先週に調査してきた石碑の銘文清書が終了しましたので、今回はそれをご紹介いたします。読むには出だしから少なからず悩みますが、何しろ短文なのでじっくり全文を眺めれば何となく意味が分かるでしょう。読むには「在」と「有」の違いと「上地」の意味。そして「闕」の異体字や「後業」の意味が分かれば多分大丈夫でしょう。なお「住侶」は「住職」のことです。また、「尊天」は毘沙門天のことを指していると理解してみました。明治4年から社寺所有の山林は、みな政府に取り上げられてしまい、それを戻すには金を払えというわけですから、いかに当時の政府は金儲けに長けていたかがわかるでしょう。他人の土地を権力で没収し、今度はそれを金に換えて戻したのですから。と、笑いながら楽しく読んでみました。
昨日5月20日は、前から訪ねたいと思っていた足利市の最勝寺さんへ行きました。目的は、境内にある戦争戦死者の銘文付き墓碑調査です。朝早く行ったので、住職さんに会うことが出来て調査のお願いを快諾していただき、早速に拓本採り。今日は、気候が最高の条件で寒くも暑くもなく、加えて風もない。墓碑両面を気分良く手拓出来ました。そしてその後は、住職様に山の上にある毘沙門天仁王門の前に立つ、もう一つの石碑調査も拓本採りをも含めて快諾を頂いたので、早速向かう。今日は日曜日だが、運よく石段前の狭い駐車場には一台の車も止まっていない。少し早いが、調査作業等に入る前にここで昼食とする。そして森林の中でのんびりと昼休みをしてから、作業道具一式を持って石段を登る。目的の石面は、ものすごいノロで汚れている。尤も、最初から予想済でバケツたっぷりの水を用意してきたので、まずは碑面掃除。その掃除が終えてから、写真に撮ったのが掲載したものです。ただ、私の重たいカメラ三脚を持ってこなかったので、少しピンボケになってしまったが、まあこれは仕方がないだろう。その後は、ここでもルンルン気分で手拓作業をすることが出来た。ただし、最後の一行の中の文字サイズは一字が1.5㎝で彫りも浅い難敵が待っていた。根気よく、丁寧に採択して、何とか拓本として仕上げることが出来た。そうして時間を見ると、まだ午後の2時半。このまま帰宅するには早すぎるので、境内を散策することにしてあっちへフラフラ、こっちをのぞき見と時間つぶしをする。その中に、地面に置いてある大きな梵鐘に、気の遠くなるような文字数で仏典に出てくる仏様の名前が刻まれているのを見て、金文には手を出さない私だが、自分の勉強のためにその全文を知りたくなる。勿論、拓本を採らなくてはならないので今回は断念したが、「そうそう、佐野市の高橋氏ならその全文を調査済だろう」と、その資料を無心したくなる。その後で山を下りたが、帰宅するにはまだ時間が余っているので、今度は市街の福厳寺さんへ立ち寄って雑談をしてから、日曜日で行楽に最高の日だというのにガラガラに空いている国道293号線をのんびり走って宇都宮へと帰路につく。
私的には、富士講よりもその銘文中に日光男体山信仰についても記されているので、栃木県の男体山信仰に関する石碑を求めている私としては、是非にこれは拓本を採りたかったもの。しかもそれが、これでもって男体山碑に関する調査のけじめとなる石碑なのでなおさらである。しかしなが、昨年から手拓に同地へ行くこと、今回で三度目。過去二回は、いずれも強風のために追い返されていたが、今回は少し風はあるものの何とか手拓出来る日和である(写真全景は、今年3月30日の当ブログに掲載済です)。ただ、石碑本体の高さが254㎝もあり、加えて大きな自然石台座の上に乗っているので、特に篆額部分にはその自然石の上に登ってやっと手が届く状態。手拓部分のの篆額から銘文最下部までは180㎝なので平地に立っているなら問題ないのだが、画仙紙の水張だけでも少なからず苦労した。だが、今までの小さな文字の墓碑に比べれば文字は大きくしかもしっかりとした楷書体なので、墨入れは実に楽しい時間であった。尤も、篆額上部から水張した画仙紙では長さが足りないので、継ぎ足しとなり余計な手間暇がかかってしまったが。そうして採ったのが上記の拓本画像である。きょうから、この石碑の銘文清書作業に入るが、まあ難しい異体字も熟語も使われていないのでこれも楽しく作業ができるだろう。
さて、銘文を読んでいて気になるのは、11行目に「凡登拝富嶽七十五回、又嘗開富士中道捷路(近道)、翁所謂中道捷路開山祖也」という箇所である。中道=御中道とするなら、既にあった御中道とは別にその近道を開いたということなのだろうか?。と、思う。富士山には厳冬期を含めて二十歳代に3度しか登っていないし、もちろん今のように登る山としての富士山として以外は興味を持たなかったので何も判らない始末だが、当時の扶桑教大教正である高崎市蔵が撰文しているので、あながち誇張しての文章ではないだろうと思う次第である。
※後日談として、先週5月5日の石碑調査の朝になって、亀の子束子等の掃除道具と霧吹きを同地に置き忘れたことに気づく。前日に気づけば新しいのを用意できたのだが、当日の早朝ではそれも出来ない。これから今日は拓本を採りに行くというのに、特に霧吹きが無くては話にならない。そこで、同行者の高橋氏と落ち合うまでに現地へ行って探してくることにして、落ち合う時間よりも一時間早く家を出て現地へ行けば、案の定だれもこんな石碑の所へ来る人もいなかったとみえ、石碑の脇に私を待っていたかのようにそれらがチョコンと並んでいる。それを急いで回収して、何とか待ち合わせ場所へ遅れることなく着いたので一安心しつつ、大笑いする。気分は、何となく一仕事を終えた気分だったが。(笑)