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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

12月29日は栃木県田沼町の石仏巡り

2006年12月29日 | Weblog
12月29日の石仏巡り記
今年最後の最後の石仏巡りは、佐野市在住の高橋氏と一緒に栃木県田沼町(今は佐野市に合併)へ暫くぶりに行きました。その目的は、数庚塔調査です。まず最初に、田沼町本町の愛宕山山頂にある庚申塔群です。相変わらず、厳しい石段登りに息を弾ませ、これまでに確認できずにいた数庚塔探索。あちこちに無造作に散らばっている庚申塔を手分けし、まずは簡単に4基を確認。この時点で、私はこの場所の今日の成果は満足となったが、高橋氏は満足しないようであちこちの石を掘り起こしては探している。本来なら、私が率先して探すのが本筋!。全くもって、高橋氏の熱心な行為には感謝あるのみ。その甲斐があって、今日はこの愛宕山庚申塔群で都合13基もの数庚塔を確認することが出来た。本当に、高橋氏に感謝あるのみである。ついでに、そこにある青面金剛像の邪鬼が仰向けになっている姿を今回も撮影する。これは明日にでもHPの方でご紹介しましょう。
 さて、意気揚々と、次は田沼町戸奈良地区にある籠山庚申山へ向かう。ここにも沢山の庚申塔があるのだが、この季節以外には熊さんが出てくる場所なので滅多には登れない。今日は、その山頂にある線刻青面金剛像の拓本取りと、前回に来たときに見つけられないでいた「万庚申塔」の探索にある。籠山山頂に至る道沿いにある庚申塔を眺めながら歩くも、万庚申塔は見つからず。取りあえずは、山頂の線刻青面金剛像を手拓する。私がその手拓している間に、高橋氏は山中に散らばっている庚申塔をひっくり返しては、どこかにあるはずの数庚塔を探している。その姿は、春から秋まで出没する熊さんに取って代わった姿で、軍手をした熊さん宜しく、大きな石をひっくり返してもそこに熊さんにとっては美味しい蟻も蛾もいないのに、一生懸命である。そしてついに、高橋氏のそんな努力が実って「万庚申塔」とある数庚塔を探し出してくれる。その後は、二人揃って石をひっくり返しながらの数庚塔探索となり、ここでも都合4基の数庚塔を確認できた。麓へ降りたときには既に12時を過ぎているが、その籠山登り口の民家の所で、思わぬ発見をする。それは、一石百庚申文字塔である。その場所は、これまでに何度も通っていたのに全く気づかなかった。残念なのは、下部半分以上が欠けていることだが、表面に「百庚申」とあり、三面に「庚申」の文字が沢山刻まれている。残欠ながら、今日の「万庚申塔」にも勝る発見である。高橋氏と一緒に巡る石仏調査は、いつも何かしらの大きな発見があるが、この今年最後の最後の石仏巡りで、大きな収穫を又しても得たことになる。
 次は、本来なら閑馬の千庚申山へ登って、その山頂の庚申塔の拓本を取る予定だったが、何しろ今日は今年最大の寒波が来襲中で、ビュンビュンと北風が吹いているので、その千庚申山へ登っても拓本は取れないだろうからと、断念。
 その断念の理由の一つには、高橋氏と同じく佐野市在住の正田氏から、高橋氏が田沼町寺沢地区に私のまだ見ぬ数庚塔があるとご教示戴いていたので、そちらを先に見たい気持ちがあったからである。何しろ千庚申山へはいつでも来られるのだから…。
 高橋氏の先導で現地へ着いてみてば、その場所も過去に何度か通っている場所だったが、所在地が山の中の崖地下ということで、私には見つからなかった物。ここでも、正田氏に感謝、感謝である。天明六年銘の「百庚申供養」塔に始まり、同地には3基もの数庚塔があったからである。特に、天明年間の数庚塔は、これまでその所在が判らなかった物だけに、嬉しさは言葉にならないほどである。
 気が付けば、どこか風のないところで昼食にしようという話しを忘れてしまっていて、調査が終えたのは午後1時半を過ぎていた。その、風の来ない場所など今日はどこにもなく、それどころか雪さえ吹きかけてくる有様に、「よりもよってこの年末のそれも最も寒い時に石仏巡りとは」と、二人であきれ返る。それでもどこかで空腹を満たさなければと言うことで、根本山公園へ向かう。そして石段の窪んだ所を見つけ、そこで遅い昼食とする。雑談を交わしながらの昼食を終えてみれば、既に時刻は午後2時を過ぎていた。高橋氏曰く。「次はどこへ行く」。この寒風吹きすさぶ中、高橋氏はまだまだやる気十分。それに引き替え、私は今日の石仏巡り成果はもう、大々満足!。風さえ吹いていなければ、まだまだ数庚塔探索を継続したい気持ちはあるが、今日の所はここまでとして、ここで終了とする。
 本当に今年一年も、高橋氏には大変お世話になってしまった。厚く御礼と感謝の言葉を繰り返しながら、また来年も飽きずにおつき合いの程を願って別れる。
そんなわけで、今年最後の石仏巡りは大成果の内に終了しました。皆様、どうぞ良いお年をお迎え下さい。
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12月23日・栃木県小山市の石仏巡り記

2006年12月24日 | Weblog
12月23日土曜日、相変わらず小山市へ出かけました。現地8時15分に黒本地区から開始。特に、薬師堂にある意味不明な梵字庚申塔にまたしても挑戦するが、浅学の身をさらけ出して判らぬものはいくら眺めても判るはずもない。拓本を取るには温度が低すぎる上に日影となっているが、時間をかけて物にする。そうそう、ついでに星宮神社へ立ち寄って、暫くぶりに虚空蔵様の石仏に接したが、以前とは場所が違っているように感じたが、それはただ単に私の記憶違いか、それともボケが来たか!。その後は、大本地区と小薬地区を出たり入ったりしての石仏探し。それでも午前中に44基の石造物を調査することが出来た。今回はその中に宝篋印陀羅尼経塔が1基加わっているのだから、いつにないハイペースである。
お昼は、12時前に大本地区の篠塚稲荷神社で取りながらのんびりする。ここで、一人で午後の部の作戦会議。その結果、午後から少し離れた上初田地区へ入る。この地区で、今日は余り良い庚申塔に出会っていなかったウップンを晴らすような庚申塔に出会う。特に東公民館前と愛宕神社での庚申塔は素晴らしい。中判カメラを今日初めて取り出し、時間をかけて撮影する。この時点で、今年最高の調査数となる62基を記録したことになる。間もなく3時。気分を良くしてそろそろ帰路につくべく走っていると、薬師堂が目に入る。早速寄り道。と、そこには見目麗しい如意輪観音様が浮き彫りされた「十六夜念仏塔」がある。久々に、撮影し甲斐のある如意輪様として、ここでも中判カメラを取り出して撮影に集中する。そんな私の姿を、お墓参りに来た方があきれ顔で見ている。結局、この薬師堂で新たに4基を加え、今年最高の一日での石造物調査数が66基となった。今年最後の石仏巡りとなるであろう、その最後になって今年最高の石仏を調査できたことに嬉しさ満面と言ったところである。もっとも、昨夜はその調査書の清書書きに追われてしまったが…。

そして今日、24日。午後に山の落ち葉集めを終えて帰宅し、メールを確認してみると佐野市の高橋氏より又しても新たな碑塔所在地のご教示連絡が入っている。嬉しくなって電話し、話しが弾んで、来る29日に今年最後の最後の石仏巡りを一緒にする事とする。集合場所は、田沼町本町の愛宕山神社登り口に9時30分とする。目的は、あくまでも忘年会!?。という以上に、戸奈良地区の庚申塔拓本と庚申山山頂の庚申塔拓本取りにある。また、愛宕山頂上にある数庚塔の再調査を兼ねている。いずれにせよ、高橋氏と会うのは暫くぶり。お互いの今年一年の成果を話し合いながら、新しい年へのユメを話し合う事になるだろう。
※佐野市在住の山口様、もし29日が暇でしたら同時刻にいらっしゃいませんか。滅多に出会うことのないチャンスが巡ってきましたので、良い機会かと思っています。無理をしないで下さい。また、風邪を引いていましたらうつさぬようご自愛下さい。

さて、23日の石仏巡り記掲載は、早くて26日以降になります。明日月曜日は、仕事で那須烏山方面へ朝から出かけてしまいますので、今夜は趣味の時間としてパソコンに触らないからです。
今年もいよいよ、大詰めです。今年最後の「石仏月報」、印刷が終わりましたので近日中に発送です。今月号は、別冊として「小山市の江戸前項まで庚申塔」調査報告書があります。こちらは、どうしても欲しい方にはその方に依りまして頒布致しますのでメールでご連絡下さい。石仏月報の方は無理です。相変わらず少部数発行のため、今月号もほとんどの方にはお届けできませんこと、お詫びかたがた一年の感謝を申し上げます。(年末挨拶は、まだ29日が残っていましたので、少し早すぎました)……(^0^);
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12月16日の栃木県小山市石仏巡り

2006年12月16日 | Weblog
今日、12月16日も栃木県小山市の石仏巡りに出かけました。今日の朝は暖かかったのでいつもより30分早く家を出ました。今月の小山市の石仏巡りで出会ったこれぞと言う碑塔類を、中判カメラで撮影する目的があったからです。また、同時に調査した碑塔類で再確認が必要なものも訪ねました。
それにしても、今日は忙しい碑塔巡りとなってしまいました。今日こそはと、昼食を持参したにも関わらず調査に夢中となって、食べられたのは午後1時と言う有様で、空腹を覚えてやっと空き地で取りました。
そんなこんなで、今日でもって小山市の江戸前期までの庚申塔は再確認を含めて全て調査が終わりました。ただ、まだ未確認の紀年銘などの怪しい庚申塔を幾つか残していますが、それらは誰も調査しないでしょうから機会を見てのんびり調査するつもりです。
そして今日は、珍しいことに調査した碑塔は57其にのぼりましたが、宝篋印塔には1其も出会いませんでした。尤も、今日はそのような場所を避けたからかも知れませんが…。今日の最後は小山市内の興法寺さんでしたが、調査途中で午後3時半となってしまったので次回へ繰り越しです。
次回の石仏巡りは、小山を離れて少しのんびりした石仏巡り地を選ぼうと思っています。暫くぶりに、田沼町から足利市方面へでも、と考えていますが当日になると私のことだから判りませんが…。
今回の石仏巡り、HPへの掲載は明日以降になります。何しろ、小山市の江戸前期迄の庚申塔が全て出揃ったのですから、明日の日曜日はそれらを整理したり写真を眺めて独り悦に入ろうと思っています。
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12月10日は小山市の石仏巡り

2006年12月11日 | Weblog
 12月9日の宇都宮は、一日中氷雨の降る寒い一日だった。その氷雨、いったいどこまで北上したら雪になるのだろうと馬鹿な考えで、旧今市市と宇都宮の北部境目当たりかと気になって仕方がない。車は、今月1日に冬用タイヤに履き替えてあるので、そんな今年初めての雪道ドライブを経験したくなった、そんな寒い一日だった。

 さて昨日12月10日の石仏巡りは、先週に引き続いて栃木県小山市へ行きました。やはりその目的は、網戸地区の曹洞宗長慶寺さんにある寛文九年銘庚申塔(ちなみに小山市での庚申塔初発)の精査です。過去に訪ね、一応は調べていたのですが、銘文の一部に読めないところがありそのままにしていたからです。今回は、そんな訳で面倒がらずに時間をかけ拓本を取って確認しました。今日の大きな目的はこれで済んだので、あとの残りは気ままに周辺の石仏巡りを行いました。
 今回の石仏巡りでも、四基の宝篋印塔に出会いましたが精査したのは二基のみで、あとの二基の内一基は写真のみ。残る一基は、個人墓地内ということもあり、写真さえ撮らずに持ち越しとなりました。このような石仏巡りをするから、少しも先へ進まないのだと思いながらも、まあ、残しておけばいつか再訪する楽しみがあるものだと負け惜しみです。 それと、間中地区の観音堂を石仏最後として最後に訪れました。過日、佐野在住の高橋氏よりこの墓地内に一石各二体三面に六地蔵像容があると教えられたので行きました。それほど広くない墓地ながら、見つけるまでにウロウロしてしまい、ここでも苦笑。それでも、その碑面には「惣筆子中」の文字を見つけてニンマリです。同観音堂には、側面に建立の謂われが記された庚申塔があったのですが、午後も三時近くと言うことと、疲れが見えてきて拓本を取ることをサボりました。帰宅してから、嗚呼やはりその石文が必要だったと後悔しました。
 今回も前回同様に途中で食料調達を忘れ、昼食時間に大慌て。しかし、無いものはどうあがいても仕方がないと諦めて石仏調査を続行。それでも、途中でコンビニが見つかり遅い時間ながらお腹を満たすことが出来ました。そんな訳で、今回も再調査を含めてとはいえ、総数45基の碑塔類を見ることが出来ました。

 前日、青梅市の石川博司氏より「栃木秋まつりを歩く」が送られてくる。そしてその中の手紙に、栃木市大町の川上稲荷神社境内に「千庚申塔」があることを教わる。一瞬、グクッ!。我が家から三十分もあれば着いてしまう栃木市の町中に「数庚塔」があったのを今まで気づかずにいたのである。それを、東京のはずれの青梅市から情報を頂くとはなんたる怠慢。と言いながら、今回も小山市からの帰路にその直ぐそばを通りながらも通過。その数庚塔は、年内にゆっくり訪問しようと考えているからである。
 いずれにせよ、残り少なくなった年内は小山市と栃木市の主に庚申塔等、再調査の必要な碑塔を中心に見て歩こうと考えている。
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12月2日の石仏巡り

2006年12月03日 | Weblog
昨日12月2日は、高橋久敬氏に過日ご教示頂いた栃木市の庚申塔を実見するために出かける。まず初めに、樋ノ口町の地蔵堂を訪れて調査し、ついでに共同墓地にある庚申塔も調査。その後で、宮田町の星宮神社へ行く。ここには庚申塔を含めて沢山の碑塔が並んでいる。まず、少し離れた畑にある青面金剛塔から始めて、風もなく穏やかに日和の中でのんびり調査。境内にも軍馬碑があるので、ついでにそちらも調査。その中の1基、日支事変の徴発軍馬碑とあるものは、裏面に沢山の馬名と馬主の名前やどこの部隊に徴発されたかも記してあるので、これは面白いと拓本を取る。その手拓した用紙を、剥がす段になって注意散漫で破いてしまう。その破れた破片を眺めながら、何とも私らしい作業だと一人苦笑い。まあ、良いか。帰宅してから修復しよう。
その後は、宮田町のもう一個所を訪ねてから、道なりに下がって高谷町の碑塔を調査して小山市へ入る。小山市小薬地区の碑塔を少し調べてから、今日のもう一つの目的地であった大本地区へ入る。
ここで、昼食タイムとしては少し遅い1時頃に篠塚稲荷神社へ!。しかし、車の後座席から昼食とすべき食料を取り出そうとして、我ながら呆れる。そう、うっかりして途中のコンビニで調達する筈だった「メシ」がないことに、この時点で気が付いた。何のことはない。石仏調査にばかり夢中になって、弁当を「買い忘れていた」ことを「忘れた!」のである。この周辺にコンビニはなく、そうかと言ってこの地を離れるのは嫌なので、今日は持参した水をがぶ飲みし、昼食抜きで石仏調査を続行することにする。
早速、適当に内の小道を含めてウロウロすると、道路から離れた少し高台に碑塔が並んでいる。車を止めて行ってみると、そこには半鐘までぶら下がっている。「ヘエ~、こんな所に半鐘があるなんて、珍しい!」と呟きながら見てみると佐野天明鋳物製である。あの、高橋氏のことだから、当然知っているのだろうな。と思いつつも、万が一にも「知らなかった」と言われたのでは申し訳ないと写真を撮る。帰宅したら、メールで知らせよう。また同地で、「十九夜」塔に始めてお目にかかる「鴻賓月」という文字を見る。その意味するところ、帰宅したが判らなかった。
この時点で、時計は早2時半。今日の石仏調査も最終段階を迎えたので、せっかく近くに来ているのだからと、最後の仕上げとして寛文十年銘の庚申塔を訪ねに行く。それは、実に14~5年ぶりのことだが、石文が全て読み切れていなかった庚申塔。精読を試みたが、やはり1文字が不読となってしまった。同地にある2基の「道祖神」文字塔を改めて記録し、本日の調査碑塔は合計で53基となった。これは実に久しぶりのこと。年に1~2度しか経験できない調査数で、それもこれも、昼食を食べ損なった成果に違いないと苦笑する。
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