石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2007年8月25日も鹿沼市へ石仏巡り

2007年08月27日 | Weblog
 猛暑を通り過ぎて酷暑となる予定の今日は、そのぎらつく太陽が昇る前に写真を撮るべく、栃木県鹿沼市板荷地区の日枝神社へ行く。というのも、ここにある正徳元年銘の庚申灯篭の写真が未だに満足いくものが撮れていなかったからである。だが今回も、ファインダーを覗いただけで良い写真が撮れないことが判る。どうやら、この写真を撮るには全くの曇天の時に来る以外に方法はなさそうである。そして諦めるや、どうせ来たのだからとその拓本取りに目的を変更する。そんなこんなで、今日は予定外の拓本を入手したことになる。
 それにしても、今日もアツイッ!。神社境内にある湧き水の所で冷気を浴びると、次へ移動する気力がなくなって、結局は午前10時頃までこの日枝神社で遊んでしまう。

 今回も先週に続いて、特別に石仏巡りの目的地を持っていないので、日枝神社を離れたまではよいが行くあてがなくない。
 そこで、宇都宮へ来た頃に登った里山、「川化山」への林道へ入り込む。その目的は、直射日光の厳しい石仏巡りよりもどちらかというと涼風の吹き抜ける場所で山遊びをしたいが為である。それでも途中で出会った農家の方に、この辺に庚申塔がありませんかと尋ねれば、「ああ、山の中の”タカッピラ”にあるよ」となる。そして言われるままに大川化林道を進むが、どこにもそんな庚申塔が見つからない。悔しいのでまた戻って、今度は山裾の方に尋ねれば、やはり”林道の左側のタカッピラ”にあると言う。そこで気が付いたのは、その”タカッピラ”とはどんな場所なのか、私自身が理解できていないこと。そこで失礼とは思ったが、「タカッピラ」の意味を聞けば、それは道路から「少し高みへ登ってから、平になった所」ということが判った。全く、その土地の方言を知ったか振りするものではないことを実感する。
 山の奥の共同墓地へ車を止め、林道沿いに見ていけば、なるほど道路からは一段登った場所に庚申塔が祀られていた。しかも嬉しいことに拝侍二猿塔まであるではないか。主銘文とそこに付いている梵字が判読しにくいので、ここでも一旦車に戻って拓本道具を抱えてくる。そして手拓すれば、こんな山の中の庚申塔にしては嬉しく、正徳三年銘で「バン・ウン・タラーク・キリーク・アク」の金剛界五仏種子と共に「奉庚申供養二世安樂所」の銘文が浮き出てきた。また同地には、元文五年銘、寛政十二年銘などを始めとした自然石庚申塔が幾つも建立されていた。しかし何せ森の中、汗くさい私の身体を察知したアブがやって来て、隙あらば血を吸おうと飛び回っている。そのアブに比べれば、最初から顔や手にまとわりついている蚊など可愛いものである。手拭いを振り回しつつ、調査を三基ほど終えた段階でついにアブに降参し、石仏調査は断念する。
 そしてその後は、アブのいない場所を求めて林道奥地へ車を進め、空き地に敷物を敷いてから周辺の散策をしたり、早くも咲き出した秋の野草を観察しながら昼食を取ってのんびり過ごす。勿論、少しの時間の昼寝タイムも含めて。それにしても、太陽を遮る木々から吹き抜けてくる風は、まさに涼風であった。

 さて、「このまま帰宅」では余りにも情けないので、鹿沼市街地に入ってからどこか行くところないかと思案した挙げ句、「そうだっ、まだ未調査の北材木町にあるという紀年銘不明の庚申塔を見に行こう」と考える。だが、鹿沼市に「北材木町」という町名はない。あるのは「上材木町」に「下材木町」である。その、北材木町にあると書籍に報告した方は、他人に碑塔の正確な所在地を教えたくない人で通っている人なので、暫し思案してから北材木町というからには「上材木町」のことだろうと推測してみる。車で上材木町をまずは一回り、町内の位置関係を頭に入れてから適当に車を走らせていると、厳島神社という脇に出た。早速車を路肩に止めて見に行くと、今日のアツイ夏の陽を浴びた、一見して「アッ、延宝塔だ!」叫びそうになる拝侍二猿型庚申塔が目に入る。その余りにも簡単に見つかってしまった庚申塔ながら、もし春日部市の中山氏が一緒なら二人して同時に叫んで駆け寄っただろうと、可笑しくなる。
 端から延宝庚申塔と決めつけたまではよいが、どうにも紀年銘を始めとした石文が、真夏の太陽をまともに受けていることもあって全く読めない。道理で、くだんのこの庚申塔の所在を報告した人も紀年銘は不読扱いにしていた訳である。写真を撮ってから、これも拓本取りにかかる。下部が埋没しているので、まずはその場の草むしりから始めて、地面に敷物を敷いてから手拓開始。しかし、「延寶」らしき文字は出てきたがその他の紀年銘は全く解読できない。せめてもの干支位はとムキになるが、読めぬ物は読めぬで自宅へ帰ってからのお楽しみとして諦める。それにしても、その主銘文の頭にある大きな「イ」の種子が際立っている。その帰り際、振り返るとそこに案内板があって、その庚申塔は江戸中期の物であると記されている。全く、これこそ知ったか振りをした石仏調査者の入れ智慧ではないかと失笑する。
 結果的に、今日の成果はこれだけで「大なり」といった気分で少し帰宅するには早いが熱中症になる前に帰ることとする。勿論、帰宅するやシャワーを浴び、サッパリしてから中山氏に電話御報告。毎度の事ながら、「このクソ暑いのに!」と笑われながらも、またまた先週に引き続いて見るものが増えてしまったと喜び、電話の向こうで9月のカレンダーを見ながら、三連休になる初日の9月15日に今日の分も含めた鹿沼から日光までの庚申塔巡りにしよう、の約束となる。もちろん集合場所は、いつもの東武日光線・新鹿沼駅で8時45分である。もし、同行したい人がいましたらご連絡下さい。
※HPへの画像紹介、今日はまだしていません。数が少ないのに…(^o~;)
コメント

8月19日は、鹿沼市へ!

2007年08月20日 | Weblog
2007年8月19日(日)
 朝から今日は、石仏巡りに行くつもりもなくグダグダと過ごしていたが、それでも9時頃になると暑いからと言って何もしないことに耐えられなく、車に乗り込んでしまった。当然ながら行き先も考えていなかったので、取りあえずは近くの鹿沼市へ向かう。鹿沼市と言っても、そうそう同じ所ばかり行くのも能がないと、拾数年ぶりに久我地区の石裂山方面へ向かう。車を運転しながら、道沿いに出てくる碑塔のどれが調査済みで未見のものの区別がすっかりできないほど、暫くぶりの道だったが道沿いの荒川縁に「石裂山」と書かれた四角柱灯篭が目に入る。おそらくこんな所の灯篭は、昔は記録に付けていなかった筈と立ち寄り、本日初めての碑塔調査となる。紀年銘は文化2年ながら、そこには「日光御神領」ともあるから、この久我地区は日光の神領だったことが判る、地誌的に何となくモウケ物を入手した気分。
 その後もあちこちを覗くが、暑さもあって記録用紙に書き込む気力がないまま、所在地だけは頭に記憶させる。そして寺畑バス停を過ぎた所で、道路沿いに共同墓地となっている観音堂らしき物を目にする。ここは、タブンまだ来ていないだろうと感じて車を路肩に止める。狭い県道なので、私が路肩に車を止めると行き交う車は交互通行となってしまうが、まあそれほど交通量の多いところでもないので気にしないことにしよう。
 早速覗いてみると、それは観音堂ではなく「地蔵堂」となっていて、奉納された石燈籠に「虫地蔵尊」という余り聞き慣れない地蔵尊の名前がある。また、この地蔵堂は当地の霊場巡り札所としての番号が記されている。
 そしてそこに、四角柱に刻まれた拝侍猿塔があった。しかかもその拝侍二猿は、塔の上部にいる。当鹿沼地方で、拝侍二猿が上部にいる塔は延寶年間の庚申塔である。その、気になる紀年銘どころか、他の石文も碑面が摩耗していて全く読めない。石文が読めないとなると、どうにもムキになる性格の私。早速、車からタワシ一式やら手拓道具一式を抱えてくる。そしてまずは水洗い。隣に小川が流れているので水の心配はいらないので、全体を綺麗に水洗いしてあげる。それにしてもその碑面は酷いアバタ面である。取りあえずは試験的に手拓を開始するが、出来上がった画仙紙には殆ど文字が浮かんでこない。真夏の太陽がガンガンと当たっている碑面ゆえに、また場所が悪いので、一文字づつの判読が不可能である。もう一度、手拓のやり直しである。暖められた碑面と直射日光で、水貼りするや乾きだしてくる。何とも忙しい手拓だが、先ほどの試験手拓よりも墨を濃く入れなければならないので大忙し。手拓が終わるや取り外し、地蔵堂の縁側に広げて見ると、何となく今度は文字らしき陰影が出てきた。しかも、延寶らしき文字と偈頌までもが…。
 「よ〜しっ、今日はこれで終わりにしよう!」と、思わぬ収穫に大喜びで今日の石仏巡りを止めて帰路に付く。そして帰宅し、早速に春日部市の中山氏に電話報告。実は、ここのところの毎回の石仏巡り、その度に中山氏に電話連絡していたので、そろそろ余りにも迷惑だろうから止めにしようと思っていたのだが、延宝らしき庚申塔が出てきたからにはそうも言っていられない。電話口に出た中山氏も、「この暑いのにまた行ったの!」と完全に呆れている。そして、またまた新たな江戸前期の庚申塔、しかも偈頌付きが出てきたのでは、「もう栃木県のリスト書き換えは当分諦めた!」と、嬉しそうに笑っている。いずれにせよ、9月になってからの一緒の庚申塔巡りの中に、この庚申塔も追加することにした。そしてその夜は、手拓した物を解読。しかし、全部は解明出来ないし、紀年銘などに確信の持てない部分が出てくる。一応、延寶四年銘としたが、中山氏の力を借りて一緒に再確認することにしよう。
コメント

ついに、日光市の江戸前期庚申塔調査終了です。

2007年08月15日 | Weblog
 今日8月15日は、言わずとも終戦記念日。そして私には何とも嬉しい、旧日光市の江戸前期庚申塔調査の終了(完了)記念日となりました。
 というもの、昨日佐野市在住の高橋氏から、日光輪王寺の許可が下りて、三仏堂にある延宝六年銘薬師如来坐像の庚申塔調査が出きるようになったが、明日行きませんか、という願ってもない電話があった。それはその前日に、春日部市の中山氏と電話で話していて、日光の庚申塔調査は三仏堂のを諦めたと話したばかりだったので、最初は信じられないような朗報だった。もちろん、二つ返事で「ぜひ同行!」となる。
そして今日、日光市松原町公民館で9時に待ち合わせしてから、輪王寺社務所へ行って、特別許可の腕章を頂く。
 今まで、その薬師如来像は三仏堂内に祀られているものと思っていたが、以外にも戸外のひょうたん池の敷地内に祀られていた。そこは、かつて「釘念仏」調査で訪れたところだったのである。従って、そこに石仏があるのは知っていたが、まさかその中の一体が庚申薬師像だったとは…。

 まずは、調査の為にご迷惑をかけますと敬ってから、覆屋の中に納まっているのをこの時ばかりと馬鹿力を発揮して表にご出座願う。赤い前掛けに頭巾をはずせば、間違いなく藥壺を手にする薬師様。綺麗に埃を落としてから、まずは裏面の石文を手拓する。手拓ついでに、輪王寺さんにも提出用の拓本も取る。そしてあとはお決まりの撮影会となり、無駄になるのを承知でめったやたらに写真を撮る。何しろ、ここへは二度と入れないのだから、こちらも必死である。そんなこんなで、全ての調査が終わったのは11時過ぎ。せっかく許可を得て、まず普通では入れない地域にいるのだからと、同地にある「釘念仏」塔の石文も手拓してから退出。
これで、念願の三仏堂の庚申塔調査も完了となる。この嬉しい気持ち、庚申塔に並々ならぬ興味をお持ちの方なら理解して頂けるでしょう。何しろ、高橋氏のおかげで外部の人間は入れない特別地区にある薬師様を自由に調べ、挙げ句の果てに拓本まで取れたのですから。明日にでも、その画像紹介をHPの方でしたいと思います。当然の事ながら、今まで報告されていた石文とは少なからず異なる所があります。やはり、すべからず実物を自分の目で確かめないといけません!、ということを今回も実感しました。

そして何よりもその成果の立て役者は、金物研究では第一人者の高橋氏あってのものと深く深く感謝する次第です。そして特別の許可を下さいました輪王寺の方々に厚く御礼申し上げます。そう言えば、調査中は夢中になっていて、今日の暑さを忘れていました。下界へ降りてきて、現実の猛暑を味わったが、何しろ今日は大満足!、バンバンザイである。
コメント

8月12日も日光市の庚申塔調査に!

2007年08月13日 | Weblog
 昨日8月12日日曜日も、このクソ暑いのに日光へ庚申塔調査に行ってきました。最初は、小来川の水草地区にある天和元年塔です。朝の涼しい内に手拓を終了しようと8時過ぎから始めたのですが、やはり夏の太陽の暑さには変わりがありませんでした。そして問題は、その後の写真撮影にありました。太陽の光線が当たるには、その後その場所で一時間半ばかり待つことになりました。何もすることなく、いや、暑さのために周辺碑塔の再調査をする気力がなく、ただ待つだけの時間は長く感じました。それでも時間がありすぎるので、黒川の対岸へ渡って初めての地域に少しだけ足を伸ばしました。勿論、歩いてです。そこで、宝暦二年銘の1猿1鶏が浮き彫りされている青面金剛供養塔の四角柱に出会いました。日光での1猿1鶏像容は非常に珍しいので、思わぬ拾いものにニンマリです。
 そんなこんなで、写真撮影が終わったら11時になっていました。何と今日も、一箇所で3時間も過ごしてしまったことになります。そうまでして調べても、読めぬ文字があるのには困ったものです。文献では「庚申」とあるのに、手拓したものではどうしてもそう読めぬまま、1文字はとうとう不読扱いです。全く、困ったものです。

今日は、暑い盛りなので目的地は最初の小来川と、山の中にある延宝塔の精査として山久保地区の二箇所と決めていたので、その後は道路沿いの庚申塔を幾つか拾いながら山久保の沼内へ向かいました、

 高平山登り口の中へ車を乗り入れ、ここで丁度12時。森の中を吹き抜けてくる風を身体に筌ながら、快適な食事時間としました。何しろ今日は時間がたっぷりあるので、食後は一人で大休憩。周辺の野草観察をしたり、小鳥の声を楽しんだりして、午前中の疲れを完全に取り去りました。勿論、30分程は敷物を敷いて横になりました。

 さて、この場所は昨年も中山氏と一緒に来た所。拓本用具一式を抱えて山の中へ入る。そして精査すべく、早速延宝八年塔を手拓して石文を読んでいけば、いままでいかにデタラメに読んでいたかを思い知らされる。そしてここでも、学が無いために2文字を「私には読めぬ!」で不読扱いにセザルを得なかった。クヤシ〜イ!。
 同様に、その写真撮影にも悩まされる。晴れているが故に、木漏れ日が庚申塔に斑に当たってしまい、上手く撮影できない。仕方なく、白い夏雲が生まれてその中に太陽が隠れるまで待ってみよう、で、結局ここでも1時間以上の時間待ちとなる。杉林の中ではいかんせんすることがない。仕方なく並んでいる他の庚申塔を再調査したり、天明八年銘の剣人型六臂青面金剛像の細部を眺めたりして過ごした。そこに付いている三猿、当地ならではの三猿姿なので、HPの方へ掲載しようと思っている。それは、あくまでも日光の二猿の流れを汲む姿で、一般に見る塞ぎ猿ではなく、しかも三匹目の猿などは仕方なく彫り込んだような姿なのである。
 結局、ここの調査を終えたのは3時近くになっていた。森の中にいたのでそれほどの暑さは感じなかったが、エアコンのない車に乗り込めばたちまち汗が噴き出してくる。予定外の行動はとる気力もないまま、そのまま自宅へ直行。シャワーを浴びて扇風機に当たりながら、中山氏に結果報告。そしてこれで、日光山内の三仏堂内にある延宝六年塔を除いては全て日光の江戸前期庚申塔精査が終わったことを告げる。当初の予定では、今年の秋までかかるかと思っていたが、予想以上の早さで終了したことになる。その意味では、全く気が抜けてしまった。まさか、こんなにも早く終わるとは思っていなかったので、次の行動予定を考えていなかったのである。しばらくは、のんびりと資料整理に時間を過ごそうと思う。

※16日までは旧盆休み。今回の庚申塔巡りは今日の夕方までにHPのほうへ掲載しますので、お暇な折りにご覧下さい。そしてこうして精査した旧日光市の江戸前期まで庚申塔。それを年内までに一冊にまとめようと思っているが、その発行部数に悩んでいる。いつものように5部発行では、「欲しいだろうな〜」と思う方々の顔だけでも7人いる。そんな訳で、今度は新たな悩みがうまれてしまったが、取りあえず石川博司氏と多田治昭氏だけには、少なくも10月までに作ってお送りしないと「シカト」されそうである。
コメント

4日の日光市庚申塔調査画像を掲載

2007年08月09日 | Weblog
 今のところ、我が家の野菜畑は大豊作で、贅沢にもそれらの処分に困っています。何しろ家内との二人生活なのに、スイカは大玉を一日で食べ尽くさなくてはなりません。スイカ畑を見に行くと、この猛暑で一気に大きく育っています。その数は10個以上もあり、これから二人でそれを食べ尽くさないといけないのです。加えてトウモロコシにトマトにナスに豆に…。嗚呼、どうしよう。お米など食べている暇もありません。

さてそんなことに悩まされながら、今夜は仕事を夜中まで続けている片手間に、去る4日の画像をHPの方へ掲載しました。庚申塔ばかりで面白くもないのですが、日光の庚申塔に興味のある方は御笑覧下さい。ついでに、宿題も出しておきました。
コメント

8月4日も日光市の庚申塔調査です

2007年08月06日 | Weblog
 8月4日も、日光市の庚申塔調査に行きました。今回は、まず最初に四本龍寺の7月7日に行った調査の再確認と、夕方に降り出した雨のために中途半端になった拓本取りです。今日は、先週と違って上手い具合に高曇りなのを良いことに、既に手拓済みの承應2年塔まで余計に取ってしまい時間の無駄遣い。それにしても、肝心な万治2年塔は交名部分が読めないのにはマイッタ!。この分では、全て交名は不読としなければならないだろう。碑面が旨く乾かないので墨入れするまでの時間を、隣の護摩壇などを撮影して時間を過ごす。その為、8時半からいるにも関わらず、この四本龍寺を撤収したのは11時を過ぎていた。少しばかり遊びすぎたと、急いで金谷ホテル手前の磐裂神社へ行って、前回に採寸忘れであった貞享4年塔の各部位を計ってから、最初の駐車場へ戻る。

 次の予定は、稲荷町の虚空蔵に倒れている延宝塔の調査である。丁度お昼なので駐車場で食べるか悩んだが、取りあえずは虚空蔵へ来てしまう。そして問題の延宝塔を見て、その主銘文から紀年銘まで故意に削り取られているのを目にして、まずはこいつをかたづけなければならないと、昼食前に手拓を始めてしまう。それにしても酷い庚申塔である。苦労して、それでも何とか物にする。そして日蔭に広げて解読してみると、紀年銘は延宝八庚申天九月四日となっている。庚申当たり日になるが、そうするとこの虚空蔵には同じ紀年銘を持つ庚申塔がこれで3基あることになる。中山氏の呆れる顔を思い出しながら、一人ニンマリしてしまう。こうして手拓を始めてしまうと空腹感も忘れてしまい、以前に手拓しながら不満足な庚申塔の再手拓を開始してしまう。そして気がつけば午後も2時を過ぎていた。慌てて、ここで熱々のラーメンを作って遅い昼食とする。

 以上で、日光市内の庚申塔調査は一応の区切りがついたことになる。もちろん、このまま素直に庚申塔調査を終了する私ではない。本日の、本当の目的はこれからで、それは旧日光市役所裏、薬師堂にある庚申塔再調査である。特に、これまでは酷い苔に全身覆われていたので精査をパスしていた庚申塔に主眼を置いている。そこに見える拝侍二猿姿は、どう見ても延宝以前の古い姿をしているので、それを今日は精査するのが最大の目的なのである。といっても、恐らく全身が現れて拓本が取れる状態までにするには最低でも1時間は碑塔掃除と磨きに精を出さなければならないだろう。庁舎の水場を何度か往復し、まずは全身を水洗い。続いて金属ブラシを使って、執拗な苔落とし。それでも根をしっかり張っている苔は、一本づつ爪で挟んで抜き取っていく。そんなこんなで、結局は掃除だけで1時間半ほど掛かってしまった。ちなみに、この庚申塔は今までに私を含めて誰も読んでいない物。画仙紙を水貼りした状態で、早くも紀年銘は寛文三年と出てくる。しかも嬉しいことに「汝等所行是菩薩…」で始まる偈頌まで刻まれているのが判る。今日もまたまた大ヒットである。日光での新たな寛文庚申塔の初確認である。ここでも、「俺も早く見たいヨ」という中山氏の顔がまた浮かんでくる。

いずれにせよ、全体を水洗いしてしまったので画仙紙取り外すまでには時間があるので境内の他の碑塔を眺めやる。と、その中に気になる駒型石がある。
 
 日月輪があって、下部に蓮華があり、種子は「バーン」である。紀年銘はと見ると、寛文八戊申天 二月中旬」。ここに拝侍二猿姿があれば文句ないのだが…。そんな独り言を言いながら、念のために主銘文を読んでみると「奉供養時三年」とあるではないか。ここへはこれまでに何度も来、挙げ句の果てに他人様を案内したこともありながら、今まで全く無視していた碑塔であった。「奉供養時三年」とあらば、これはもう間違いなく庚申供養三年一坐のことであり、その三年一坐の庚申供養が成就しての建立塔ではないか!。さらにこの塔を「庚申塔」とする決定的石文が「分布諸舎利」「而起無量塔」なる妙法蓮華経出典の偈頌が刻まれていたことだった。しかも「施主」「敬白」文字に交名まで加わっているのだから、もうこれは誰が何と言おうと「庚申塔」、しかも初確認のこれも寛文庚申塔となった。
ところで、今日の庚申塔調査は準備がおろそかだったので、前日に用意する筈だった画仙紙を机の上に置き忘れてしまっていたので、先ほどで手持ち用紙がなくなってしまった。あるのは、ちぎった中途半端な端切れだけである。それでもこれは是非とも手拓が欲しい物。そこで仕方なく、端切れを集めて水貼りして何とか重要な部分は全て手拓する。そして画像処理用の写真を撮って大満足。何しろ、初確認の庚申塔が今日は2基もあったのだから。時計を見れば、既に5時を過ぎている。今日の成果は120%の出来である。汗で全身グショグショに濡れ、朝からの休憩なしでの調査に疲れは感じるが、充実した思いで冷房なしのポンコツ車に乗って帰路についた。

そう、ここまでは良かったのである。
帰宅して、先ず最初にしたことはシャワーを浴びてサッパリすること。そして普段なら、早速今日の調査の整理やら清書を始めるのだが、何しろ今日は疲れた。加えて、送られてきた石仏図書や手紙などが机の上にあったので、それらに目を通して全ては明日の日曜日に繰り越した。
 そして翌朝、涼しい内にと手拓した用紙を広げて部分手拓した物は張り合わせて一つに仕上げていく作業に順次取りかかる。そして最後になって、どうも一基分の手拓用紙が足りないのに気づく。しかもそれは、寛文三年銘の、あの水洗いから始まって苦労した庚申塔である。家内も加わって、あちこち探すが見つからない。
 昨日のことを振り返っていくと、最後になって突然現れた寛文八年銘の庚申塔出現に舞い上がり、寛文三年銘の庚申塔に墨入れしたまま取り外すのを忘れたようだ。何のことはない、大チョンボの発生である。現地へ行けば、綺麗に水貼りされて墨入れも終わった庚申塔が、白く輝いて建っているだろう。その光景を想像しただけで恥ずかしくも滑稽になり、急いで今から取りに行くことにする。「な~に、日光までは片道1時間」と、笑いながら出かけたものの、また石仏巡りや観光客はまずもって滅多に行くところではないので、必ず昨日のままであることを信じながらも、こればかりは実際に行ってみなければ話しにならないヒヤヒヤもの。それでも、現地に行ってみれば、多くの碑塔の中でそれだけが白く輝いて昨日のまま画仙紙に包まれて立っていた。この嬉しい気持ち、皆さんならどう表現しますか?。そう、思わず「バンザ~イ」です。そして帰宅して、それだけで今日は昨日に続いて日光へ行って来た、と新たな寛文塔の調査報告を兼ねて中山氏に電話連絡したら、腹を抱えて笑っていた。そして猛暑が終わり、涼しくなったら、そんな馬鹿な場所へ案内することを約束する。
コメント