今回の「瀧山西谷墓表」の碑文を掲載しました。暫くぶりに、漢文らしい漢文の碑文に出会えて嬉しかったのですが、それを読むとなると私の浅学では歯軋りばかりしていて少しも先へ進めませんでしたが、ようやくそれも半ば脱することが出来ました。但し、それを完全に読み下すにはこれまた文章力の無さで、独り苦笑しています。まあ、読み下しが目的の調査ではないので、何が書かれているのかが判れば良しとしてこれで清書ができました。
それにしても、やはり江戸期に本気になって漢学を学んだ人、田口文之の文章力の凄さに感嘆しています。まもなく、3月。今2月は、風が強くて拓本採りが出来ない一ヶ月でした。3月に入れば、その風も日毎に収まるでしょうから、そしたら第一に足利市の「養老碑」に再挑戦です。この石碑だけで、丸一日を費やしても良いと言う覚悟で、最適な日を選んで出かけようと毎日の天気予報を眺めてばかりいます。
これは、足利市猿田町の上之宮神社にある「水神堤防」とある石碑である。明治23年8月の大水により破壊された堤防を、新しい技法により工事をなした経緯記でもある。いずれにせよ、拓本は未だなので春頃に再訪して手拓してこようと思っている。銘文は短いので次に掲載したが、拓本での最終校了は未だである。参考までに御照覧下さい。
先週は風もあり、どこへも出かけずに残務整理としました。その成果は、今日に続いて明日にでも掲載できればと思っています。いずれにせよ、今週末は温かくなりそう!。風が無ければどこかへ出かけたいですね。
天気予報に騙されて、今回は暫くぶりに足利市まで足を伸ばした。その目的は、長年の懸案だった西場にあるこの正面に大きく「養老碑」とある石柱の両側面と碑陰&碑表に刻まれている銘文を手拓するためである。現地に着いたものの、早くも嫌な感じの風が吹き出している。それでも今日はその手拓が目的の為、側面から早速手拓開始。時間が経つごとに風は強くなり、「こりゃ~、ダメかな」と感じつつも何とか両側面は採り終える。問題はそれからで、普段なら手拓は諦めるところだが、折角来て途中まで手拓したのだからと続ける事にして、まずは碑陰の銘文から開始。しかし、水張りも間々ならない状態なので今回は特別に全紙を取り出し。風上に当たる東面に画仙紙の余白を大きく張り出し、目張りをしっかりとしてから水張り開始。何とか水張りを終えた勢いで墨入れをするが、直ぐに風が紙面を撫でてプカプカ浮いてくる。「イイエ!ママよ」とそのまま墨入れを続けて完了。勿論、銘文を読むのに苦労するような酷い仕上げだが。さて、次は最も難しい碑表の題字部分。ご覧のように、ここまで大きな文字で、しかも深く彫られていては、前回同様に全紙を使用して風ふさぎをしたどころで、それは気休み。風は容赦なく、水張りを終えた画仙紙面を撫でて碑面と密着していない文字空間から浮いてくる。それでも一文字づつ墨入れするや、片手で次の文字を抑えながらまた墨入れ、それを3度繰り返して仕上げたが、題字の一部は墨が入っていない。もう一度やり直す根気はなく、ついにそのまま終了していつの日か、また訪れようと思う。ご存知のように、この碑は宝暦六年の建立であるから、一部の文字に難読箇所があるのは承知だが、帰宅して眺めてみると、本当に手拓が下手だなと実感させられた。
さてそれからは、とにかく風が強いので拓本採りは諦めて足利市の石碑巡りとする。そして次に訪れたのが猿田町の上之宮神社にある災害碑。栃木県内の災害碑を集めている私にとってはぜひとも必要な石碑なので、写真と手拓面のサイズを測り、ついでに次回の為に碑面掃除をして離れる。次が、大月町まで移動して威怒神社の石碑2基を確認し、掃除はともかくも採択サイズを計測。まだ帰宅するには時間があるので、当地から歩いて山の中にある御岳神社跡へ登る。ここには目的の石碑の他に、新たな2基を手拓することにしてその前準備として同じく採択面のサイズなどを計測する。結局、今回は7基の石碑確認をしながら最初の「養老碑」以外の6基は見ただけで終了。6基を一日で手拓するのは無理なので、いつの日か2日間をかけて採ることにする。
上記に掲載した狛犬は、足利市の狛犬調査をしている方でも見逃しやすい狛犬だろうと感じて撮影し、掲載しました。勿論、山口様は調査済みだろうと思いつつも、また調査範囲外だとしても、紀年銘が弘化年間とあればやはり足利の狛犬としては抜かせないものだろうと掲載した。所在地は、初めての方では非常に難しいので、もし未調査でしたら詳細な案内を致しますので‥。そんなこんなで、今回も宇都宮に着いたのは日没直前の5時過ぎだった。