石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2011年2月26日、宇都宮市の石仏巡り西部地区続編

2011年02月27日 | Weblog

 前回は、石仏巡りに出かけながらも少しばかりサボってしまいましたので、今回は本気モードでの石仏巡りとして前回の続き、古賀志町から入りました。そして、朝からの快晴に気を良くして、ついついいつもの時間通りに家を出たために、八時前には既に石仏の前に立っているという有様で、自分でも可笑しくなってしまいました。そんな私の気持ちを察してか、今回は石仏の方から私の前に現れてくれるような始末で、色々な場所で沢山の碑塔と出会うことになりました。おかげで、お昼時間も忘れる有様で石仏調査に没頭し、午後1時になってようやくお腹が空いたことに気づいた次第です。
 最初に掲載した画像は、新里町の山王地区にある薬師堂風景です。もちろん、私にとっては興味ある碑塔があり興味津々と調査しましたが、その他にも境内には沢山の江戸中期紀年銘を持つ灯篭は、ついつい疲れてきたのでパスしてしまいました。本当は、調査しなければならないのを重々認識していながらです。それでも、この薬師堂には鰐口が珍しくあったので濡縁に登って見たら天明三年銘の物でした。佐野市の高橋氏も、まさかここまでは調査に来ていないだろうと思い、メモをとったが肝心な天命鋳物かは記してありませんでした。それでも念のため、高橋氏には後で連絡を入れておくことにしましょう。それにしても、踏み台が泣ければ到底精査は出来ない代物だけに、こうした金工品を中心に調査している高橋氏には尊敬するのみです。何しろ、写真さえろくに撮影出来ないのだから。
さて、

 この画像の狛犬、共に阿形の方だけを掲載しましたが、良いでしょう。暫くぶりに、宇都宮の狛犬で満足できる狛犬に出会えました。左側の方は、完全に爬虫類姿ですし右側は、その入れ歯を入れているような口に大満足です。紀年銘が欲しくて探しましたが、共に石文は全く分からない。もちろん、江戸時代に間違いなかろうと思っているが。狛犬調査隊長の山口さん、好い加減に平野部の狛犬調査を中断し、また仕事はそれ相応にして山地の方へ入って下さい。そうしないと、山口さんが訪ねる頃にはどこかへ逃げ出してしまうかも知れませんよ。何しろ、それらの狛犬は半分以上役目を終えて地上に降ろされているものばかりですから。

いや~あ、それにしても今回は中身の濃い碑塔に沢山出会えました。それらの整理と清書だけで今週平日の夜はたっぷりと浸れそうです。次回もまた、この地区周辺からの石仏巡りとなりそうです。今度は、どんな石造物と出会えるかと、今から楽しみです。
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2011年2月19日、宇都宮市の石仏巡り西部地区編

2011年02月20日 | Weblog

 朝からの快晴に恵まれ、ルンルン気分で今日は宇都宮市西部地区の古賀志山の麓を中心とした石仏巡りに出かけました。と言いつつも、その半分以上は15年も前に調査済みの場所ですから、新しく調査出来たのは10余基という有様です。それでも、前回までとは違って目の前に山が聳えている景色の中での石仏巡りに楽しくないはずはなく、調査の手を休めてはハングライダーが大空に舞う姿をのんびり眺めて暫くぶりに自分らしい一日を送れました。やはり、山裾の石仏巡りは楽しいです。というわけで、昔に家内と一緒に登った古賀志山中腹にある大日様を思い出し、そこもついでに登って再訪してきました。
 さて、今回掲載の画像は1996年に調査した十九夜塔に刻まれた血盆経銘文のあるものです。紀年銘は天保十二年辛丑八月十九日とあり、銘文は「十九夜供養」とある右側に「血池滅罪女人成佛」とあります。その他、三坪の十四人の女性達によって建立されたことも記されています。それにしても今日は遊びすぎ。自宅から車ですぐの場所と言うこともあり、そしてそのほとんどは調査済みということもあって、存在を確認しただけ再記録を取らなかったり、太陽の光線が良くなったからと、午前中に撮影しなかった他の地区の石仏のところへ戻ったりと、少しも腰を落ち着けての調査になりませんでした。
 次回からは、今回のようないい加減な態度でなく、いつもの本気ムードで調査しようと、帰宅してからの今回の調査碑塔数の少なさに反省です。と言いつつ、次回も同じ地区周辺に入りますので、どうなるやらです。
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2011年2月13日、宇都宮市の石仏巡り

2011年02月14日 | Weblog

 今月の連休2日間は、雪が降るという最悪の天候でした。それでも私的には、二日間に渡り集中して栃木県南部地区の近世宝篋印塔を纏める作業に没頭でき、まあ充実できた二日間でした。
そして最後の休みとなった昨日も、石仏巡りに出かけるつもりはなかったのですが、朝からの暖かさに重い腰がうずいてしまい、結局いつもよりは二時間ばかり遅くなったが、10時過ぎから出かけました。当然、その行き先は前回に残してしまった宇都宮市平出町地区です。まずは、前回に写真が取れなかった碑塔を撮影することにして、それが終わってから残ってしまった地区の探索。あちこちと走り回ったが、結局は過去に調査した碑塔を加えても合計で20基で午後3時半には終了しました。それでも、個人での造塔となる自宅敷地等にある家畜塔などは幾つか見ても調査しなかったものもありますが、まあ今回のこの地区の調査としては十分とし、雷電神社の広い駐車場でのんびりコーヒーを飲んでから帰宅しました。
 ここへ掲載した画像は、宇都宮では珍しい八臂の弁財天像容塔ですが、紀年銘が明治45年と若いのが少し物足りなく思ったが、まあ珍しいこともあって掲載しました。
 次回から、この地を離れてどこへ行こうかと早速思案中です。自転車で市街地に入るにはまだ寒いので、もう少し郊外の石仏巡りにしようとは思っているのですが…。
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2011年2月05日、宇都宮市の石仏巡り

2011年02月06日 | Weblog

ポカポカ陽気の中を、相変わらず宇都宮市内の石仏巡りです。コートを脱ぎ、身軽なセーターだけで一日を過ごすことが出来ました。あの、数日前まで、毎夜寝る前に水道の元栓までも締めなければ翌朝に顔も洗えなかったのは、何だったのだろうと苦笑しています。
 さて、今回も予想していたとはいえ家畜塔が中心の石仏調査となりましたが、それでも今回は一日で4基もの近世宝篋印塔と向かい合うことになり、それだけでも結構な時間を消費してしまいましたが、そもそもの今回の目的がこの宝篋印陀羅尼経からの偈文を求めてのものだけに、嬉しい悲鳴をあげることになりました。これで、現時点での宇都宮市では30基を越えることになりました。目標は、足利市を抜いての50基だから何とか半分は消化したことになります。
 そんな今回の宝篋印塔の中に、ここへ掲載した写真のような栃木県での掘り出し物を見つけました。それは、基壇に三猿姿が刻まれていたことです。何しろ、この手の庚申信仰に元ずく宝篋印塔は、ようやく二基目という希少価値だけに、まずは焦らずに塔を覆っていた枝の剪定から始まり、絡み付いている蔦類を取り除いてから写真を撮りました。ただ、余りにも磨耗と剥離が進んでいて、肝心の軸部にある銘文は全く読めませんでした。それでも、目に入る墓地があると億劫をいとわずに見て歩いている成果だと思い、それが今回のような嬉しい思いが出来るのだろう。それにしても今回は、碑塔調査数が少なかったです。特に午前中は、たっぷりと3時間以上をもうろついたのに、探し出せたのは15基ばかりと実り少なく少なからず焦りました。それでも午後の部は、過去に調査済みの場所があったので一気に数を増やして本日の石仏巡りを終了する時には42基を数えることが出来ました。
 さて、次回も今回の場所を引き続いて巡ります。予定では今回で終わらせるつもりだったのだが、幾つかの場所が未調査地区として残ってしまいました。また、午後の逆光で何としても写真が移らないものがあったので、それも再訪問しようと考えています。
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