今回は、栃木県佐野市高橋町の雀神社へ私にしては珍しく、早朝に着きました。目的は、ここにある渡良瀬川氾濫の災害碑を手拓するためです。しかし、その記念碑は余りに汚れと文字を覆い隠す苔が酷く、先ずは水洗いしましたが大きいゆえに予備に持参した水まで使い切る有様でした。それから、文字を覆い隠しているいやらしい苔を金属ブラシで磨いて取り除き、何とか手拓できる状態にするまでに一時間以上も費やしてしまいました。実は、この地方は風が強く吹く土地柄なので、その風の吹かない早朝に画仙紙を水張りしようと早朝にやってきたのだが、その目的は完全にはずれ、早くもこの段階で南風が吹き出しました。それでも仕方なく水張りし、急いで墨入れを開始したが所詮は大きな碑、もう少しで終わる頃に風に煽られてしまいました。仕方なく、その後は文字に墨の乗らない箇所や読みにくい文字を部分的に手拓し、裏面の交名を含めて全てが終わるまでに2時間半ばかりが掛かりました。これで、2003年に初めて確認しながら今日まで精査を怠っていた碑の調査が完了しました。
何はともあれ、これで一安堵といったところです。ところでこの高橋町と言えば、いつもお世話になってばかりいる高橋氏と山口氏のお膝元。突然に思いつきでやってきたとはいえ、連絡もしなかったことに「水臭いヤツ」と叱られそうである。ご両人、ご容赦あれ!
さて、永年の目的が果せたあとはどこへ行こうかと悩む。車に乗り込んで地図帳を広げると、丁度その地図帳は足利市の福厳寺さんの載っているページ。バックの中を覗くと、いつか機会があったら届けようと思っていた庚申塔調査記録冊子が入っている。そこで、次の目的地を福厳寺さんと定めて車を発信する。着けば、丁度住職さんがいたので資料を渡しつつ、雑談をしていて思い出したのは、以前に高橋氏からご教示を受けていた「墓地内に私の知らない庚申塔が1基あるよ」という話。そこで早速、広い墓地内を探すが見つからず、墓地管理をしてる方にも尋ねたがやはり分からないという。そこでずうずうしくも、携帯電話を取り出して高橋氏に連絡を入れたが、少しもその庚申塔所在地が私には分からない。他の人に代わってもらったが、やはり分からない。しつっこく、又も聞きなおしてようやくその場所が分かり、墓地管理者の方と一緒に見に行けば、それは簡単に見つけ出すことが出来た。高橋氏に感謝!感謝!である。そして今更ながらに、高橋氏の調査能力の高さに恐れ入る。
さて、時間はまだまだ沢山ある。今度はどこへ行こうかと思案する。「そうだ、そこもかつて高橋氏と一緒に行った、鑁阿寺にある廣群鶴刻字「神徳之碑」の銘文筆記とする。これも、その折に確認しただけで調査は諦めたものなので、今回のような時間つぶし相手にはもってこいの碑である。そしてその前に佇むこと1時間以上で、何とか物にすることが出来た。本心は、手拓をしたいのだが、それには承諾を得たりと面倒なので、筆記に切り替えた次第だけに、二度とこの碑の前に立つことのないよう、一字一句を舐めるようにして列の文字数も数えながら写したのは言うまでもない。それでも帰宅するには少し時間が余っているので、その後は帰り道すがらに調査が途中までだった箇所を数箇所訪れてから、今日ばかりは大物を2基も片付けられたと、鼻歌交じりで帰路に着く。次回もこの調子で、思いつくままの石仏巡りとなるだろう。