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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

大型連休前半は、石仏巡りは休みです!

2013年04月30日 | Weblog

4月27日に、碑文調査時の手拓作業が残っているのを片付けようと出かけたが、早朝の穏やかな陽気とは打って変わって、9時過ぎから突風が吹き出す。それも、私の体がよろめくほどの突風で、手拓どころの話ではない。碑石磨きの最中だったのが幸いして、画仙紙を水張りする前に諦められたのが、唯一の救いでした。
それからは昨日までの3日間、100坪ほどの家庭菜園に入りっぱなしで、前半の連休は終了。落花生とトウモロコシの種を蒔き、後半の連休中に植えつけるキュウリ、ナス、トマト、ピーマン、シシトウの床作りも完成させ、ついでにカボチャにスイカにミニトマト等の種を蒔き床を作成して蒔きました。それから、畑の隅にある花壇には、千日香や百日草の種を蒔く準備も‥と、石仏巡り以上に忙しく働きました。今年は寒いので、ジャガイモはやっと芽を出したところだが、エシャレットはまもなく食べられそう!。
そして今日は、朝から鹿沼市の碑文調査で手拓したまま放置していた拓本の整理作業に取り掛かるが、これまた、溜めてしまうと結構な量になり、改めてこんなにも沢山の拓本を採ったのかとあきれつつ、全てが終わる頃には腰が痛くなってしまいました。3日からの後半連休は、どこかへ出かけようと思っているのだが、今はまだ行き先が決まっていない。多分、当日の出発する直前になってからどこにするか決めることになるだろう。

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2013年4月20日は鹿沼市の教育に関する碑の最終調査でした。

2013年04月22日 | Weblog

約1年をかけて集めた、鹿沼市の教育(筆子塔を含む)碑の調査が、今回でようやく終了しました。上記に掲載したのは、その最期の1基となる、上南摩小学校の校庭で碑石近くに建立されていた二宮金次郎の石造です。これも何かの縁と撮影し、帰宅してから眺めていて思いついたのは、この画像を今回の碑文調査纏めの表紙写真にしよう、と。
さて、肝心な関係碑は、合計で26基。これが一市として少ないか否かは判りませんが、私的には江戸後期から明治にかけての地元教育に心血をそそいた人々の記念碑がこんなにも建立されていたことには感動ものでした。そしてその殆どの碑文を手拓できたのも、嬉しいことでした。ただ、余りにも偉すぎた先生の墓碑銘文は調査願いさえ申し出られずに未調査。また、調査そのものを断られた碑が一基ありましたが、これは小生の未熟さゆえにと今回は掲載を諦めました。また、風が強くて手拓了解を得ていながら未了なのが3基。まあこれは一ヶ月以内には物にしようと思っています。
そんなこんなで、これを以って暫くは鹿沼市から離れようと思っています。尤も、鹿沼市の石造物調査そのものは終了していないので、これからは気の向いたときに鹿沼市へは訪れることにします。そんな次第で、多分、暫くはその日の思いつきで出かけることになるでしょう。また、今回の調査報告書を一冊に纏める作業が待っています。これがまた大変で、いつになったら出来るかと思っています。半分は、その成果を纏める楽しさと、半分は面倒くささが同居の心境です。

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2013年4月13日も鹿沼市の碑調査が主でした。

2013年04月16日 | Weblog

2013年4月13日は、朝早くから鹿沼市の教育碑文調査に行ってきた。今日も風が吹いていたのだが、鹿沼市でも遠くへ来たので強引に手拓をした。何とか、まあまあの拓本が採れて満足。その気分爽快に誘われて、手拓が終わってから近くの姫宮神社へ本当に暫くぶりに行ってきました。尤も、それにはそれなりの目的があって、それが上記の「男體山」碑です。本体の高さだけで210センチもある大きさ以上に、これを揮毫したのが「島易親」号を「君龍」という人物で、彼は幕末に江戸の昌平黌分校(正しくは日光学問所)として日光へ出来たときに教授として赴任し、江府が終わると共に宇都宮へ出てきて二荒山神社と関係を持ち、やがて彼の出身地である上三川町へと帰郷し、そこの白鷺神社神官となった。もちろん、それだけでは食べていけないので下帷した。
そんな関係から、これを建立しようと計画した鹿沼市草久の姫宮神社氏子達は、宇都宮の二荒山神社へやってきて、それに相応しい人物を推薦してもらい、この男體山の文字を当時は日光から宇都宮へ移ったばかりの島君龍が揮毫することになったのだろうと推測される。そうそう、この男體山碑の紀年銘は慶応三年龍集丁卯八月穀旦となっている。なお、彼の墓碑が白鷺神社西側の墓地に建立されていてそこには彼の経歴碑文が記されている。これで、鹿沼市の男體山碑の注目すべき揮毫者は、野沢町神明宮の菊池教中についてのものとなるので、その署名と落款を手拓したくて来た訳である。それが終えてもなお、お昼にはまだ時間がある。そこで、前回も山の中にあると言う庚申塔を探しに、日光市との境になる山の中の峠まで足を伸ばし、車を降りて人っ子一人いない山の中を探索するも見つけることが出来ずに退散。深い山の中で、もちろん目標物も無いので探しようがない。それでも、次回もこの近くを通ったときは最期の再々調査をしてみたいと思っているが、多分見つけ出すのは無理だろうと思っている。何しろ、山へ入るないには「熊注意」の看板が沢山なりながら、その山の中へ入るとそんな看板さえない有様なのだから、やはり私でも一人での山の中は少なからず躊躇してしまう。
さて、午後はいつのも大芦神社敷地で昼食とし、そこから方向違いに遠くなるが移動して見野地区へ行き、菊沢西小学校の校庭に建立されている「渡辺千代作」先生の報徳碑文調査。生憎と、午後では逆光となって写真さえ上手く写らない。また、建立が昭和38年ということもあって、手拓するまでもなく全て手写することにしたが、最期の段になって、篆額の写真が逆光でなんとしても写らない。仕方なく、その篆額だけは手拓してから帰宅する。
次回は、鹿沼の教育芳躅碑調査予定もあと2基となったので、よほどのことが無い限りそれを終わらせようと思っている。まだ、手拓未了の碑があるのだが、ここまで来たら調査が最優先として‥。

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2013年4月7日・今週は天候不順につき石仏巡りはお休みです

2013年04月07日 | Weblog

気象情報では、昨日今日と大荒れの天候と騒いでいるが、今日などは太陽も出てきて雨に風もなし。これなら、拓本採りに行っても別に問題がなかったのに‥、と残念!
天気予報を信じた私が悪いと諦めて、ここの所進めている栃木県鹿沼市の教育に関する碑文調査を別のHPのように纏めてみました。もちろん、まだまだ未調査のものもありますが、途中経過として興味のある方は下記のアドレスをコピーして貼り付けてご笑覧ください。

 

http://sekibutsu.digiweb.jp/%93%C8%96%D8%8C%A7%82%CC%90%CE%91%A2%95%A8%8C%F6%8AJ%83f%81%5B%83%5E%8FW/%8E%AD%8F%C0%82%CC%90%CE%91%A2%95%A8/kanuma-kyouiku-hi.html

次回は、そんな次第でまた鹿沼市の碑文調査に行くことになるでしょう。

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2013年03月30日も鹿沼市の石仏巡りでした

2013年04月04日 | Weblog

今回はいつもと違って趣向を変え、青面金剛像の持物について掲載しました。今回のように、青面金剛像と一緒に見える付属物について詳細に見ると面白いもので、この辺が庚申塔の魅力に取り付かれる人々の気持ちがわかるものです。そして庚申塔像容の奥深さをつくづくと実感する次第です。
ぜひ、以下をコピーしていただきまして、そんな面白さに関心を持ってくださる方が増えまことを!!

http://sekibutsu.digiweb.jp/2013%94N%82%CC%8C%8E%95%CA%90%CE%95%A7%8F%84%82%E8%8BL/2013-03/2013-03.html
または、
http://sekibutsu.digiweb.jp/sekibutsumeguri%20.html

併せて、二基の碑文石調査を掲載してあります。
次回からは、いよいよ春本番の四月です。野外の石仏巡りがいっそう楽しくなりますが、当分は鹿沼市の碑文調査になりそうです。

 

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