石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2011年9月24日は、今市市の碑(いしぶみ)調査でした!

2011年09月25日 | Weblog
 9月24日は、快晴の元での碑(いしぶみ)調査でした。朝一番で訪れたのは9月11日に行ったものの家人が留守だった宇都宮市徳治郎地区の個人宅。しかし、今回も誰もいずに仕方なく碑陰を覗いて建立紀年銘等を無断で筆記させていただきました。
 次に向かったのは、宇都宮藩最後の城主となった戸田忠友の篆額とその家老戸田香園による撰文并書となっている今市市小林地区の個人宅墓地にある「征清殉国之碑」の調査です。農作業に最適な日和だけに、留守を覚悟でお宅を訪ねると幸にも若奥さんがいて、快く墓地内の調査を了解してくれる。兎に角、真っ青な秋空の元での調査は気分上々。のんびりと、銘文調査に没頭できた。
さて、その後はどこにしようかと悩むが、取りあえずは所在確認のまま未調査となっている同じ小林地区古山下の「齋藤輝信之碑」を訪ねる。ところが、行ってみるとそこには庚申塔類などの石塔は以前のままにあったが、肝心な碑がない。それも、ここには2基が合ったはずだがそれら全てがない。これには少々慌てる。早速、その行き先の聞き込みである。その結果、それらは地主さんとの関係でとんでもなく遠い場所、しかも地元の方以外にはまず入らない酷い場所に移転していた。
 ここへ掲載した写真がその中の1基で、これは篆額が勝海舟、そして撰文が三橋津田仙、書が雲渓小島春となっている優れもの。(写真は、手拓したものを特殊用法にて貼り付けて作成したが、所詮はブログ画像ではその文字までは読めない限界があり、残念!)また、それを刻んだのは柳真洲とある。兎に角、その彫りは素晴らしく、思わず感性をあげてしまった程である。これは何が何でも手拓が欲しくなり、まずは泥だらけとなっている石面を水洗いする。しかも三度も丁寧に水洗いする。そしてルンルン気分で気持ちよいタンポのリズムに乗って暫くぶりに爽快な手拓となった。また、その隣には「和田君彰功碑」もあった。こちらも酷い汚れよう。手拓するのは大きすぎるので、1文字ずつ洗いながら手写することにした。しかし、500文字からある手写作業は、朝からのこれで五基目という碑塔調査に疲れもあって腰が痛くなり、時間ばかりが過ぎていった。そんな、一日で5基もの碑を調査するのは本当に暫くぶり。気が付けば午後も3時を過ぎていた。もう今日は、これで充分過ぎるほどの成果。腰の痛さ以上に、それからは帰宅してからの大変な清書作業に早くも気持ちが行っていた。
 次回からは、ママチャリで少し宇都宮市内の墓地巡りになりそうである。幾つ調査出来るやら、少しばかり気が重いが、まあダメもとで行くことにしよう。
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昨2011年9月18日は、栃木県壬生町方面の碑調査でした

2011年09月19日 | Weblog
朝から、秋の空となった好天。暫くぶりに宇都宮から遠出して栃木県壬生町と上三川町の、碑(いしぶみ)調査に出掛けました。特に今回は、壬生町の常楽寺にある「山本蕉逸先生」の墓碑に刻まれた銘文調査を主目的として出掛けました。山本蕉逸先生は、江戸末期に江戸から日光方面、そして宇都宮へ来て、かの坂下門下の事件にて獄中の身となり獄死した純粋な勤皇の志士の師でもあり、その後に壬生藩の儒者としてこの地で没しました。それだけに、山本先生の墓碑銘をなんとしても手拓して残しておきたいと思っての訪問です。住職さんに手拓の許可を得たものの、いざそれを手拓する段になって悩む、その墓碑の状態の悪さ。誰も墓碑を磨く人もいないので、表面は汚れでザラザラ。しかも傷みもそこかしこにある状態。まともに手拓を開始したのでは、銘文まで辿り着くにはほど遠いので、取りあえずは四面の掃除から始まる。本当なら、水吹きをして磨き上げたいのだが、墓域内の墓碑とあらば、それもなかなか難しいことなので、乾いた亀の子タワシでゴソゴシ磨く。もちろん、完全な手拓を採るには納得しかねる状態だが、仕方なく手拓を開始する。しかし今度は、南風の強風が吹き出してきて、その風が邪魔して碑面と完全に密着していない所から風が入り込む。そのままの状態で何とか仕上げた。まあ、銘文が読めれば私にとってはその出来不出来は問題外。それでも、ここで2時間強を過ごしてしまった。いずれにせよ、これからその銘文を解読するのが楽しみであり、本日の成果は半分以上の大満足である。※上記に掲載した写真が、その山本蕉逸先生の墓碑正面。
その勢いで、今度は壬生町からはさらに東へ走った上三川町へ向かう。その上三川町で、2基の碑(いしぶみ)を記録する。そこでもまた、大笑いする事があった。それは、碑を探し歩いていて一向に見つからないので、稲刈り真っ盛り中の農家の方の手を止めさせて尋ねれば、私の後を指さして笑っている。そして振り向けば、今私が通ってきた道路沿いの奥にはっきりとそれと分かる大きな碑が建っていた。いずれにしても、この地で一気に2基の碑を調査できた。
続いて、宇都宮最後の藩主「戸田忠友」に家老として仕えた「戸田香園」の書になる「河島易親」の墓碑探しとなる。この墓碑探しは苦労するだろうと、少なからぬ覚悟をしていたが、その墓碑を誌したのも宇都宮で優秀な門弟を輩出した「梅園春男」先生が記しているので、この墓碑も何としても確認したかったのである。そこで、上三川では白鷺神社の祠官をしていたというので、ダメ元で白鷺神社を最初に訪ねる。すると、若い祠官さんが神主さんに電話で問い合わせてくれ、それが何と隣の墓地の正面にあるという意外な結果だった。こんなにも簡単に見つかるとは、と軽い驚きで見に行くとその状態は最悪。加えて風が更に強くなって、仕方なく手拓は用紙を短めに裁断して部分採りを繰り返して何とか三面をものにした。
そして時間をみれば、既に3時。まだ昼食も取っていない。腰の状態が落ち着いていることに調子を合わせていると帰宅してから痛い目に遭うと、今日はこのくらいにして調査を終了することにしよう。兎に角、気づけばなお空腹感を覚える。いずれにしても、今日は大豊作。一日で大形の碑(いしぶみ)を2基に、手拓をしない限り銘文解読が出来ぬ古い墓碑2基を手に入れたのだから!。
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2011年9月11日は宇都宮市の碑(いしぶみ)調査

2011年09月12日 | Weblog
 真夏なのか、それとも残暑の最後の足掻きなのか、兎に角暑い。その中を、今年の腰痛のために残してしまった宇都宮市内の碑(いしぶみ)探索に出掛ける 
 今回は、その中の個人宅にあるだろうと思われる碑と決めて。最初は日光街道を北上し、293号線と交わる「徳次郎(とくじろう)」(※以前は「とくじら」と読んだが、今は読める人が少なくなったので「とくじろう」と変更された)地区へ向かう。この周辺には車を止める場所がないので、富屋地区のセンターへ無断で車を置かせてもらうことにして、後は歩くことにする。そして目標とする碑が個人宅内の敷地内にあるのを発見。早速、ご挨拶に伺うがお留守のようで誰も出てこないところか、広い敷地内にも人影さえない。まあ、今回は所在地が分かっただけでも良しとして、出直すことにしよう。それでも、碑表だけは図々しく写真を撮らせて頂く。通りに出ると、道路の反対側に農家の方が自転車に乗ってこれから田圃へ行くところ。慌てて挨拶して止め、話を聞くことにする。と、その方は、私が訪ねた家の親戚の方だったので、丁寧に話に乗っていただけた。特に、苗字が「外鯨」。これを「そとくじら」さんと読むのか、「とくじら」さんと読むのかで悩んでいたが、お陰で「とくじら」で良いと分かった。「徳次郎」に「外鯨」さんが居るなんて、何とも愉快な話だが、以外とこの辺から、江戸末期に会津から4人の同志と出てきて、彼がここに住み着くようになったのは、そんな読みが地名と同じだという簡単な理由からかも知れない、と一人思う。
それにしても、その碑はまた馬鹿でかい。本体だけで3メートルはあるだろう。今度来るときは、その銘文を読むことになると、覚悟を決めて元のセンターへ戻る。

次は、駒生町にあるというやはり個人の頌徳碑である。自宅にあるだろうと、その地区の大きな農家を訪ねて聞き取り調査をする。そして数件目にして、それは我が家の裏にあった家だが、今は完全に引き払って全く関係ない他人が住んでいるという。そしてその敷地内には、そんな碑は建っていなかったとも言う。これには困った。仕方なく、その方と色々話をしている内に、そう言えば元の消防小屋跡地に何かは知らぬが今も大きな石が建っている、という。しめた!。それだ!と直感し、その場所を教えてもらっていそいそと向かえば、それが正しく探していた頌徳碑だった。しかし、それは朝方に見た碑以上に大きい。しかも、完全に北向きに設置されているので、それでなくてもまぶしい真夏のような太陽が逆光となって、どうしようもない。それでも、目の前にある碑を見て逃亡するには情けなく、帽子を深めに被って上部文字は半分見えないけれども一行ずつ丁寧に読んでいくが、下部はまた高い土台の上に乗っているので、いちいち土台から降りて読まなければならない。全部で24行。つまり土台に登って上を眺め、降りてはまた下部の銘文読みを48回は最低でも繰り返したことになる。その後は亦、不確かな文字の再確認。ホントッ、労の多い調査であるが、だからこそ誰もしない。つまり、私がしなくてはならない。という、変な使命感に燃えてこれからも当分は続けていこうと思う。なお、ここへ掲載した写真は、最初に訪れて留守だった方の碑である。
 次回は、どこへいこうか? 思案中である。それにしても一日でたったの二基。何か、情けない気持ちになる。
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今夏の課題が完成!「栃木県の石幢調査報告書」完成!です

2011年09月10日 | Weblog
今年の夏の課題として残っていた、「栃木県の石幢調査報告書」がようやく昨日製本が終わり完成しました。いつしか、調査開始から20年が経ってしまいました。その間に栃木県内全域で調査した石幢の総数は305基。それが多いか少ないかは別にしても、どこにあるかも分からない石幢を探し回った結果なので、自分的にはまあま満足ですし、多分この石幢に関しては私以後に調査しようと考える人さえ現れないでしょうから、その意味ではそれなりに意義のある報告書ではないかと自負しています。ただし、これを資料としてさえ見たい方もいないでしょうから、相変わらず私家本として死蔵する事になります。
 内容は、全石幢の詳細とその全画像に加えて各市町村毎のリストも掲載したために、総頁数は346頁という分厚いものになってしまいました。昨夜は、それを眺めていたら画像の入れ違いを見つけ、今は早速その訂正です。(笑)
 それでも改めて眺めると、一般の方には振り向きもされないような石幢調査によくぞ飽きずに20年間も継続できたものだと、自分ながらその根性に感心してしまいました。そして画像を眺めていて、特に佐野市から足利市方面は、佐野市在住の高橋久敬氏との楽しい石仏巡りで見つけられたものが多く、改めて高橋氏には感謝した次第です。また、その多くが苦労して見つけだした石幢だけに、写真を見ただけでその場所を思い出し、特に那須方面から鬼怒川東部方面の石幢は、今回の大地震で大部分が倒れてしまっているだろうと、その石幢達の事が心配になりました。中には、私が撮影した写真がその石幢の最後の写真というものも出てきているでしょう。
 いずれにしても、今年の私の夏もこれでもって終了です。今日などは、天気も良いのと腰の状態もまあまあなので石仏巡りに出掛けたいが、そこは焦らずに秋野菜の大根やら来春の美味しさを味わいたくてエシャレットの種の植え付けにしました。真夏のような汗を全身にかきながら…。その腰の状態が明日も続けば、明日こそどこぞに出掛けるつもりです。尤も、その調査も一般の方にはまたしても振り向きもされない碑(いしぶみ)調査となるでしょうが…。
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せっかく、石仏巡りに行こうと思ったのに…

2011年09月04日 | Weblog
 遊び半分の石仏巡りなら、腰の状態も持ちそうなので出掛けようとしたのに、この台風ではむりですね。ウ~ム、残念!
 ということで、昨日今日とパソコンの前に座り続けています。そんな台風のおかげ?で、「栃木県の石幢調査報告書」が何とか印刷段階手前まで終了しました。本当は、8月中に作成予定だったのですが、まあ許せる範囲でしょう。
 そしてCDに焼こうと空きCDを探していたら、その中に「大勝金剛について」の論考が出てきました。これは多分2005年頃に調査した、足利市に見る大勝金剛について調査したのを纏めたものです。掲載場所は、別HPの「石仏公開データ」コーナーの中にあります。日本全国的に見ても、この大勝金剛は珍しいものなので、興味のある方はご笑覧下さい。
※掲載した写真は、山の沢筋等に咲くレンゲショウマです。この花が咲くと、山は空き本番を迎えます。

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