9月24日は、快晴の元での碑(いしぶみ)調査でした。朝一番で訪れたのは9月11日に行ったものの家人が留守だった宇都宮市徳治郎地区の個人宅。しかし、今回も誰もいずに仕方なく碑陰を覗いて建立紀年銘等を無断で筆記させていただきました。
次に向かったのは、宇都宮藩最後の城主となった戸田忠友の篆額とその家老戸田香園による撰文并書となっている今市市小林地区の個人宅墓地にある「征清殉国之碑」の調査です。農作業に最適な日和だけに、留守を覚悟でお宅を訪ねると幸にも若奥さんがいて、快く墓地内の調査を了解してくれる。兎に角、真っ青な秋空の元での調査は気分上々。のんびりと、銘文調査に没頭できた。
さて、その後はどこにしようかと悩むが、取りあえずは所在確認のまま未調査となっている同じ小林地区古山下の「齋藤輝信之碑」を訪ねる。ところが、行ってみるとそこには庚申塔類などの石塔は以前のままにあったが、肝心な碑がない。それも、ここには2基が合ったはずだがそれら全てがない。これには少々慌てる。早速、その行き先の聞き込みである。その結果、それらは地主さんとの関係でとんでもなく遠い場所、しかも地元の方以外にはまず入らない酷い場所に移転していた。
ここへ掲載した写真がその中の1基で、これは篆額が勝海舟、そして撰文が三橋津田仙、書が雲渓小島春となっている優れもの。(写真は、手拓したものを特殊用法にて貼り付けて作成したが、所詮はブログ画像ではその文字までは読めない限界があり、残念!)また、それを刻んだのは柳真洲とある。兎に角、その彫りは素晴らしく、思わず感性をあげてしまった程である。これは何が何でも手拓が欲しくなり、まずは泥だらけとなっている石面を水洗いする。しかも三度も丁寧に水洗いする。そしてルンルン気分で気持ちよいタンポのリズムに乗って暫くぶりに爽快な手拓となった。また、その隣には「和田君彰功碑」もあった。こちらも酷い汚れよう。手拓するのは大きすぎるので、1文字ずつ洗いながら手写することにした。しかし、500文字からある手写作業は、朝からのこれで五基目という碑塔調査に疲れもあって腰が痛くなり、時間ばかりが過ぎていった。そんな、一日で5基もの碑を調査するのは本当に暫くぶり。気が付けば午後も3時を過ぎていた。もう今日は、これで充分過ぎるほどの成果。腰の痛さ以上に、それからは帰宅してからの大変な清書作業に早くも気持ちが行っていた。
次回からは、ママチャリで少し宇都宮市内の墓地巡りになりそうである。幾つ調査出来るやら、少しばかり気が重いが、まあダメもとで行くことにしよう。
次に向かったのは、宇都宮藩最後の城主となった戸田忠友の篆額とその家老戸田香園による撰文并書となっている今市市小林地区の個人宅墓地にある「征清殉国之碑」の調査です。農作業に最適な日和だけに、留守を覚悟でお宅を訪ねると幸にも若奥さんがいて、快く墓地内の調査を了解してくれる。兎に角、真っ青な秋空の元での調査は気分上々。のんびりと、銘文調査に没頭できた。
さて、その後はどこにしようかと悩むが、取りあえずは所在確認のまま未調査となっている同じ小林地区古山下の「齋藤輝信之碑」を訪ねる。ところが、行ってみるとそこには庚申塔類などの石塔は以前のままにあったが、肝心な碑がない。それも、ここには2基が合ったはずだがそれら全てがない。これには少々慌てる。早速、その行き先の聞き込みである。その結果、それらは地主さんとの関係でとんでもなく遠い場所、しかも地元の方以外にはまず入らない酷い場所に移転していた。
ここへ掲載した写真がその中の1基で、これは篆額が勝海舟、そして撰文が三橋津田仙、書が雲渓小島春となっている優れもの。(写真は、手拓したものを特殊用法にて貼り付けて作成したが、所詮はブログ画像ではその文字までは読めない限界があり、残念!)また、それを刻んだのは柳真洲とある。兎に角、その彫りは素晴らしく、思わず感性をあげてしまった程である。これは何が何でも手拓が欲しくなり、まずは泥だらけとなっている石面を水洗いする。しかも三度も丁寧に水洗いする。そしてルンルン気分で気持ちよいタンポのリズムに乗って暫くぶりに爽快な手拓となった。また、その隣には「和田君彰功碑」もあった。こちらも酷い汚れよう。手拓するのは大きすぎるので、1文字ずつ洗いながら手写することにした。しかし、500文字からある手写作業は、朝からのこれで五基目という碑塔調査に疲れもあって腰が痛くなり、時間ばかりが過ぎていった。そんな、一日で5基もの碑を調査するのは本当に暫くぶり。気が付けば午後も3時を過ぎていた。もう今日は、これで充分過ぎるほどの成果。腰の痛さ以上に、それからは帰宅してからの大変な清書作業に早くも気持ちが行っていた。
次回からは、ママチャリで少し宇都宮市内の墓地巡りになりそうである。幾つ調査出来るやら、少しばかり気が重いが、まあダメもとで行くことにしよう。