この石碑は、2008年に石仏巡り途上にて出合った石碑だが、銘文はまだしも良い拓本を採っていなかったので、今回再訪問することにした。ところが何と、現地へ来てみれば往時とは全く道路が様変わりしていて、いわゆる日光北道路は閑散としていて地元の人しか通らない道となっていた。町中から南方に、新しいバイパスが出来、また目標物だった船生中学校は廃校となり、新しい「道の駅」となっていた。当然ながら、その当時の様子が判らなくなってあちこちとウロウロするばかり。勿論、地元の方に「明治時代の災害を記した石碑」といっても、だれもそんなものはこの周辺にはないと、全くの無関心ぶりをしめす。ようやく見つけ出したのは良いが、たった8年ぶりだと言うのに、その碑面の痛みように驚く。とにかく、ボロボロなのである。手拓に使用する画仙紙選びに悩むが、どうせロクな拓本にはならないと決めて、安い用紙を取り出して手拓開始。碑面がボロボロなので、水張りに苦労しつつ、急いで墨入れ。何しろ、紙面が乾けばそれに準じて画仙紙は勝手にはがれてしまう次第。特に最下部は、墨入れしても何の文字かが全く現れない始末には困った。そんな悪戦苦闘で、篆額を含めてたった半切画仙紙4枚を手拓するのにタップリと3時間以上もかかってしまった。そして昼食兼休息を入れれば、既に午後の1時が過ぎていた。予定では、近くの石碑も手拓する予定だったが、冬のこの季節では暗くなってしまい時間的に無理である。仕方無しに、次回の調査の為に周辺をうろついて石碑探しをしただけで帰宅してしまった。
そして帰宅し、改めて採ってきた拓本を眺めれば、それはもうどうやって画像化しようか方法が無いほどの酷い状態。今回は、この1基の拓本を画像化するだけでタップリ1週間はかかりそうである。嗚呼、作業をする前から溜息ばかりの今日である。
前回に掲載した訂正と修正箇所の文字作成等をして、完了するまでに1日半もかかってしまいました。なんと言うことだ!と、苦笑どころではありませんが、ここのところは毎日のようにこんな作業をしているので、右腕が腱鞘炎となって今日あたりはその腕のシビレが取れずいます。昨日は、栃木県塩谷町まで出かけたのでパソコンは触っていなかったのに、です。いずれにしましても、こんなことをしているとは、本当に暇な時間を過ごしているのだと笑われるのを覚悟していますが、こうして最終校了が終わると、部屋に拓本を掛けて、その拓本と自分の作成した碑文清書を眺めては、「ウン、これで納得出来る碑文清書になった」と自己満足にひたっています。今日は、もうパソコンに触れたくないので、午後は遅くなってしまったダイコンを貯蔵することにしようと思いつつも、そうするとまたスコップで土を掘らなくてはならず、結局は痛い腕を酷使することになるから同じことだなと再び苦笑です。
上記に掲載した碑文は2014年に、拓本なしで手写による清書内容。拓本を採るには、脚立に登らなければならず、また半切画仙紙で6枚必要で、手拓必要時間は4時間以上なので、その時は拓本を諦めてしまいました。
しかし今回、最後の最終校正を始めてみると、どうも疑問のある文字や文字形がおかしいところが出てきてしまった。やはり、採取校了には現地で再校正、出来れば拓本が必要となって、先々週に現地へ行って手拓してきたところ、誤字一字を含めてご覧のように文字形の気に入らぬ箇所がたくさんありました。当に、トホホッの現実です。こんな細かな所まで修正する意味がどこにあるのだろうと思いつつも、出来る限り自分の思うような清書をしたいとなると、どうしても気になった時に直しておきたい!それはもう文字との追いかけっこみたいなもので、永遠に満足することはありませんが‥。多分、清書された文字と赤文字等はどこが違うのと思う方もいらっしゃることと思いつつ、且なんと無駄な努力をしているのだろうと、冷ややかな思いで見ていることも承知の上で、今日からまた1日以上をかけて訂正しましょう。(笑)
先週は、栃木県烏山町(現・那須烏山町)の天性寺参道に見る「天保凶荒救済記念碑」の御紹介です。これも既に調査済みでしたが、拓本を採っていなかったので、暫くぶりに尋ねて手拓させていただきました。建立は、昭和13年と新しいものですが、二宮尊徳仕法により、米穀を貸与されての飢民救済とその後の新田開拓にまつわる、二人の顕彰碑です。銘文は易しいので、内容はご覧下さい。当日は、他にも調査したい石碑があったのだが、朝方の道路渋滞で現地に着くのが大きく遅れたり、町内で民家の火事があって道路が封鎖されたりという事等があり、結局は宮原の八幡宮宮司さん宅で遊んだり、知人のお宅で遊んだりと、成果としてはこの一基に終わってしまいました。まあ、それも寒村の秋景色を堪能出来たと納得して夕方遅くに帰宅しました。次回は、塩谷郡方面をうろつきたいと思っているのですが、これからは寒そうですね。