石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

HPへ掲載していました「月報」を削除しました

2009年01月30日 | Weblog
 今日は、暫くぶりの本格的な雨となり、何となく春を感じて気持ち良い朝を迎えました。は〜やく来い、お春さん!と言った面もちです。
 さて、試験的にHPへも掲載していました、毎月発行している「石仏月報」の電子版月報の掲載を、1月号から中止しました。余りにもつまらない内容と見えて、全く反応がなかったからです。また、栃木県の碑塔データもどうするか、今のところ思案中です。当分は、新しいデータを追加せず、現状のまま放置することにして暫く様子を見ることにしました。独り善がりの、HP運営の難しさを実感している所です(^o^;)。
コメント

2009年1月24日も小山市の石仏巡りでした

2009年01月25日 | Weblog
 相変わらず2009年1月24日も、小山市の淡々とした石仏巡りに終始しました。そのほとんどが、過去に一度ならず訪れている場所なので、その時に調べなかった十九夜塔や家畜塔に念佛塔と、単調な作業の記録用紙記入に終始しました。それでも、この飽きてしまいそうな実見調査作業の繰り返しを経なければ、小山市石造物の全体像が自分として実感できないので仕方がないと思っている。それに加えて、今回は天気予報がものの見事に外れ、途中では氷雨が落ちてくる有様で、訪れた寺院で対応に出られた方に、「この寒い中、ご苦労様です」と、向こうは真面目に言ってくれているのですが、私としては皮肉に聞こえてしまう有様だ。多分、手が凍えるような中での石仏巡りをしているのは、私ぐらいだろうと思うと、寒さで根性が少なからずねじ曲がってしまったようだ(^o^);。
 そんな訳で、午後二時半くらいに調査台帳が50枚になったことを良いことに、今日は早めに終了して帰宅しようと国道四号線へ出たが、途中の神鳥谷・光明寺さん前で渋滞待ちとなる。そういえば、この光明寺さんも目新しい庚申塔等の碑塔がなかったので、以前に来たときは文字庚申塔調査もパスして何も調べていないことを思い出し、急遽左折して乗り込む。特に、入口にある碑塔群は写真を撮るのもはばかれるような汚さとボロボロ。それでも記録用紙を取り出して淡々と記録を取り、どうでも良い写真を撮影して予定外の調査を完了。そのため、本日の碑塔調査数は60基と暫くぶりに数だけは多かった。そして帰宅し、撮影してきた写真を整理していると、その60基の中でただ1基だけ撮影忘れをしている。それは、乙女地区泉龍寺さんにある宝永年間の青面金剛塔で、その写真はこれまで2度来ていながらいつもその像容ばかりに気を取られていて写真撮影を忘れてしまっていた庚申塔である。従って、今度で三度目の訪問ながら又しても撮影忘れを起こしてしまったことになる。思うに、多分その庚申塔に嫌われているのだろう。鬼さんが正面向きで面白いので、そればかり眺めているのも原因だが…。今回は、今まで眺めていた宝篋印陀羅尼経塔の銘文もしっかり読んできたというのに、である。
 それでも諦めず、多分次回も小山市へ向かうだろうと思う。早く、この小山市から離れたい一心で!。
コメント

1月17日も栃木県小山市の石仏巡りでした

2009年01月18日 | Weblog
2009年1月17日も栃木県小山市の石仏巡りでした。
 流石の私も、今朝の寒さには負けてしまい、家を出たのが8時近くになってしまったが、それでも何とか今日の最初の訪問地である小山市西黒田の中公民館に9時前に到着することが出来た。偏に、私みたいのが沢山いたと見えて出遅れた人が多く道路が空いていたお陰であると勝手に想像する。
 さて、本日最初の碑塔調査は、金網で囲まれた中にあるので、先週に教えて貰っていた自治会長さんのお宅を訪ねるのが最初の仕事となる。そして事情を話して、檻?の中に入る許可と地元の方から不審者が侵入しているという問い合わせに対応して頂くことにする。何しろこの柵内には「千庚申供養塔」という、私が求めている数庚塔があるのだから、何が何でも実際にこの手で触れておきたいのである。そしてこの同一場所で調査した碑塔数は総数で二十基となった。加えて、隣の光永庵寺にある碑塔や本堂前にある大きな宝篋印塔等を調べ終えたときには、ここだけで午前中を使い切り、丁度12時となってしまった。となりの霊園の駐車場で、ゆっくりのんびり休憩を兼ねた昼食となる。
 午後の部は、間々田町へ入り、まずは行泉寺さんを訪ねる。住職さんが非常に親切で、分かり難い墓地内にある碑塔などを率先して案内してくれる。そして雑談していたら、奥様は岩舟町の小野寺出身で、大慈寺の林住職とは同級生だったと、思わぬ所で話が弾む。
 辞して、隣の浄光院さんへ行く。境内にある庚申塔は過去に見ていたのだが、今回は全ての碑塔調査の為に再訪である。そして調べていくと、思わぬ碑に出会う。それは、笠付四角柱に刻まれた宝篋印陀羅尼経の銘文だった。このような、思わぬ形態に刻まれた宝篋印陀羅尼経を見ると、まだまだこの世には私の知らない当該形態塔が出てくる可能性がああると認識を新たにした。そんなこんなで、この浄光院さんの墓地内まで調べ終えた頃には早くも午後の3時半になっていた。調査した用紙を数えてみると、総数で52基。一日にしては上出来と、今回はたった三箇所のみで一日を過ごしたことになるが、早くも西に傾いた太陽を見て、今日はここまでと帰宅することにした。帰宅してから、これまでに小山市の実見した碑塔数を数えてみたら1037基と、千基を越える数を超えていた。ヨッシャッ!。これで小山市の碑塔調査は実数の三分の二以上を終えたことになる。と、なんだか嬉しくなってしまった。この調子で、真面目に小山市へ通い続ければ、あと10回位で終了するだろうと先が見えてきた嬉しさも、さらにそこへ加わった。
 次回も、この調子で小山市へ行くぞ!。と。
コメント

1月10日も小山市の石仏巡りでした

2009年01月12日 | Weblog
2009年1月10日も、小山市の石仏巡りです。
昨夜までの雨が災いし、外は霧で運転している車はライトをつけている中を、いつものように壬生町経由で小山市へ向かったが、郊外へ向かえばますます靄が深まり、まるで冬山登山で出会うホワイトロック状態である。しかも、その路面は見事に凍っている。ノロノロ運転でも、そんな天候が幸いに自動車数は少なく、いつもの予定時間で喜沢の国道4号線信号へ到着。一瞬、今回は小山市街地の石仏巡りにしようかと思ったが、4号線も空いているのでそのまま南下して間々田4丁目を左折して東野田方面へ向かう。
 既に八時半を過ぎたというのに、相変わらず深い霧の中を最初の目的地である御霊神社に到着するも、ここで暫く一休み。そして東から太陽の輝きが増すに連れて霧は晴れ、この御霊神社の外れ一角に祀られている碑塔群の写真を、最初に撮影してから本日の石仏巡り開始となる。
 今日は、この東野田地区周辺を徹底的に調べようと思っていたので、調査途中で出会った地元の方を捕まえて情報収集。そして幸いにも、その聞いた方が土地にめっぽう詳しい人でこの地区の碑塔の所在地を聞き出すことが出来たのは、その後の石仏巡りに大いなる力となった。そして東野田町は何とか12時までに終了。その後は前回に廻りきれなかった南和泉地区南部を調査してから東黒田地区も余裕を持って終了。この頃から、兆候のあった北西の寒風が吹き荒び出す。厚着をしてきたつもりだが、それでも寒くなり更にジャンパーを着込んでブクブクに膨れた格好で西黒田地区へ入ったが、日蔭にある碑塔類は写真もうまく撮れなくなってきたので調査を諦める。それでも、かろうじて日向にある碑塔だけを調査し、今回の調査を少しばかり早いが2時半に終了して帰宅する。そんな帰路途中、飯塚地区へ立ち寄って少しばかりの碑塔を拾って、本日の調査碑塔数48基に満足して車の通りが少ないいつもの道を通って帰宅する。
 それにしてもこれからの一ヶ月余は、寒さの中での碑塔巡り。それでも何とか今年の春までにはこの小山市から抜け出したく、せいぜい無理をせぬ程度に頑張りましょう!
コメント

2009年最初の石仏巡り

2009年01月05日 | Weblog
2009年最初の石仏巡りは、1月4日に栃木県小山市へ出かけました。一日が、穏やかな天候に恵まれ、本当に楽しかったです。
 さて、今回も小山市の地区毎総ざらいとしての石仏巡りだったので、今回は小山市横倉地区から入りました。そして泉明院へ9時前には到着したので早速調査開始となりましたが、いや〜驚きました。なんとそこにはあったはずの、例えば元文二年銘馬頭観音像容十九夜念佛塔などがなくなっていたのです。少なからずこれにはあせりました。そこで聞き込み調査をしたところ、それらはここからは離れた元の泉明院があった場所へ、色々と都合があって今から10年ほど前に移動したとのこと。ホッと胸をなで下ろし、場所を尋ねて訪れたことは言うまでもありません。
 その後は、更に南下して田間地区、そして武井地区へと入り、その武井地区最後の庚申塔調査で、今度は思わずビックリ!、という庚申塔に出会ってきました。
 それが、ここへ画像として紹介した青面金剛の足下にいる姿です。青面金剛様が足踏みにしているのは、いわゆる「鬼」でなくてはならないのに、ここでは明らかに「猿」となっています。しかも、尻尾まで刻まれた姿です。しかし、私的には焦りました。なぜなら、ここにはかつて、別のこの様な剣人型六臂青面金剛像容塔があったからです。そこでここでも聞き込み調査して、それが入れ替わってなぜこのような姿になったかが判りました。端的に言って、それは平成15頃にかつての庚申塔に換えて作った石工(石材店)の無知に因るものだったのです。
 その後も今度は南和泉地区へ入り調査をしていて、気が付けば時計は既に午後も3時半を過ぎていた。帰宅する頃には暗くなってしまうので止めようかとも思ったが、最後の最後になって目の前にあるのは寶篋印陀羅尼經が刻まれた寶篋印塔。それを記録せずに帰宅したのでは、何とも心残りとなるだろうと覚悟を決めて碑面と向かい合う。その為、やはり宇都宮へ着いたときにはライトをつけて走らなければならなかった。いやはや、今年最初の石仏巡りがこの分ではこの一年が思いやられると一人で苦笑する。
コメント

2009年 明けましておめでとうございます

2009年01月01日 | Weblog
2009年 明けましておめでとうございます

 新年早々、パソコンの前に座っているようでは今年も代わり映えのない年になりそうですが、それでも初日を見ながらの元旦はそれなりの新しい気持ちにさせてくれます。新年だからと言って、テレビや新聞も見ない毎年の事なので、今日から昨年の石仏巡りの資料整理に汗を流そうと張り切っているところです。特に最初にすることは、咋一年間に手拓した拓本の整理で、保存する物は綺麗に折り畳んで袋に入れ、その他の石文解読のためにだけ手拓した物は思いきって処分します。それと、自分用に作成した2008年の石佛月報の製本作業です。まあ、元日の仕事としてはこの二つが出来れば、あとはノンビリと周辺の散歩としましょう。

 そうそう、正月は皆様暇でしょうから、HPの方へ昨年11月分と12月分の石佛月報を掲載しようと思っています。それとついでに、12月30日の石仏巡り記も掲載しようとも思っています。

なお、ここへ掲載しました写真は、いつもの事ながら佐野市在住の高橋久敬様から頂戴した物です。昨日、自宅近くのオオイヌノフグリが咲いている所へ置いて撮影しました。

 今年一年が、健康でまた楽しい石仏巡りが出来ますよう…。
コメント