今回も、宇都宮市街地の碑(いしぶみ)調査に行ってきました。と言っても、全て過去に調査済みにつきその最終校正と手拓作業です。それにしても、北風が強かった一日でした。本当なら、3基の碑文を手拓する予定だったのですが、出来たのは上に掲載した写真の「戊辰役戦死記」だけでした。兎に角風が強く(本来なら後日に行いたかったが、お寺さんから手拓許可がおりただけにそのチャンスを逃すことができません)、手拓途中に何度も風に邪魔されて失敗を繰り返しながら約二時間半を掛けてどうにか拓本を物にしました。これは、宇都宮では唯一の浜村蔵六の揮毫碑であり、石工は彼の広瀬羣鶴です。また、撰文は縣六石というように、碑としては三拍子そろったものだけにどうしても拓本が欲しかったものです。多分、この拓本を持っているのは私だけだろうと少なからぬ喜びとなりました。将来的には栃木県立図書館へ納め置くことにしているので、その時はご覧ください。さて、手拓最後として篆額を取ったのですが、その手拓途中で風に煽られて剥がれ飛び、「こら~、待て~」と広い境内を追いかける始末には自分で笑ってしまいました。
それにしても、碑文調査は難しい。帰宅してから以前に手写した碑文を見てみたら明らかな文字間違いがたくさん出てきてしまいました。尤も、石面に刻まれた文字通りの手写を基本としているので、一般の人にとっては問題のない本当に細かい箇所なのですが…。忸怩たる思いで、その修正作業に入らなければなりません。
それでも、これで何とか宇都宮市内の碑文調査は基本的に終了することが出来ました。次回からは、季節も良くなったし以前のような気軽な石仏巡りに入ろうと思っています。ただ、宇都宮市の碑文調査が終わったとはいえ、今のうちに拓本を残しておかなければ後々後悔する石碑がまだまだあるから、その合間を縫ってのことに当分はなりそうです。今は、今年になって佐野市在住の山口氏よりご教示戴いている栃木県茂木町の石仏調査に行きたくてウズウズしているところです。特に、合掌1猿姿の庚申塔を早く見たくて仕方がありません。そんな石仏巡り記を次回はここへ書き込めることを願いつつ、それにしても毎週末は天候が不順なめぐり合わせの今年にウンザリしています。嗚呼、それにしても未だに足が痛い。朝から夕方まで立ち尽くして石碑と対面していたので、その疲れがドッと出てきてしまいました。何しろ帰宅への途上では、ママチャリを強風に逆らって漕いでいたので坂道ではケイレンを起こす始末でした。嗚呼、歳はとりたくない。というのが、この頃の実感です。
今回は風もなく絶好の手拓日和ということで、宇都宮中心地に所在する碑(いしぶみ)の未手拓だったものを、暫くぶりにチャリンコで訪ねてきました。もちろん、それらは既に詳細に校正済みなのですが、どうしても手拓が欲しかったからです。特にここへ掲載した「古棺記」碑は、根府川石を使用しているために全体に剥離が始まり、やがては剥がれ落ちてしまいます。その前に、ぜひとも拓本として後世に残しておかなければと言う変な責任感を感じてです。その他にも、戸田香園揮毫の「戊辰役之戦死之碑」も拓本が欲しくてこれもその目的が完了しました。この二基だけで約五時間もの長時間をその前に立ち尽くすと言う始末で、帰りには、足と腰の疲れでペダルを踏むのも難儀なほど疲れ果ててしまいました。やはり、歳を実感です!
もちろん、これだけでなく他にも気になっていた碑の碑文文字確認やらで帰宅したのは五時近くになってしまいました。それにしても陽が延びましたネ。これでもう少し温かさが増せば言うことなしです。
多分、次回もそんな宇都宮中心地の拓本取りに出かけることになるでしょう。そして昨日もそうでしたが、二荒山神社にある巨碑を眺める度にそれらの手拓が欲しくなってしまいますが、二荒山神社の許可が得られたとしてもとうてい一人では無理。特に、蒲生君平の碑を眺めて出るのはため息ばかりです。
朝起きると雨が降っている。家内が言うには、間違いなく晴れるというのと、今日は昨年の大惨事から一年ということなので石仏に逢ってきたらというのでその気になって出かけたが、現地に着いて9時半になるも雨はまだ止まない。その場所は、今から数十年前に来ていたが、今回来てみると農道は広い一直線の立派な道路となっているし、目印の墓地と薬師堂はどこにもなく広~い住宅地となっている。雨が降っているのを幸いと、周辺を探し巡ってみたら、住宅地となっている一角に墓地共々移転していた。そして目的としていた寶篋印塔は、その敷地内に薬師堂とともに移転されている。ホッと一安心。早速、宇都宮市の近世寶篋印塔調査の60基目となるのを、雨が止むのと同時に調査した。そんな薬師堂には、古そうな鰐口が釣り下がっているが、裏を覗くと裏面剥奪で文字部分がない。おそらく、佐野市在住の高橋氏は見ていないだろうと思いつつも、これでは写真にとっても仕方ないと諦める。
その後は、今日の最大も目的は達成したという安堵感から、いつもの石仏巡りとして隣の板戸町へ移動する。上記の写真は、そんな板戸町内鬼怒川縁にある馬頭観音群の一角風景である。三面六臂の馬頭観音像容塔もあるが、そちらは昨年の1月の時に紹介した覚えがあるので、この写真にした。
内のあちこちで聞き込み調査開始。その一人の方が、そう言う石造物に詳しい人が反目(ソリノメ)地区に居ると言うのでその方の家を教えてもらって訪問。そして話を伺えば、自宅近くの山(藪)の中に寶篋印塔があったが昨年の地震で今はどうなっているか判らないと言う。予想以上の嬉しい話で、早速教えられた森の中へ入っていけば、昨年の今日の東日本大地震によって基壇の上から全てが地面に散乱している姿を発見。そのあまりにも酷い惨状に音を上げながら、それでも出来る限り拾い集めて組み立ててみたが、所詮一人では無理な話で、特に軸部と笠に宝輪などはどうしようもない。その軸部には、4面全てに寶篋印陀羅尼経からの梵字真言が刻まれているという優れもの。それからは昼食時間も忘れて手拓開始。一面を取り終えると重い軸部を転がして掃除して次の面へということを繰り返しながら結局は全てを取り終えるまでに2時間強もかかってしまった。紀年銘は宝暦年間、しかも梵字真言にほとんど傷はなく完璧なもの。この嬉しさ、皆様には判らないでしょう。今日で、宇都宮市内の近世寶篋印塔調査は一区切りとすることにしていたのに、思わぬお宝との出会いに笑いが止まらない。それが、下の正面部分の手拓画像です。どうです! 良いでしょう!
時計はすでに3時。今日の石仏巡りは大豊作につきここで終了。そして宇都宮市街地へ戻り、そう言えばもう一箇所、市街地の未訪問寺院があることを思い出し、ついでに寄ってみると、そこにも墓地内に昭和40年台の造立ながらの寶篋印陀羅尼経梵字真言と出会う。昭和になってからの陀羅尼真言ということで、これも記録を取る。結局は、今日一日で3基の寶篋印塔を調査できたことになった。これで、今夜からまたしばらくはその梵字陀羅尼の照合に時間を取られると、うれしい悲鳴を上げながら帰宅した。
さて次回は、早くも宇都宮市街地の碑(いしぶみ)再校正にママチャリで出かけることにしようと思っている。
あいにくの悪天候となった今週の週末、仕方なく今日は朝からパソコンの前に座っていた。そして今は、約1時間の散歩を(散歩も今日は寒かった!)終えて、再びパソコンを起動してこれを打ち込んでいる。
今回は、この一年間に渡って調査してきた「宇都宮市の輯録いしぶみ」を印刷し、製本まで一気に仕上げることにした。そして出来上がったのが上記に掲載したものです。B5判で200余ページになってしまった。しかし、これでもって宇都宮市の輯録いしぶみ調査が終了したかというとまだまだで、さらに数基の精査校正が残っている。多分、間違いはないだろうと思いつつも念には念を入れて、機会を見て実物と対面してきます。それと、手拓がどうしても欲しい碑もあるので、こちらももう少し暖かくなったら拓本取りに出かけようと思っている。
さて、本当なら今日は宇都宮市内のまだ出会えぬ寶篋印塔を探に鬼怒川を超えた地域へ出かける予定だったのだが、やむなく中止。あと1基を確認すれば、宇都宮市の近世寶篋印塔は大台の60基になるのでそれを確認してから纏めと最後の製本に進もうと思ってる。いずれにしても、今のところはすることが山積していて、自分のHPの更新さえままならない情けない始末。誰か、余っている時間があったら譲ってくださいと言いたい所だが、こればかりは仕方のないこと。どうせなら、明日も外出が出来ないような悪天候になっても良いと、勝手なことを思っている。それもこれも、フィールドワークばかり続けてきたつけがここへ来て一気に噴出したようである。嗚呼忙しい!忙しいと騒いでいるばかりで先へ進まぬ自業自得である。
今回は、今年初めてのような感覚の石仏巡りでした。したがってその内容も豊富で、大きな石碑に宝篋印塔あり、さらに見事な彫りの三面八臂馬頭観音像容に狛犬等等で暫くぶりに楽しい石仏巡りが出来ました。特に今回は、宇都宮市の碑(いしぶみ)調査最後となる石碑調査を終了することが出来ました。しかも、一日で三基もの新たな宝篋印塔を調査できてもうこれだけで言うことなしなのですが、その他にも20数基の一般的な石仏も調査できて大満足な一日でした。
上に掲載した狛犬は、宇都宮市若草3丁目の神社とも言えぬ場所に鎮座?している狛犬の中(全部で6~7組の狛犬が並んでいる)の、面白い顔をした2基を掲載しました。多分、佐野市在住の山口氏ならここだけで半日以上は過ごしてしまうでしょう。それにしてもその状態は酷く、昨年のような大地震が再び襲ったら間違いなくその足は折れてしまうほどの傷みよう。それもこれも、以前は草むらの中に半ば放置された状態だったのでその影響かと思っています。
さて、次回の週末はあれから1年! 今回もつくづくと感じたのですが、その後に出会う宝篋印塔の多くは九輪部分はもちろん笠が落下した状態のものはほとんど。以前に撮影しておいた宝篋印塔にしても、今回再訪してみると見事なまでに上部が落下している。やはり石造物調査にも「機」があり、それを逃してしまうと後で後悔することを思い知らされた、今回の石仏巡りでした。次回は、暖かだったら宇都宮市内の調査済み石碑の最終校正に行こうと思っています。
ところで今回調査した宝篋印塔の中に、塔身の種子の代わりに文字で「寶篋印塔」とあるのは時々見られますが、「寶鏡印塔」と「篋」のところが「鏡」の文字となっているのに出会いました。もちろん栃木県内では初見です。県外の例で、このような例をご存知の方からの情報をお待ちしています。