猛暑を通り過ぎて酷暑となる予定の今日は、そのぎらつく太陽が昇る前に写真を撮るべく、栃木県鹿沼市板荷地区の日枝神社へ行く。というのも、ここにある正徳元年銘の庚申灯篭の写真が未だに満足いくものが撮れていなかったからである。だが今回も、ファインダーを覗いただけで良い写真が撮れないことが判る。どうやら、この写真を撮るには全くの曇天の時に来る以外に方法はなさそうである。そして諦めるや、どうせ来たのだからとその拓本取りに目的を変更する。そんなこんなで、今日は予定外の拓本を入手したことになる。
それにしても、今日もアツイッ!。神社境内にある湧き水の所で冷気を浴びると、次へ移動する気力がなくなって、結局は午前10時頃までこの日枝神社で遊んでしまう。
今回も先週に続いて、特別に石仏巡りの目的地を持っていないので、日枝神社を離れたまではよいが行くあてがなくない。
そこで、宇都宮へ来た頃に登った里山、「川化山」への林道へ入り込む。その目的は、直射日光の厳しい石仏巡りよりもどちらかというと涼風の吹き抜ける場所で山遊びをしたいが為である。それでも途中で出会った農家の方に、この辺に庚申塔がありませんかと尋ねれば、「ああ、山の中の”タカッピラ”にあるよ」となる。そして言われるままに大川化林道を進むが、どこにもそんな庚申塔が見つからない。悔しいのでまた戻って、今度は山裾の方に尋ねれば、やはり”林道の左側のタカッピラ”にあると言う。そこで気が付いたのは、その”タカッピラ”とはどんな場所なのか、私自身が理解できていないこと。そこで失礼とは思ったが、「タカッピラ」の意味を聞けば、それは道路から「少し高みへ登ってから、平になった所」ということが判った。全く、その土地の方言を知ったか振りするものではないことを実感する。
山の奥の共同墓地へ車を止め、林道沿いに見ていけば、なるほど道路からは一段登った場所に庚申塔が祀られていた。しかも嬉しいことに拝侍二猿塔まであるではないか。主銘文とそこに付いている梵字が判読しにくいので、ここでも一旦車に戻って拓本道具を抱えてくる。そして手拓すれば、こんな山の中の庚申塔にしては嬉しく、正徳三年銘で「バン・ウン・タラーク・キリーク・アク」の金剛界五仏種子と共に「奉庚申供養二世安樂所」の銘文が浮き出てきた。また同地には、元文五年銘、寛政十二年銘などを始めとした自然石庚申塔が幾つも建立されていた。しかし何せ森の中、汗くさい私の身体を察知したアブがやって来て、隙あらば血を吸おうと飛び回っている。そのアブに比べれば、最初から顔や手にまとわりついている蚊など可愛いものである。手拭いを振り回しつつ、調査を三基ほど終えた段階でついにアブに降参し、石仏調査は断念する。
そしてその後は、アブのいない場所を求めて林道奥地へ車を進め、空き地に敷物を敷いてから周辺の散策をしたり、早くも咲き出した秋の野草を観察しながら昼食を取ってのんびり過ごす。勿論、少しの時間の昼寝タイムも含めて。それにしても、太陽を遮る木々から吹き抜けてくる風は、まさに涼風であった。
さて、「このまま帰宅」では余りにも情けないので、鹿沼市街地に入ってからどこか行くところないかと思案した挙げ句、「そうだっ、まだ未調査の北材木町にあるという紀年銘不明の庚申塔を見に行こう」と考える。だが、鹿沼市に「北材木町」という町名はない。あるのは「上材木町」に「下材木町」である。その、北材木町にあると書籍に報告した方は、他人に碑塔の正確な所在地を教えたくない人で通っている人なので、暫し思案してから北材木町というからには「上材木町」のことだろうと推測してみる。車で上材木町をまずは一回り、町内の位置関係を頭に入れてから適当に車を走らせていると、厳島神社という脇に出た。早速車を路肩に止めて見に行くと、今日のアツイ夏の陽を浴びた、一見して「アッ、延宝塔だ!」叫びそうになる拝侍二猿型庚申塔が目に入る。その余りにも簡単に見つかってしまった庚申塔ながら、もし春日部市の中山氏が一緒なら二人して同時に叫んで駆け寄っただろうと、可笑しくなる。
端から延宝庚申塔と決めつけたまではよいが、どうにも紀年銘を始めとした石文が、真夏の太陽をまともに受けていることもあって全く読めない。道理で、くだんのこの庚申塔の所在を報告した人も紀年銘は不読扱いにしていた訳である。写真を撮ってから、これも拓本取りにかかる。下部が埋没しているので、まずはその場の草むしりから始めて、地面に敷物を敷いてから手拓開始。しかし、「延寶」らしき文字は出てきたがその他の紀年銘は全く解読できない。せめてもの干支位はとムキになるが、読めぬ物は読めぬで自宅へ帰ってからのお楽しみとして諦める。それにしても、その主銘文の頭にある大きな「イ」の種子が際立っている。その帰り際、振り返るとそこに案内板があって、その庚申塔は江戸中期の物であると記されている。全く、これこそ知ったか振りをした石仏調査者の入れ智慧ではないかと失笑する。
結果的に、今日の成果はこれだけで「大なり」といった気分で少し帰宅するには早いが熱中症になる前に帰ることとする。勿論、帰宅するやシャワーを浴び、サッパリしてから中山氏に電話御報告。毎度の事ながら、「このクソ暑いのに!」と笑われながらも、またまた先週に引き続いて見るものが増えてしまったと喜び、電話の向こうで9月のカレンダーを見ながら、三連休になる初日の9月15日に今日の分も含めた鹿沼から日光までの庚申塔巡りにしよう、の約束となる。もちろん集合場所は、いつもの東武日光線・新鹿沼駅で8時45分である。もし、同行したい人がいましたらご連絡下さい。
※HPへの画像紹介、今日はまだしていません。数が少ないのに…(^o~;)
それにしても、今日もアツイッ!。神社境内にある湧き水の所で冷気を浴びると、次へ移動する気力がなくなって、結局は午前10時頃までこの日枝神社で遊んでしまう。
今回も先週に続いて、特別に石仏巡りの目的地を持っていないので、日枝神社を離れたまではよいが行くあてがなくない。
そこで、宇都宮へ来た頃に登った里山、「川化山」への林道へ入り込む。その目的は、直射日光の厳しい石仏巡りよりもどちらかというと涼風の吹き抜ける場所で山遊びをしたいが為である。それでも途中で出会った農家の方に、この辺に庚申塔がありませんかと尋ねれば、「ああ、山の中の”タカッピラ”にあるよ」となる。そして言われるままに大川化林道を進むが、どこにもそんな庚申塔が見つからない。悔しいのでまた戻って、今度は山裾の方に尋ねれば、やはり”林道の左側のタカッピラ”にあると言う。そこで気が付いたのは、その”タカッピラ”とはどんな場所なのか、私自身が理解できていないこと。そこで失礼とは思ったが、「タカッピラ」の意味を聞けば、それは道路から「少し高みへ登ってから、平になった所」ということが判った。全く、その土地の方言を知ったか振りするものではないことを実感する。
山の奥の共同墓地へ車を止め、林道沿いに見ていけば、なるほど道路からは一段登った場所に庚申塔が祀られていた。しかも嬉しいことに拝侍二猿塔まであるではないか。主銘文とそこに付いている梵字が判読しにくいので、ここでも一旦車に戻って拓本道具を抱えてくる。そして手拓すれば、こんな山の中の庚申塔にしては嬉しく、正徳三年銘で「バン・ウン・タラーク・キリーク・アク」の金剛界五仏種子と共に「奉庚申供養二世安樂所」の銘文が浮き出てきた。また同地には、元文五年銘、寛政十二年銘などを始めとした自然石庚申塔が幾つも建立されていた。しかし何せ森の中、汗くさい私の身体を察知したアブがやって来て、隙あらば血を吸おうと飛び回っている。そのアブに比べれば、最初から顔や手にまとわりついている蚊など可愛いものである。手拭いを振り回しつつ、調査を三基ほど終えた段階でついにアブに降参し、石仏調査は断念する。
そしてその後は、アブのいない場所を求めて林道奥地へ車を進め、空き地に敷物を敷いてから周辺の散策をしたり、早くも咲き出した秋の野草を観察しながら昼食を取ってのんびり過ごす。勿論、少しの時間の昼寝タイムも含めて。それにしても、太陽を遮る木々から吹き抜けてくる風は、まさに涼風であった。
さて、「このまま帰宅」では余りにも情けないので、鹿沼市街地に入ってからどこか行くところないかと思案した挙げ句、「そうだっ、まだ未調査の北材木町にあるという紀年銘不明の庚申塔を見に行こう」と考える。だが、鹿沼市に「北材木町」という町名はない。あるのは「上材木町」に「下材木町」である。その、北材木町にあると書籍に報告した方は、他人に碑塔の正確な所在地を教えたくない人で通っている人なので、暫し思案してから北材木町というからには「上材木町」のことだろうと推測してみる。車で上材木町をまずは一回り、町内の位置関係を頭に入れてから適当に車を走らせていると、厳島神社という脇に出た。早速車を路肩に止めて見に行くと、今日のアツイ夏の陽を浴びた、一見して「アッ、延宝塔だ!」叫びそうになる拝侍二猿型庚申塔が目に入る。その余りにも簡単に見つかってしまった庚申塔ながら、もし春日部市の中山氏が一緒なら二人して同時に叫んで駆け寄っただろうと、可笑しくなる。
端から延宝庚申塔と決めつけたまではよいが、どうにも紀年銘を始めとした石文が、真夏の太陽をまともに受けていることもあって全く読めない。道理で、くだんのこの庚申塔の所在を報告した人も紀年銘は不読扱いにしていた訳である。写真を撮ってから、これも拓本取りにかかる。下部が埋没しているので、まずはその場の草むしりから始めて、地面に敷物を敷いてから手拓開始。しかし、「延寶」らしき文字は出てきたがその他の紀年銘は全く解読できない。せめてもの干支位はとムキになるが、読めぬ物は読めぬで自宅へ帰ってからのお楽しみとして諦める。それにしても、その主銘文の頭にある大きな「イ」の種子が際立っている。その帰り際、振り返るとそこに案内板があって、その庚申塔は江戸中期の物であると記されている。全く、これこそ知ったか振りをした石仏調査者の入れ智慧ではないかと失笑する。
結果的に、今日の成果はこれだけで「大なり」といった気分で少し帰宅するには早いが熱中症になる前に帰ることとする。勿論、帰宅するやシャワーを浴び、サッパリしてから中山氏に電話御報告。毎度の事ながら、「このクソ暑いのに!」と笑われながらも、またまた先週に引き続いて見るものが増えてしまったと喜び、電話の向こうで9月のカレンダーを見ながら、三連休になる初日の9月15日に今日の分も含めた鹿沼から日光までの庚申塔巡りにしよう、の約束となる。もちろん集合場所は、いつもの東武日光線・新鹿沼駅で8時45分である。もし、同行したい人がいましたらご連絡下さい。
※HPへの画像紹介、今日はまだしていません。数が少ないのに…(^o~;)