石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

昨日の石碑銘文の最終口語訳もついでに掲載しました。銘文調査提出の勉強です。

2017年08月30日 | Weblog

昨日の銘文最終校了を経て、今度は提出用の資料を作成しました。漢文の素養もない私が読み下したものなので、漢文学的には間違っているかも知れませんが、まあこの程度の内容が記してあれば一般の方には通じ易いのではないかと、そこに出てくる人物の経歴も判る限り、ご覧のように簡単な説明として付け加えました。誤りのご指摘などがありましたら、遠慮なく書き込んでください。個人的に勉強させていただきたく思いますので‥。
なお、銘文中の語彙などの説明は、別紙に掲載しますが、ここでは省略です。

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昨日の石碑銘文の最終校了が終了したので掲載しました。銘文調査の勉強です。

2017年08月29日 | Weblog

昨日掲載した物と見比べていかがでしょうか。訂正した箇所は、多分24箇所に及ぶと思います。細かく見れば、まだまだ修正したいところがあるのですが、それは所詮楷書体で書かれた物を印刷書体である明朝体で書き表そうとしているのだから、仕方がないかと諦めています。これで、8月5日に碑面掃除をし、20日に手拓した石碑の一つを完成させることが出来ました。このような方法が、所謂石碑銘文調査の基本だと私は考えています。尤も、これは銘文だけですけれどネ。これから提出用の銘文意訳と語彙説明や、その銘文中に出てくる人物等の解説を加えて行きます。勿論碑陰にある多数の氏名などは、まだ未調査なので提出できるのはまだまだ先が遠いです。ご覧の方で、この最終銘文中に明らかに間違っている箇所がありましたら是非の御教示をお待ちしています。そしてお閑な方は、どこがどう修正したのかをご笑覧下さい。多分、銘文調査のための勉強になるだろうと思います。

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前回に、下山先生之碑の全景写真を掲載したので、その続きです

2017年08月28日 | Weblog



前回に掲載した写真の拓本から、銘文のみを掲載しました。書家の藤本周三氏が揮毫した石碑は、足利市で数多く見られますが、この写真のように癖のない書体が好きな人々が多く居たのもうなずける美しい文字です。
この拓本文字を見ながら、自分で作成した升目原稿用紙に手写ものをベースに、ワープロへ銘文清書したのが下へ掲載した画像です。勿論、最終校正済みではありません。能力のない私が、丸二日間かけて清書したのを掲載しましたのでご笑覧下さい。今夜は、その清書した物を、もう一度拓本を見ながら最終校正に入る前のものです。必ず、少なからぬ数の文字を修正しなければならないし、時には自分で作字した文字を最初に打ち込んだ文字と入れ替えるときに、とんでもない間違いを起こしてしまうのもこの時です。それを再確認するためのものです。これをご覧の皆様も、気に入らぬ文字形や間抜けな文字置き換え誤りを見つけましたらお笑い下さい。その最終校了としたものを、出来れば明日に続けて掲載しようと思っています。

以上が、その最終校了前のものです。こうして掲載してから眺めていたら、気に入らぬ文字がありました。ありました。2行目下部の「武田」の「武」の文字や、最後の紀年銘の所の「歳在」の「歳」の文字等等。嗚呼。今回もまた、訂正するのが大変です。かようにも、私は集中力がないものかとガッカリですが、これが自分の能力と諦め、他の人が1日で仕上げるものを自分の能力に併せて10日かけて仕上げればよいのだろうと、今度は居直っています(笑)
但し、サンズイやハネなどの細かいところは修正しないことにしていますので、余りにも細かいところまでは見ないで下さい(笑い)

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八月に入って二基目の石碑紹介。

2017年08月24日 | Weblog


これは、8月五日に碑面の掃除だけをし、それを8月20日にはるばる足利市まで手拓しに行った石碑です。現地に8時半に着き、早速に手拓開始。そして水張りを始めたところ、碑面の凸凹に悩まされる。どうしてもシワが生まれてしまい、四苦八苦するも最後まで右下部分のシワをとることが出来ぬまま、諦めて墨入れする。ところが今度は、最下部の文字と台座が近づきすぎていて最下段の文字列は綺麗に墨入れ出来ない。時間ばかり経過してイライラしている所へ、佐野市在住の山口氏が突然に現れる。足利市内に用事があったついでに、様子伺いにやってきたと云うのを幸いと、銘文手拓最後となる3枚目は彼にお願いして採ってもらう。仕上がりは、銘文文字の1文字ごとのエッジの水張りが上手で、私よりも文字を汚さずに手拓してくれた。感謝感謝である。お陰で私は休憩は出来るはで、おお助かりだった。最後の篆額部分を私がして、この石碑の手拓が終わったのは12時半近くとなっていた。途中での雑談時間があったとは云え、半切画仙紙4枚の手拓に、結局は4時間も掛かったことに苦笑するのみである。山口氏と別れてから、独りで昼食時間兼休憩時間。隣りの石碑は、これよりも大きく2メートルを超えている。今日は気分が乗らないので、ここまでで終了にしようかと思ったが、遠路から来て目の前に洗った石碑を残して撤退する侮辱感に耐えられず、結局は午後1時から気合を入れ直して手拓開始。手持ちの画仙紙では、そもそも長さが70センチ近く足りないので、上部の篆額を含めた位置から手拓し、下部の足りない銘文箇所を追加手拓とすることにしたが、篆額上部に画仙紙を貼り付けるのに背伸びしてやっと届く。その足元は苔が張った石で、しかも濡れているので滑ること危険この上なし。勿論、脚立は持ってきたがとてもそれを設置できる状態ではない。そして次の二枚目の画仙紙水張り。ここで、大きな間違いをしてしまう。それは、つなぎ目の文字は2文字をダブらせて手拓するのが常だが、上部の篆額から水張りするときに目測を誤り、つなぎ目に必要な文字がかろうじて半分だけとなってしまっている。しかもしそれに気づいたのは篆額部分の墨入れを終えて銘文箇所に入って、暫くしてからという有様。今更やり直しする気分にはなれず、急いで最初に採った画仙紙を確認しに行くと、何とか文字同士で繋げれば大丈夫と判ってそのまま2枚目を終了する。最後の三枚目に入る段階で、既に午後3時を過ぎている。少なからず焦り気味に水張りして墨入れが終わったのは午後4時半だった。急いで撤収作業に入り、一休みしたいところだが、それは帰路の車中で取る事にして5時少し前に現地を離れる。二基目の手拓は、半切画仙紙で4枚半。都合、今回の手拓枚数は8枚半となり、正味7時間半で仕上げたのだから、まあ私ののろまな作業では仕方ないかと納得する。
ところで、今年の8月も、今度の週末で終わり!。そして今年最後の暑さが戻ってきたようなので、私の出番はないことにして、その分を拓本のパソコン取り込みやら銘文清書に費やそうと思っている。

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今夏の異体字好きな皆様への夏休み宿題回答です

2017年08月17日 | Weblog


いかがでしたか。尤も、問題を見て始めから挑戦しようという御仁はまずいないでしょうね。正直、私だって嫌ですから‥。
それでも、少しでも異体字に親しんだ経験のある方なら三分の一は読めるでしょうから、懐かしい文字が並んでいると思われたことでしょう。江戸時代に建立された石碑の多くは、碑面に劣化が見られて文字が読めるように拓本を採るのは意外と難しいものです。今回にしても、採り終えてからそれを元に清書しようとすると、「嗚呼、まだまだ手拓技術が未熟だ」と、実感しました。上記に掲載したものは、全てその拓本から取り出してさらに画像処理して元の文字に復元努力したものです。この位の手拓技術を身につけたいと思いつつ、いつも時間に追われて手拓するので、刻字文字に詰まっている泥などを刷毛で綺麗に洗い流すことを怠ってしまいます。碑面水洗いに、まだまだ甘さがあると反省しています。
さて、私の読んだ文字ではおかしいという方がいらっしゃいましたら、是非に御教示下さい。前回も記しましたように「今」の文字以外は出典を確認していますが、あるいは同形の文字違いということもありますので‥。
そろそろ、今年の夏休みを終えてウロウロしようと思っているのですが、また来週から暑くなりそうです。天気模様次第ですね。

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前回に続いての、足利市での戦争墓碑です

2017年08月16日 | Weblog


前回に掲載した福厳寺さんの階段南側にある、今回は日露戦役による戦死者の墓碑です。内容はそれほど難しくないので、この碑文の一部について気になるところを記してみましょう。その1.「還會優勢之敵遂殪」=帰隊時に優勢の敵に出会い、倒れる(死ぬ)。その2.「感歎不措」ですが、これは「感歎不知所措」で、「歎き悲しみつつも、褒め称えるところを知らず」という意味になります。※掲載した石造物調査原簿(調査年月日)のnoが間違っています。正しくは、20170709-1です。
今日は、八月五日に調査した、百姓一揆の義民、堀江六之蒸の銘文清書をする予定です。昭和五年建立の碑文なので、難しい所がないので、順調に進むことでしょう。これも銘文が清書終わったら、何しろ江戸中期の百姓一揆の内容なので掲載しようと思っています。(写真は以前に掲載墨です。念のため)
朝は、旧盆前に種を蒔いたダイコンが芽を出して大きくなったので、雨に倒されぬようその土寄せをしましした。何しろ毎日雨ですから、そうしないと倒れて泥に汚れてしまい、病気発生の要因になるので‥。通りがかりの人は、随分と早く種を蒔いたのですねと皮肉られるが、今年のような天候不順な年は、昔からの言い伝えで「豆と大根を少し多めに早く蒔くこと」と言いますからね。

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今回は夏休み中につき、足利市の日露戦役戦死者の碑を御紹介

2017年08月14日 | Weblog


石碑調査の中で最も等閑にされがちな一つに、今回のような戦争に関わる戦死者のものがあり、私にとっては大切な調査対象物なのだが実際の調査になると意外と難しい。それは、戦争碑は墓碑として多くあることが要因で、その縁者の許可を得ることが難しいからである。それだけに、お寺さんの墓域にあるのは住職さんの許可が得られれば喜んで調査する。今回の碑もその一つで、快諾頂いたので丁寧に手拓までした。今回のような戦争碑も沢山集まれば、間違いなくその時代の貴重な戦争実録内容として、2~300年後には関心がもたれるだろうと思っている。明日は、第二次世界大戦の終戦日。同寺境内に所在する、今度は日露戦争で亡くなった方の墓碑を鎮魂の意味で掲載出来たらと思っている。

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今回は碑文文字、異体字の皆様への夏休み宿題です。

2017年08月11日 | Weblog


ただ今先週の土曜日を以て、当方は夏休み中につき石碑調査には行かないので、その分の時間を相変わらず碑文文字の清書に費やしています。そしてそれもどうやら、上記異体字の正字も一字を除いては出典が確認されたので最終校了に近づいてきました。私一人で、このような異体文字の正字確認を楽しんで?いるのはもったいないと考えまして、今回は皆様にもそんな楽しい?時間を味わってもらいたく上記に掲載しました。易しい文字から、「こりゃ~なんだ!」という文字まで、様々です。また、正字は同じながら、少しだけ文字形態が違うものなど、調べるほどに面白くなります。もし、挑戦する方がいましたら右側から縦に読んで見てください。勿論、その正解をこのブログへ書き込んでくださっても結構です。その正解、私の方が読み間違えていたらどうしよう‥。という、笑えない話になるかもしれませんが、旧盆明けには、その私なりの正字をここへ掲載してみたいと思っています。尚、「今」と自分勝手に読みました異体字だけは、まだその出典に出会っていません。ご存知の方から是非の御教示をお願いできたらと虫の良いことを考えています。

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足利市の百姓一揆に関する石碑調査

2017年08月06日 | Weblog


八月は、暑さの為に暫くは夏休みとして出かけるつもりは無かったのだが、ここの所の毎日の曇天なら暑さも厳しくないだろうと、出かけてみようかという気持ちになり、板倉町から松田町周辺へ出かけた。
そして最初に訪れたのが、上記に掲載した板倉町の羽黒山神社・六之丞八幡宮です。この百姓一揆事件は、寛保三年(1743)の出来事で、河内国高木若狭守侯の別封であった当時の農民の飢饉に対しての対応に不満を募らせた百姓達が、五十部(ヨベ)村にあった代官屋敷まで直訴に出向いたが、それを阻止しようとした堀江六之丞を、代官ではこの一揆の主唱者と看做されて牢に入れ、拷問を受けた上で斬首されてしまったことです。その事件のあらましを、昭和五年に記して建立したものです。サイズは、高さが133センチと小ぶりなので、拓本を採るには手ごろな石碑なのだが、現地へ行ってみるとそこは1センチ以上もある薮蚊の大群が乱舞している場所だった。半袖の吾身にとっては最悪の環境!。この碑の前で、手拓すべきかヨクヨクと考える。しかし、はるばる宇都宮から目的を持って来たからには、薮蚊が恐ろしくて退散したとは自分の名折れ。取りあえずは、タオルを水に浸してそれを広げて振り回しながら、周囲の薮蚊を撃退してから急いで碑面の水洗い。しかし、直ぐに私の体温と汗の臭いを嗅いだ周囲の藪かが群れとなってやって来て何にもならない。今度は、タオルを水に浸してから肌の出ている首や腕に巻きつけて、刺される箇所を最小限に留めたつもりで画仙紙の水張り。そんな対策もむなしく、薮蚊は身体にむさぼり付く。そしてその被害は墨入れの時に訪れ、画仙紙にタンポを打つ回数と同じくらい、身体に止まった薮蚊を叩き落すことになる。そのために、墨入れが終わったときにはタンポで薮蚊を叩いた全身(半袖やズボンに、肌の出ている腕等)は油墨で真っ黒。それはまさしく、乞食以上の姿であった。勿論、手拓が終わって直ぐにしたのは、バケツに入れてきた水を使って肌に付いた墨とズボンの墨落とし。お陰で、それでなくても汗でびしょぬれのズボンは益々濡れてしまったが‥。
普段なら1時間もあれば採れる手拓時間は、その倍の2時間を要す羽目になってしまったし、蚊に刺された箇所は数え切れない。今日こうしている今も、薮蚊に刺された痕が腕のあちこちに赤い斑点となって残っている。当地を脱出して車に戻り、直ぐに持ってきた氷で冷やし、清水で薮蚊に刺された箇所を綺麗に拭いてから、やはり持参している薬を塗ったのだが、それでも痕はあと数日残ることになるのだろう。
 その後は、松田町の板倉神社へ行って一休み兼昼食。薮蚊に対する対策が効いたのか、痒みはなくなり、腫れも引いてきたのを良いことに、境内にある2基の石碑調査に入る。しかし、その2基の碑は、余りにも碑面が酷い状態。拓本どころの話ではなく、碑面掃除の段階である。脇を流れる疎水を紐をつけたバケツで汲んでは何度も碑面にぶっ掛け、タワシで丁寧に掃除する。時には、勢い余った水が碑面に跳ね返って、こちらまでずぶ濡れ。それを何度繰り返したことか!。そうこうして、石碑と水汲み、碑面掃除に時間を費やすこと2時間半、既に時計は3時を過ぎているので、今日の拓本採りは諦め、綺麗になった石碑2基の写真を撮ったり、基礎データを筆記したりしてから、馬打峠経由で月谷町へ出て、「やはり出かけてよかった。次回の手拓が楽しみだ」と、それまでの苦労を忘れて帰路に着く。

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