昨日6月24日は、栃木県栃木市の江戸前期までの庚申塔調査最終日として、一日中あちこちと飛び回りました。といいましても、距離的な話しでして、実際に行った地域は4箇所だけですが…。
早朝は、唯一残っていた寛文二年塔の二猿です。さんざん、所在場所に悩んだだけに場所的に直感はピタリと当たったが、それがその場所の何処にあるかまでは分からずに民家へ飛び込んで教えを受けると、若い方が「口で言っても分からないから案内します」となり、無事に今日最大の目的が達成できてしまう。
後は、その場に座り込んでの調査である。泥落としから始まって水拭き、そして読めない箇所の拓本取りに写真撮影と、栃木市の最後の寛文庚申塔だけに時間を掛けてのんびり過ごす。
しかし、その場所は山の中。私が佇むほどにヤブ蚊が集まりだして、身体中にヤブ蚊がとまっている。タオルで時々追い払いながら、何とか蚊に刺されないで、寛文2年塔は気が済むまで眺めることが出来た。
次は墓地の傍ら、笹の生い茂っている中の碑塔調査である。まずは、その笹を写真撮影に為に取り払うことから始める。そして笹の中へ首を入れたとたん、ヤブ蚊の群の中へ顔が入ってしまう。もちろん急いで目を閉じたが間に合わず、その目を閉じた瞬間に目蓋でヤブ蚊の一匹を捕まえて(正確には挟んで)しまう。これまで、流石の私もヤブ蚊を目で捕まえたことなどあるはずもなく、最初は何が目に起きたか分からずにビックリ!。急いで目を開けたが、今度はその為に目にヤブ蚊は張り付いてしまった。目の中に蚊が入ったのだけは確かで、それも大きい。指で、目からはみ出している蚊の部分をつまみ出して、まずは一安心。しかし、何となく目の中がゴロゴロしているので、そこに寝ころんで持参した水筒を目にかけて洗い流す。目をこすらぬよう、慎重に洗い流して無事に私の目は元通りになった。そしてそこには、これまでの読誦塔として、1石に刻まれた読誦塔銘文としては最も長い銘文を書き写す。その文字数、主銘文一行で28文字もあった。また、当地には笹に囲まれた享保10年銘の宝篋印塔もある。それらを、綺麗に洗い流した目で読んで調査する。笹藪の中には、まだ幾つかの碑塔があるが、それらは次回への置きみやげにしても、結局はこの場所に2時間半以上もいたことになる。
次は、春日部市のN氏と約束した、大塚町にあるとされている延宝5年銘の庚申塔探しに行く。現地で、主だった農家の家を次から次へと訪ねては聞き取り調査をし、最後に「あのおばあさんが知らないと云えば、この地区にはないから訪ねて行きなさい」と、教えられた家に行く。生憎と、おばあさんは田植えに出かけているが、「そこへ行って話しを聞くと良いですよ」と、家人に教えられた田圃へ行って、あぜ道に腰を掛けて話しを伺う。その結果、つまりは該当碑塔はないことが分かった。それでも念のために、碑塔所在地の庚申塔群を再訪して1基ごとに紀年銘を照合していくと、その中の1基の紀年銘が合致しない。つまり、その延宝5年塔があるとした調査者の紀年銘読み違いと決定する。帰宅後、N氏に電話連絡して、その延宝5年塔は栃木市の江戸前期庚申塔リストから削除する事にする。
今回は、暫くぶりに一つの内の聞き込み調査を行ったので、その結果として個人宅屋敷内に祀られていた元禄7年銘の合掌型六臂青面金剛像を新たに見つけることが出来た。しかも、一猿塔で、その猿は2つの桃を両手に持っている珍しい1猿姿というおまけまでついた発見である。詳細な所在地は、家人が望まないということで公表できないが、いづれ画像だけはお見せいたします。
この2基の庚申塔調査で、一日の半分以上は過ごしてしまいました。残った時間で、写真の取り忘れや、探し出すのが面倒な庚申塔の再撮影に数ヶ所の寺院を訪ね、それでも帰宅までに余った時間を大平町の庚申塔を訪ねた。
早朝は、唯一残っていた寛文二年塔の二猿です。さんざん、所在場所に悩んだだけに場所的に直感はピタリと当たったが、それがその場所の何処にあるかまでは分からずに民家へ飛び込んで教えを受けると、若い方が「口で言っても分からないから案内します」となり、無事に今日最大の目的が達成できてしまう。
後は、その場に座り込んでの調査である。泥落としから始まって水拭き、そして読めない箇所の拓本取りに写真撮影と、栃木市の最後の寛文庚申塔だけに時間を掛けてのんびり過ごす。
しかし、その場所は山の中。私が佇むほどにヤブ蚊が集まりだして、身体中にヤブ蚊がとまっている。タオルで時々追い払いながら、何とか蚊に刺されないで、寛文2年塔は気が済むまで眺めることが出来た。
次は墓地の傍ら、笹の生い茂っている中の碑塔調査である。まずは、その笹を写真撮影に為に取り払うことから始める。そして笹の中へ首を入れたとたん、ヤブ蚊の群の中へ顔が入ってしまう。もちろん急いで目を閉じたが間に合わず、その目を閉じた瞬間に目蓋でヤブ蚊の一匹を捕まえて(正確には挟んで)しまう。これまで、流石の私もヤブ蚊を目で捕まえたことなどあるはずもなく、最初は何が目に起きたか分からずにビックリ!。急いで目を開けたが、今度はその為に目にヤブ蚊は張り付いてしまった。目の中に蚊が入ったのだけは確かで、それも大きい。指で、目からはみ出している蚊の部分をつまみ出して、まずは一安心。しかし、何となく目の中がゴロゴロしているので、そこに寝ころんで持参した水筒を目にかけて洗い流す。目をこすらぬよう、慎重に洗い流して無事に私の目は元通りになった。そしてそこには、これまでの読誦塔として、1石に刻まれた読誦塔銘文としては最も長い銘文を書き写す。その文字数、主銘文一行で28文字もあった。また、当地には笹に囲まれた享保10年銘の宝篋印塔もある。それらを、綺麗に洗い流した目で読んで調査する。笹藪の中には、まだ幾つかの碑塔があるが、それらは次回への置きみやげにしても、結局はこの場所に2時間半以上もいたことになる。
次は、春日部市のN氏と約束した、大塚町にあるとされている延宝5年銘の庚申塔探しに行く。現地で、主だった農家の家を次から次へと訪ねては聞き取り調査をし、最後に「あのおばあさんが知らないと云えば、この地区にはないから訪ねて行きなさい」と、教えられた家に行く。生憎と、おばあさんは田植えに出かけているが、「そこへ行って話しを聞くと良いですよ」と、家人に教えられた田圃へ行って、あぜ道に腰を掛けて話しを伺う。その結果、つまりは該当碑塔はないことが分かった。それでも念のために、碑塔所在地の庚申塔群を再訪して1基ごとに紀年銘を照合していくと、その中の1基の紀年銘が合致しない。つまり、その延宝5年塔があるとした調査者の紀年銘読み違いと決定する。帰宅後、N氏に電話連絡して、その延宝5年塔は栃木市の江戸前期庚申塔リストから削除する事にする。
今回は、暫くぶりに一つの内の聞き込み調査を行ったので、その結果として個人宅屋敷内に祀られていた元禄7年銘の合掌型六臂青面金剛像を新たに見つけることが出来た。しかも、一猿塔で、その猿は2つの桃を両手に持っている珍しい1猿姿というおまけまでついた発見である。詳細な所在地は、家人が望まないということで公表できないが、いづれ画像だけはお見せいたします。
この2基の庚申塔調査で、一日の半分以上は過ごしてしまいました。残った時間で、写真の取り忘れや、探し出すのが面倒な庚申塔の再撮影に数ヶ所の寺院を訪ね、それでも帰宅までに余った時間を大平町の庚申塔を訪ねた。