1基目は、外池正方の墓碑です。この正方が、松の村を開拓して300金を水戸藩に献上してその利息で救民を助ける基金とした人です。その褒美として、名字帯刀と正装の着用を許可され、外池の姓を名乗ることになりました。詳しくは、2017年09月20日と26日、そして10月07日に掲載した「栃木県馬頭町の松野新田之碑」関連記事を参照して下さい。
そして2基目が、外池正房の墓碑で、前々回に掲載した前川豊昌に家業を教えてもらった外池家直系の人物です。
最近、石碑ばかりの整理をしていたので飽き、時には栃木県内石仏のまとめでもしようかと思い、これまでに実査調査済の「栃木県内融通念仏塔」を(といっても、数はわずか5基だけです)と始めたのだが、すべての資料を並べてみると、栃木県では最も遅い明治7年建立の日光市興雲院境内に見る写真が見つからない。過去に、お寺さんを何度か尋ねているので写真が無いはずがないと、あちこち探したが見つからない。そこで、今年初めて日光の紅葉でも見ながら写真を撮ってこようと出かけた。道路は観光客の車で大混雑かと思いきや、意外にも簡単に興雲院様へ着いてしまった。伺ったところ、午前10時を過ぎると動けなく混雑となるとのこと。さて、奥様にお話しして写真を撮らせてもらったのが掲載した写真である。
さて、栃木県の数少ない融通念仏塔の初発は、現在の所は真岡市にある元禄十四年辛巳四月八佛生會日(1701)であり、銘文は「融通念佛万人回向佛」「妙法蓮華経万部読誦攸」他とあり、舟形光背石に阿弥陀如来坐像が彫ってある。そして2番目は岩舟町にある宝永三己丑八月吉祥日(1706)紀年銘で、銘文は「キリーク種子に融通大念佛連衆菩提」他、多数銘文があるもので、形態は笠付四角柱である。そして今回のは写真にあるように「融通念佛供養塔」とある。
そして早速、今日はその纏めにかかろうと思ったが何となく気が重くなり、ここの所の纏め中である馬頭町の外池家墓碑が二基残っているので、まずはそれを仕上げることにした。多分、明日にはここへ掲載出来るだろうと思っている。
それにしても、暫くぶりに冬の日光は寒かった。その他の日光での雑事を済ませてから、予定では庚申塔を一基だけ採拓するつもりだったが気温が低く寒風もあるのでその気力がなくなり、途中で昼食を食べて帰路についてしまった。そんな訳で午後2時には自宅へ着いてしまった。
調査して置きながら、未整理だった栃木県馬頭町の墓碑調査の遅ればせの報告です。当地には他に2基の墓碑がありますので、出来れば続いて掲載したいと思っています。
これは、安永末に近江国から当地へ来て酒造業を創業した外池家の墓碑による銘文紹介です。特に今回のこの「その1」では、江戸時代らしい近江商人魂の素晴らしさが表現されています。こういう銘文を見ると、今の大企業の経営者の理念の無さにうんざりします。
紅葉にはまだ早すぎる、栃木県足利市の行道山四十九院供養塔のある山頂へ行ってきました。勿論、その最大の目的は、山頂にある四十九院供養塔として享保4年にここへ石仏群を建立した由来が記されている銘文調査です。手拓とその石塔側面の銘文写真を掲載いたしましたので、もしお暇で、こういうものの銘文読みに興味がある方は是非に見て頂いて、その読みを教えて頂けましたらと、自分勝手なお願いを兼ねています。言い訳としては、他に沢山の未整理石碑の拓本があり、このままではそれらを先にしなければならず、子の銘文解読に当たるのは新年になってからになりそうなのです。何しろ銘文読みは、その作業が超遅い者ですので(崩し字はあまり得意としていないので余計です)!(笑)。
サービスとして山頂に臥している超有名なお釈迦様の写真を最初に掲載しました。
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