからの石仏巡り資料も、その多くはデスクトップに置いただけだったので、損害は甚大である。石仏巡り記録資料は、原本があるので再度打ち込めばよいが、石仏巡り記は、かろうじて校正用に打ち出したものが一部あるので、それを見ながら再度の作業となる。(一部の写真も喪失は、実に痛い)

金曜日。
早朝から、新しいバージョンのインストール作業を終えて、再びコンピュータが蘇る。しかし、この機会にとバージョンアップしたために、それまでのフォントの幾つかが使用できないことは判明する。また、古いソフトに不安定な物が出てきたのには困った。それを修復すべく、今度は様々な機能拡張やプラグインの収集に努めて、それでも何とか以前の状態に戻すことが出来た。
そして午後からは、お客様のHP更新のために出かけたので、バックアップの重要性を説明して担当の女性にその方法を教えてくる。

本日、金曜日。
朝から、蘇らせたコンピュータの作動状態を確認するため、仕事用の内容物を作成する。フォントの一部が使用不能だが、それ以外は問題なく作動するのを確認して、本当に一安心。まあ、失った資料は、これから時間をかけて少しずつ作成していきましょう。
ぜひ皆様も、大切な資料を作成したときには、面倒ながらもコンピュータを使い出した頃に戻って、まめにバックアップを取りましょう。
と、この一週間は何ともトホホな一週間でした。明日晴れれば、このイヤな一週間を忘れるために石仏巡りに出かけてウップンを晴らしてくるのだが…。
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2月18日の石仏巡り記

2006年02月19日 | Weblog
昨日18日も、足利市の月谷町を中心に石仏巡りに出かける。風もなく、穏やかな天候の中を、途中では庚申塚が山の中にあるというので里山を登ったり、田圃の畦道に腰掛けて庚申塔を眺めたりと、何とも心満ち足りた石仏巡りとなった。
ところで、朝一番で伺った田島町の光明寺では思わぬ石塔に出会って、一人で大喜びした。それは、今まで県内では出会ったことのない「醍醐經一字一石塔」とあるもので、文化十一年造塔である。
この「醍醐經」とは、いわゆる法華経のことだから、これは法華経を小石に一字ずつ書いて埋め(これを埋經という)、本来はその上にこの塔を建立したことを表している。しかし、この塔は、後代に移動された可能性が大のため、この下を彫っても恐らくは石經は出てこないだろう。それにしても、これは全国的にも報告例の少ない珍しい碑塔の一つである。
なお、今回で足利市の江戸前期までの庚申塔調査が、一応完了しました。その所在地と写真を一冊にした冊子を、今日ののんびりした日曜日に作りました。これは、私の発行している「石仏月報2月号」の別冊として纏めたのですが、何しろ自分の分も含めて発行部数5部ですから皆さんにお届けできなくて申し訳なく思っている。
さて、そんな今日の最後は、足利市の江戸前期庚申塔が全て出揃った安堵感で、暫くぶりに月谷町浄因寺へ行きました。カメラを抱えてのんびり登ったが、別に目的もないので観音様の石像を惰性で撮影したりして時間だけを浪費するために訪れたようなものです。この境内の石造物も、何時かは全て調査しなければならないと思いつつも、恐らくそれを実行することはないだろう。それでも、未撮影だった数庚塔の写真は全て撮影し、これで足利市の紀年銘のある数庚塔は95%の確立で実見し写真も出揃ったことになる。
そして来週からは、またいつものように足利市内の細かな地域を尋ね、私ならではの小さな碑塔を求めて彷徨い歩くことにしようと考えている。それも、この時期なので山地を中心にして…。
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2月11日の石仏巡り

2006年02月12日 | Weblog
今日は、佐野市在住の高橋氏と一緒に足利方面の石仏巡りに出かける。その目的は、足利市の庚申塔で読めないでいた銘文の解読作業である。加えて、途中途中の庚申名数塔調査なども加える。
兎に角今回は、高橋氏と一緒なので銘文解読には期待が持てると、まずは鹿島町の共同墓地にある寛文銘の庚申塔調査から開始。二人でタワシで擦っては磨きの作業を繰り返して、何とか物に出来た。
そして次は、春日部市在住の中山氏と野田市在住の戸向氏が偶然見つけたという板駒型の延宝庚申塔探しである。所在地がはっきりしなかったが、ナビゲータ役の高橋氏の指示通りに運転して、簡単に辿り着くことが出来た。しかし、その銘文解読となると完全にお手上げである。タワシで磨こうが拓本を取ろうが、全く文字が浮かんでこない。中山氏流に言えば「修行が足らん!」ということ。
江戸初期の庚申塔としては申し分のない姿をしているが、それも読めなければ話しにならない。悔し紛れに、その反対側にある手水鉢を眺める。が、こちらも紀年銘は土中に埋もれているのか不明。本当に悔しい場所である。
次は、近くの宝珠坊跡の共同墓地へ移動。ここにある庚申塔の紀年銘が何としても判らず、それでも諦めきれずにこの近くへ来る度に立ち寄っては眺めていたのだが、今日は強力な助っ人である高橋氏が一緒なので大いなる期待を持って紀年銘探し。何しろ、像容的には中山氏のお見立てによれば寛文塔でもおかしくない庚申塔とのお墨付きなのだから。そこで、今回も霧吹きをかけてはあちこちをゴシゴシ、何もでてこなければ又場所を移動してゴシゴシ。そんな事を繰り返して、右側の日輪下を磨いたところ、そこに文字らしき形跡を発見。更に磨きをかけたり紙を押し当てたりと奮闘・努力して、ついに「寛文」の文字を解読できた。
これで、今日の成果は大満足。一人で来たなら、こうすんなりとは行かなかったろうと、言葉に出さずに高橋氏に感謝。その高橋氏に時間を聞けば、既に12時を大きく過ぎているとのこと。道理で、空腹感を覚える筈だと、昼食タイム場所に相応しい少し先の鹿島神社を目指して車を走らせる。
鹿島神社の縁に腰掛けて、空腹を満たすだけの昼食。その昼食が終わるや、暫くぶりにやって来たこの神社の裏の庚申塔群を覗くことにする。と、前回までは立っていた二基の舟型光背石が見当たらない。不思議なこともある物だと酷い藪の中を入っていけば、二基ともものの見事に倒れ伏している。高橋氏の力を借りて表返しにすれば、どうやら二基とも傷はなく像容的には無事のようである。ホッと一安心してから、もしかしたらこれが写真の撮り納めになるかも知れぬと写真を撮っておく。そして元通りに戻しておく。それにしてもこれでは、県外や市外からやって来た庚申塔探しの人達には見つけだすことが出来なくなった。設置場所は傾斜地の上に、下が崖になっているので、中途半端な方法ではかえって下に落ちてしまう危険性があるので、このままの状態が取り敢えずはベストな保存方法なのである。
その後、板倉町へ立ち寄って確認しながら未撮影の庚申名数塔の写真撮影をしてから馬打峠を越えて月谷町へ入る。その月谷町で、地元の人に尋ねながらの庚申塔探しに入るが、一箇所を除いては思うような成果は得られなかった。しかし、和田地区で山の中にある中世の五輪塔群を案内してもらうことが出来た。その場所は、地元の方に案内されぬ限り判らぬ場所にあるので、思わぬ拾いものをしたことになる。
そうこうして、早くも時刻は午後三時半。そろそろ今日の石仏巡りも終了である。足利からの帰路も、いつもと違って隣には高橋氏がいるので話しに花が咲き、瞬く間に佐野市へ到着。高橋氏と別れた私は、今日の石仏成果の大きさに満足してわざわざ遠回りな栃木市への道を選んで帰宅する。
※ついでに、この石仏巡りの報告も4点ばかりですが掲載しましたので、併せてご笑覧ください。
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2月最初の石仏巡りは…

2006年02月05日 | Weblog
2月最初昨日の石仏巡りも、足利市へ出かけました。今回も、写真撮影と庚申名数塔調査が目的なのでいつもより早く出かけ、最初の撮影時間に入ったのは8時半でした。※前日に友達が来て、明日は雲竜渓谷へ行くぞ!と自慢して帰ったので、それらなこちらは寒空の下での写真撮影と決心したのです。それにしても、寒風が酷かったですね。
さて、そんな石仏撮影も日中になると逆光時間が多くなって、思うような撮影が出来なくなる。寒風から逃れるため、また逆光から逃れるためにもと思って、それまでの町中から松田町北部の山の方へ石仏写真撮影地に変更する。風がなければ、やはり春である。ポカポカした陽気に気分を良くし、今度は石仏写真撮影以上に、早春の里山にいるのが嬉しくなって何をするでもなくのんびりしてしまう。
そんな山地が中心だったので、今回は珍しくお寺さんは一箇所も巡らなかった。その後は、午後の陽が当たる場所にある石仏を中心に巡り、3時半まで現地にて過ごす。
そんな石仏撮影行で得た幾つかを、今回はご紹介しようと思っているが、HPに掲載するのは早くて今日の夜以降になる予定。何しろ、撮影したコマ数は80余になるので、その整理に大わらわなのです。
それにしてもこの季節の石仏巡りは、夏場では探しようもないような碑塔が枯れ草の中から顔を出してくれているので嬉しい限りです。町中の石仏巡りは、夏場でも充分に可能なので、やはりこの季節は山地へ入るべきだと昨日はつくづくと思いました。そんなわけで、次回からはそんな夏場では手の付けられない山地の石仏調査に入ろうと思いました。
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