今回掲載した墓碑は、嘉永2年に亡くなった地元、本島氏の墓碑。惜しむらくは、正確な建立紀年銘(推定で一周忌の嘉永3年とする)と石工名が刻まれていないが(恐らく江戸で作成)、足利市の石碑としては名碑の一基に入れたいものである。それにしても、以前からこの墓碑の存在は知っていたが、裏面を覗いても銘文が見つからなっかったのでそれ以上は注視しなかった。所が前回に当地を訪れたとき、時間が余ったのでこの碑の裏をまた見てみると、何となく文字がある。要するに、それほどまでに裏面は長年の汚れで銘文が全く見えない状態だったのである。試しに指で銘文最後の所を擦ってみると、大竹の苗字の下に培の文字がかすかに読める。これは思わぬ掘り出し物かもしれないと、その時は調査用紙にサイズやら墓表文字やらを書き込んで、それ以上は次回へのお楽しみにした。そして今回、早速に本気になって水洗いをしてみれば、意外にも立派な文字刻字として揮毫者が大竹蒋塘の名とともに撰文者が大槻盤渓(墓碑には名前の清崇とある)であることが解った。
さて、それからが大変。今日の天気予報では、足利地方は一日中曇りで、最高気温は28度とあったので、今年八月唯一の石碑調査にやってきたのだが、空は晴れてものすごい湿気。墓碑一基の水洗いだけで全身汗まみれ。加えて、少し風も出てきた中での拓本採りとなった。今回に限り、墓表の手拓は全紙で採ろうとしたので水張中は風に悩まされて何とか手拓まで完成。間もなく12時だが、取り敢えずは昼食抜きで頑張ることにする。そして碑陰へと移ったが、半紙幅では横が10㎝ほど足りないという、面倒くさいことになる。加えて、真剣になって水洗いしたつもりだが文字の中にまだまだ泥等が詰まっていて、このままでは水張も出来ずにもう一度の水洗いとなる。銘文は短文なのでまだ助かるものの、やはり長年の汚れはそう簡単に取れずに思わぬ時間を消費する。そうこうして何とか納得できる拓本が仕上がったのが掲載した銘文画像である。時に午後も2時を回っていた。手拓しながら内容を読み流してみたが内容は易しい。しかし、草書体の文字に弱い私には数文字だが読めぬ文字がある。まあこれもこれからの銘文清書で解結していくことにしよう。今回は、全景写真と裏面銘文手拓画像だけだが、大竹培の筆の運びを堪能してください。※銘文も追加で掲載しましたが、最後の所はうまく訳せませんでした。御笑覧ほど(苦笑)。
法華経千六百部と観音普門品一萬巻の読誦結願塔で、四角柱四面にそれぞれ銘文があります。この塔の存在は随分前に知っていたのですが、なかなかに詳細な調査となると拓本も採らなくてはならないので眺めるだけに終わっていました。そしてようやく、10年近く経ってから、そういえば経典塔の調査等は今の石碑調査に入ってからは暫くぶりのことと、ようやく本気になって調査し、それを約一週間かけて清書しました。その他にも、例えば仏教用語の語彙説明なども作成したのですが、どうせそれらは誰も興味を示さないだろうと掲載しませんでした。本当は、その部分が最も銘文としては面白いのですが…。(笑)
それと、こうして昔の文字やその字体などをなぞらえてみると、本当に江戸時代までの漢字は面白いと一文字づつの作字に夢中になって楽しみました。この過程が、私にとっては他の人には理解できない最も心ウキウキの時間です。次回は、彼の足利出身書家、大竹 倍(大竹蒋塘)揮毫の石碑清書に入ります。これも時間を掛けて心躍る日時を過ごしていきたいものです。
そうそう、自分の勉強過程での中途半端な読み下しも、だいたいどんな内容かがわかる範囲で掲載しましたが、まだ最終校正には至っていませんので、正しくはこれからです。何よりも、異体字等を始めとして誰でもが読める明朝体でも銘文を掲載しておきたかったからです。読み下しで明らかに間違っている箇所もあるのですが、それは笑って見逃してください。
それでは、全景写真から掲載していきます。
パソコンのデスクトップに未整理のまま放置されているフォルダを開いてみたら、昨年11月に途中まで清書をしていた、栃木県今市市に所在する石碑の銘文読み下しと異体字一覧表がそのままになっていました。今更、読み下しをここへ掲載しても余り意味がなさそうなので、もう一つの異体字一覧表を掲載してみました。なお、その石碑の途中まで終えた銘文と拓本画像は、当ブログの2018年11月に掲載してあります。
しかし、ここへ掲載した異体字にしても、銘文を読んでいけばその殆どは調べなくても読める文字です。それでも中には面白い字体があるので、このような異体字に興味ある方には参考になるかと思い、今年のこの猛暑に調査しに出かける気力をなくしているだけなので掲載してみました。御笑覧下さいましたら幸いです。