今日こそ、石仏巡りの途中で熱中症となって倒れているのでは、と家内に飽きられながら出かけた石仏巡り。確かに朝から酷い暑さである。石仏の前に立っているだけで、たっぷりと水を含んだ苔のように汗がドクドクと腕から顔から身体中から吹き出てくる。そこで今回は、石仏巡りの内容を変更し、出来るだけ涼しい場所にある石仏を巡ることにした。当然ながらそうなると、過去に調査したお寺さんや神社が中心となる。そんな訳で、最初に訪れたのは季節の良い時なら自宅から遠出の散歩コースともなりえるような、深津地区の延命寺さん。歴代住職さん墓地の裏にたくさんの石仏が並んでいるが、何度も立ち寄っては眺めてばかりいて調査はいつでも出来るとサボっていた。そこで今回こそは真面目に?調査することにした。庫裏に立ち寄り、奥様と冗談を交えながら挨拶の会話が進んで、石仏まで辿り着くのに時間がかかってしまったが、それでも今回こそ全てを調査用紙に書き込むぞと意気込んだが、実際には相変わらず存在を目立たせているものだけを調査して、二列目にある面白そうな像容塔などは次回へ持ち越してしまった。その後もあっちこっちへフラフラと出向いては、田の草取りをしている農家の人を見つけるや、冷たい飲み物を飲みながら立ち話に花が咲くばかりである。そんな調子だったので、今回の調査数はたったの18基のみ。
そのうちに昼近くとなり、昼食をまたしても涼しい木陰で取ろうと向かった池ノ森地区の日吉神社入り口で、そういえば隣にある竜元寺跡の石仏も10年くらい訪れていないと思い出し、昼食前の一仕事として立ち寄る。上記写真はその中の一基で、主銘文が「奉唱 十九夜和讃念佛供養」とある宝暦十三年銘のものである。この、「十九夜和讃念佛」とある栃木県の碑塔をいつか纏めたいと思ってはいるのだが、栃木県東部地区が調査しきれていないので実現するのは難しい状態である。それでもそれを調査しなければ、十九夜信仰の本質が「月待」よりも「念仏」であると迫るには資料不足となるのは目に見えている。嗚呼、本当に石仏調査はその基礎資料となる実査だけでもその困難さを思い知る。
そんな中での今日の最大の成果は、浄土真宗で唱えられる「正信念佛偈」に出会ったこと。栃木県内でも、この偈文に出会うことはそう滅多にないことだけに「いや~あ、嬉しかった」です。もちろん、その周辺には浄土真宗のお寺など全くないので、既に絶え果てその跡さえ地元の人でも知りませんが、それが共同墓地にあったので多分そこがその寺跡だろうと想像しました。
そうそう、竜元寺跡の再訪を終えるや急いで隣の日吉神社へ逃げ込み、木陰で昼食を取りながらいつもより長めに昼休みを取りました。もちろん、今回はここの境内にある寛文銘の地蔵庚申塔さえ覗き見ることもしませんでした。そして午後も、あちこちと熱中症になったオジサンよろしくフラフラとうろつき、午後4時少し過ぎには帰宅してシャワーを浴びていました。そんな訳で、今回は別ホームページの方の石仏巡り報告記へ掲載はいたしません。
それと次回、9月最初の週末の石仏巡りはお休みです。毎年のことながら、秋野菜等の畑仕事が待っているので、白菜の移植やら大根の種まきにエシャレットの植え付けに加えイチゴの苗の準備等など仕事が多すぎてさすがに石仏めぐりとはなりません。それだけに今から今度の週末は、涼しくなることを心から願っているところです。
この頭のない地蔵像は、鹿沼市油田町の真言宗勝願寺さんにあるものですが、所在場所は住職さんに聞かなければわからないような、何気ない場所に置いてあります。ちなみに私も、住職さんに教えていただいて初めて知った次第です。
上記画像でも判るように、向かって右側に「元亀元庚〔不読〕」とあり、左側には「□月廾(?)七日」と見えます。それにしても元亀元年といえば西暦で1570年。そんなにも古いお地蔵様が、こんなところに無造作においてあることに驚きました。そして正面にも、なにやら文字らしきものが見えます。私には解読出来ないと、初めから諦めてしまいました。いや~あ、それにしても今日は眼福の至りです。
そして次、これも滅多にお目にかかれない文字に出会いました。それが下記の画像です。
画像は「應隨阿鼻」の箇所を掲載しましたが、上から2字目は誰がどう読んでも「隨」の文字に見えるでしょうが、それが問題なのです。それは意味を考えればわかる事で、ここでは「應墮」の「墮」の文字でなければならないのです。地獄に堕ちる者ではなく、これでは地獄に随う者となってしまいます。この文字は、鹿沼市野沢町の宝持院跡の個人墓地内にある宝篋印陀羅尼経塔の偈文中にあるもので、一瞬わが目を疑いました。やっぱり、とんでもない間違いというのがあるものなのですね。これだから、石造物に見える文字読みが病みつきになってしまうのです。ちなみに、この同じ間違いは現時点では栃木県で二例目です。ぜひ、貴方の街の宝篋印塔を調べてください。思わぬところでこれと同じ間違いに出会うかもしれません。
ところで早いもので、次回で八月の石仏巡りは終わりです。現時点では、相変わらず鹿沼市へ出かけるか、それとも出かけず今夏の石仏巡りを部屋で整理するかで悩んでいるところです。まあ、気分次第でしょう。
前々から、いつかは調査しなければならないと考えていた訳ありの宝篋印陀羅尼経塔を、ついに調査してきました。それと言うのも、この宝篋印塔のある場所は、かつての霊雲寺の末寺(鹿沼市内に二ヶ寺ある)で、観王山一向寺といいます。紀年銘は寛政十三年(享和元年)ですから、それほど古くはありませんが、その軸部に刻まれている内容が素晴らしい。かつ、大きさは銘文にもあるように丈六という大きさで、その銘文も長文なので、この宝篋印塔は最後の最後に鹿沼市の宝篋印塔を終了する記念として残して置きたかったのですが、気持ちの変化で調査してしまいました。それと言うのも、去る11日に調査した鹿沼市西沢町・正蔵院の宝篋印塔が正徳五年銘であり、この正蔵院もかつての霊雲寺末寺の一だったので、その二つを見比べたかったからです。
そんなこんなで、別HPの方へその2基の銘文をPDF形式で掲載して置きました。霊雲寺さん関係の石造物に興味ある方にとっては必見のものです。
以上、今回はこれで終了です。
旧盆休みは、毎年のことながら雑用に追われてしまうのと、パソコンに電源を入れる気力がなくて、先週2012年8月11日に行った鹿沼市の石仏巡り記が書けないでいます。そこで今回は、多摩石仏の会様よりご恵贈賜りました「野仏」第43集のご紹介です。石仏の会としては、今年で45周年を迎えた老舗の石仏研究会で、特に毎年発行されている機関紙「野仏」は、昔から質の高い内容として知られています。そして何よりも、会員一人一人が熱心に石仏と関わりながら毎年その研究報告を掲載していると言う、まさに石仏の会としては希に見る充実した会です。今回も、縣敏夫氏の「八王子市の名号石仏」に始まり、多田治昭氏の「庚申塔ファイル12 関東地方の更新真言塔」等々、実に内容が充実したものとなっています。私的には、栃木県鹿沼市の雲龍寺さんには寛永元年からの見事な名号塔が沢山あり、いつか暇になったときはそれらを精査し、纏めてみたいものだと眺めていた時だけに啓発されること大なるものがありました。また、多田氏の「関東地方の庚申真言塔」は、多田氏ならではの庚申を関東一円にわたり追いかけているだけのことはあって、すばらしい資料です。庚申塔に見える梵字と漢字真言に興味ある人にとっては見逃せないものでしょう。
そんなこの一年間の会員の活動が一冊の機関紙によって見て取れる、「多摩石仏の会」今年の会報、残部があるかどうかわかりませんが(何しろ全てが会員個人による編集から製本までの製作ですので)、興味のある方はお問い合わせすると良いでしょう。その連絡先は、「オッ、奥付に住所がない! 多分書き忘れたのでしょう」と言うことで、どうしても欲しい人はそれだけの努力をしなさい。されば与えられるだろう(どこかの宗教団体の文言みたい(^o^);。といううことで、今回はここまで。
そうそう、ついでに前回の石仏巡りについて簡単にここで述べてしまうことにする。それは、主たる目的が近世の宝篋印陀羅尼経偈文等がある宝篋印塔調査でした。予定では、一日で5基は調べたいと目論んでいたのですが、途中で碑(いしぶみ)と遭遇してそちらの拓本取りに夢中となって、結局は3基のみとなってしまいました。まあ、同じ文言の宝篋印陀羅尼経の書き写しですから、3基も調べれば私だって飽きてくるのが本心です。そんな馬鹿なことを次回も続けるつもりですが、それにしても拓本をこの季節に取るのは少し酷な話しで、次回は碑文を見ても通り過ぎることにします。
いや~あ、8月4日は暑かった一日でした。それでも頑張って何とか石仏巡りをしましたが、その為に一日にして腕はこげ茶色に変色してしまいました。
今回の最初は、先週に過去に訪れた鹿沼市の石仏写真を見ていて、どう見てもその書体から妙哲行者の名号塔なのだがその署名等を確認するのを忘れていたようだ。そこで「こりゃ~まずい」と言うことで、最初にそれを再確認に行くことにした。そんなことで、今回は少し早く7時半に家を出発。そして向かう途中で思い出したのが、その途中の藤江町で2002年に宝篋印陀羅尼経塔を確認していながら未調査のままだったこと。時間も早いことだしと、寄り道して最初にそれを片付けることにする。以外にもそれは、筆子達による造塔だったことが判り、一人でニンマリ!
今度こそ、目的地である磯町の女体山へ向かおうとしたが、途中で地元農家の青年に出会い、石造物を探している旨を述べて他の所にある場所の所在を請えば、この藤江町にはもう1基の宝篋印陀羅尼経塔があることが判明。その他、諸々の石造物所在地を教えてもらったが、今回はその宝篋印塔調査だけにして早速向かう。それは個人墓地内にあり、造立者は先ほどの宝篋印塔と同じ寺院の名前が記されていた。そんな訳で、朝一番から2基も宝篋印塔を調査できてしまった。まさに早起きならぬ早出は三文の得と言ったところである。
さて問題の名号塔は、この夏場らしくものすごい藪となっていて、どこから山の中へ取り付いてよいやら悩んでしまう。あれこれ悩んだが、結局は繁茂する藪の中を直登するのが一番と、手拓道具を抱えて進入する。そして頂上に着けば、今度はものすごいやぶ蚊の大群が襲来。「もう、勝手に食え!」と言うことで、やぶ蚊のするがままにさせて問題の名号塔の前に立てば、まさしくそれは妙哲行者の名号塔に間違いなかった。問題は署名と花押の存在。丁寧に見ていくと、本当に浅い陰刻で花押と共にあるのを確認して念のためにと手拓する。この山頂には、たくさんの石造物があるが既に調査済みなので、後はやぶ蚊から逃れたい一心で、転がるようにして下山。全身、汗ビッショリ。路肩に腰掛け、国道沿いで車がひっきりなしに行きかうのもお構いなく、ここで大休憩。
さて今度はどこへ行こうかと思案し、次も過去にその存在を確認していながら石仏のみの調査で離れてしまった、塩山町の圓明院跡の共同墓地へ向かうことにする。その場所は、東武日光線沿い東側にあるのだが、暫くぶりの訪問のために道を間違って通り過ぎてしまうミスをしてしまい、つまらぬ時間を浪費する。現地へ着いたところで、時計は12時。何はともあれ、少し暑さで身体が参っているので調査する前にここで昼食とする。と言っても周囲には1本の木陰ひとつない原っぱの大きな共同墓地内。仕方なく、車の中での食事となるが、以外にも全開した窓からは涼しい風が通り抜けて行き、思いのほか涼しい。相変わらず、暑いときだからこそ熱々のラーメンを、と食べて体力が回復!?。問題の宝篋印陀羅尼経塔は、なぜ前回に調査を抜かしたかが、今回改めてその前に立って思い出す。それは、余りにも銘文のある軸部状態が悪く、まともに文字が読めないからだった。仕方がなく、炎天下での手拓となるが、水張りするやすぐに乾いてしまいお手上げ状態。それでも意地で、何とか銘文が読める範囲の手拓をして、車に戻っては銘文解読。その繰り返しを4面ともして、本日3基目の宝篋印塔調査を終える。この段階で、既に午後2時過ぎ。どこかに涼しいところはないだろうかと、次への場所を考えたが思いつかず、どうせ塩山町に来ているなら、そこも過去に調査した山越公民館近くの碑塔群へ行くことにした。そこには、栃木県では珍しい「庚寅供養塔」なる自然石があるのを思い出し、もう一度見たくなったからだ。何しろ未だに、その信仰内容が私には確定するだけの力がないので。そして行ってみれば、そこも炎天下。ここまで来れば「便所の火事」で、どうにでもなれという心理状態となり、過去に調査しているのに改めてそこに並んでいる石仏を1基づつ記録と写真を撮っている私だった。
本日の石仏巡りは、熱中症で石仏の前で倒れる前にこの辺が潮時と、時計も3時半となったのでここまでとする。そして帰宅する前に街中の雲龍寺さんへ立ち寄り、先月に手拓し清書したままの「舟越淇水」碑の資料を渡す用事があった。旧盆前で、何かと忙しい時なので渡しただけで済まそうと思ったが、その雲龍寺さんは石造物の宝庫であり、つい来たついでだからと墓域を覗いて、今回は上記に掲載した文殊菩薩像を調査してしまった。これは中々の優れもので、釈迦三尊種子があって、その下に法華経の「法師品第十」からの偈文も刻まれていた。つい嬉しくなって、それらの銘文を石面に触れるたび「アチッチ」と言いながら手拓してしまったが、帰宅してから確認してみると、その内の願文部分の上部が手拓から外れていたと言う、笑うに笑えない失敗をする。まあ、一緒に撮った写真から何とかその銘文は補足することが出来たが…。やはり、暑さで頭がボォ~としていたことにしよう。
さて次回、この暑さでどうするか思案中。それでも多分、1基でもと欲を出して宝篋印陀羅尼経を探しに出かけるのではないかと、自分で自分をコントロール出来ない馬鹿さ加減を笑っているところです。
去る7月28日は、千葉県市川市の恩師、我妻和夫先生の一周忌。そして翌日の28日(日)は、朝早く起きて9時近くまで家周りの草木の選定やら除草に大汗を流しました。余りにも蒸し暑かったので、些か熱中症気味となり、それから車に乗って鹿沼へ出かける気力は完全に消滅していた。嗚呼、我ながら歳を取ったものである。二、三年前なら、それこそいそいそと喜んで出かけたものだが…。
仕方なく部屋で大休憩を取った後は、これから先の鹿沼市の石仏巡りについての作戦を練ることにした。何しろ鹿沼は、栃木市そして真岡市と肩を並べるくらいに嫌な地区。これまでに何度も挫折を繰り返しては、また懲りずに今度の鹿沼石仏巡りとなったのだが、そこで鹿沼市の石仏調査はこんどこそ一気に終了させることから、目的毎に的を絞って調査することに変更した。その第一が、既に鹿沼市の石造物は主な600余基を調査済みなので、後は追加調査とする。その調査対象は、何といっても粟野町(今は鹿沼市と吸収合併)まで調査が終えている宝篋印陀羅尼経が刻まれた近世宝篋印塔調査を完了すること(きっと、ここでも何度かの嫌な思いをするのは覚悟の上で)。さらに、これまでついつい見過ごしてきた石碑等の碑文調査に加えて、これまでに調査した石造物で拓本の欲しいものの手拓作業。これも、既に幾つかは手拓を断られているので、全てとはいかないまでも出来るだけ、という範囲内で。後は、偶然に出会うであろう面白い石造物の調査となるが、何しろ鹿沼はかつて日光領だっただけに山地へ入れば入るほど面白いのに出会うだろうと期待している。そんな作戦のために、午後からはパソコンの前に座って地図作成や資料作成に専念する。
それにしても暑い。石仏巡りの調査資料は作成できたが、果たして今週から本当にこの暑さの中を現地へ行くだけの気力があるのだろうかと、一抹の不安を感じて苦笑している。まあ、その結果は来週のこのブログをt楽しみにといった所である。
そうそう、それとここへ掲載した山百合の花は前庭に今年も咲いたもので、頭が重いので棒を立ててあげました。ついでに山の中に咲いている山百合にも、馬鹿みたいに棒を立ててここ数日間は私と家内だけが楽しめるユリの花としました。そんな馬鹿なことまでしたので、余計に暑さにやられたと、後で大笑いしました。