石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2011年最後の石仏巡り

2011年12月31日 | Weblog

2011年最後の石仏巡りとして、足利市へ行きました。参加者は、佐野市在住の高橋氏と山口氏と私の三名で、集合場所は鑁阿寺近くの太平記念館駐車場。道路は、年末と言うこともあってガラガラ、従って宇都宮を8時に出たのに9時少し過ぎには集合場所へ着いてしまいました。さて、今日の目的は第一に今年一年のお互いの活動を語りつつ旧交を温めるためと、相変わらず私の希望による石仏調査。特に今回は、私にとっては今年初めてで最後の足利訪問につき、ぜひ実物確認とその手拓にあった。三人が集まったところで、早速近くの水神宮へ向い、そこにある寛政九年銘の水害碑を見ること。しかし、それは自然石に陰刻されていて碑文は手拓しない限り読めそうもない。風が強く、しかも寒い日陰での手拓は否応なしに強引な作業となる。とにかく文字が読めれば良いと強引に手拓してそれを確認するのも面倒となって仕舞い込み、元の駐車場へ戻る。
 ここからが、本日の私のたっての希望で三寶院へ向かう。何しろそこには、私がどうしても欲しかった大橋訥庵撰文で大竹培が揮毫した石碑があるのだから。それがここへ掲載した画像である。


 お寺さんの、懇切な対応とご理解の元に無事手拓を終える。多分、大橋訥庵について調査している人も、まさか足利市にその撰文が、しかも訥庵と親しかった巻菱湖四天王の一人である大竹培(号は石舟など)による行書体揮毫碑があるのは知らないだろうと思う。もちろん、訥庵撰文石碑で、行書体は初めて出会っただけに、嬉しさ倍増。ご住職御内儀によると、これを目的に調べに来た人は初めてのことだという。ただ、石材が根府川石となっているので早くも表面が浮き出し始めている。やがて表面が剥がれ落ちてしまうだろう。その前に、今日はこうして手拓で来た悦びは大きい。そんな、私が手拓している間に、高橋氏と山口氏は墓地内・外を探索して新たな石碑を二基、そして宝篋印陀羅尼経塔を一基見つけてくる。嬉しいが、それ以上に本日はこの訥庵撰文の碑文を手拓出来ただけで大満足。後の調査は後日の課題とする。その後は、近くの神社や足利公園へ歩いていき、石碑の石工名確認へと向かう。そしてその中の一基は見つからず(多分、倒壊によって処分されたのだろうという推定)、足利公園のは井亀泉であることをしっかりと確認してから昼食へと近くの長林寺駐車場へ移動。風が強く、外での食事は不可となり、それぞれが車中でのさびしい昼食。それでも食べ終わったあとは外へ出て、コーヒーや差し入れのお菓子などを食しながら今年一年の雑談に、来年の抱負を述べながら楽しい時間を過ごした。本日はここまでとし、少し早いが帰宅となり来年の再会を約して車に乗り込んだ。
 高橋氏に山口氏、自分一人が大満足の収穫を得てしまい、それにこの暮れの忙しいなかと寒い中をお付き合いくださいまして本当にありがとうございました。来年もよろしくお願い申し上げます。そして最後に、昨夜は帰宅してからまず真っ先に年賀状書きをしました。尤も出そうとしている半分くらいですが、後は正月になってからのんびり書こうと思っています。

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2011年12月26日はしごとのついでに烏山町へ

2011年12月26日 | Weblog


 今年最後の遠出として、今日は栃木県烏山町方面へ朝から出かける。途中でも仕事をしながらの烏山着で、その仕事も終わったのは既にお昼だった。町内の運動公園で簡単な昼食を取り、上に掲載した自然石板碑を調査しに行く。場所は、大桶地区の個人墓地内。近くまで行って、商店で尋ねれば場所は直ぐにわかった。本当は、手拓も欲しかったのだが、墓地の持ち主宅まで許可を取りに行く以上に、那須からの北風がうなりをあげて吹いているので、今回はパスすることにして写真だけで納得。
 この自然石板碑、当地方では非常に珍しいものであり、その内容は上部に阿弥陀三尊種字を置き(もちろん最上部には二条線もしっかり刻まれている)、下部中央には「嘉暦二年丁卯十一月八日」とある。西暦では、1327年に当たる。また、その両脇には、右側に「主君御為」。左側には「造立所也」。最下部に「敬白」とある。そしてサイズは、高さが143.0に幅が67.0と奥行き24.0センチとなっている。もちろん大きさとしては文句なく、次回にはぜひ拓本をものにしたいと思っている。その後は調子に乗って、市貝町へ遠回りしての帰宅となったが、もくろんでいた碑(いしぶみ)は、既に陽が西へ回ってしまい写真も撮れない有様。また、手拓するには烏山町同様に風が強すぎてこれも潔く諦めた。まあ、一基だけでも物にしたのだから、仕事途中の成果としては申し分ないだろう。
 そうそう、それにしても昨日までの三連休は天候が悪すぎた。また運にも見放されて、お寺さんにある碑文の手拓取りに行けば、住職さんが留守で許可が下りない始末。そんなこんなで、今年最後の三連休は何一つ成果のないままに終わってしまった。

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2011年12月18日も宇都宮市の碑(いしぶみ)探索でした

2011年12月22日 | Weblog


 今年の12月は寒い!といいつつ、今回は宇都宮市内の新たなる碑(いしぶみ)探索に行きましたが、そう容易く見つかるはずもありません。仕方なしに、未調査碑として取って置いた旧4号線(日光街道)沿いの菅原神社&台新田公民館にある、「日露戦役紀念之碑」に行きました。これは、明治39年四月に建立されたものですから戦役終了の翌年に建立されたものです。そして、この碑文を撰文・揮毫したのが最後の宇都宮藩で重臣を勤めた藤田安義です。彼はこの歳に亡くなっていますから、おそらくこの碑文として揮毫したのはこれが最後となるものでしょう。内容的には、日露開戦への理由と大勝した内容で、地元で出征した七名も無事に凱旋したことが記されています。ただ文脈的には、この碑文中にも「衰老不文」とあるように、それまでの彼の碑文とは違って勢いがないのは仕方がないことなのかもしれません。それでも、宇都宮にある日露戦役紀念碑としては一級の内容となっています。そこで、これも手拓が欲しくなりなり、隣では駐在所のおまわりさんが自動車の違反運転取締りをよそ目にして、前回購入した画仙紙が酷すぎたので午前中に改めて買い求めたまっさらな画仙紙を取り出して水張りを開始する。と、おまわりさんは違反取締りよりもこちらの方が気になるようで、最後にはとうとう取締りを中止して私のやることを眺める始末になりました。その後は、ついに墨入れするまでの一時間余を一緒になって雑談しながら過ごしてしまいました。そんな意味を含めて、今回の手拓作業は思い出に残りそうです。
 終われば、既に時計は三時を過ぎていて碑にあたる光もご覧の有様。おまわりさんに、作業をする前に写真を撮れば良かったのに、と言われてしまいグーの根もありません。そんな訳で、この写真撮影を最後として共にその場を離れて私は帰宅しました。おまわりさん、駐在所に戻ってなんと言い訳するのか聞きたかった思いがしつつ。
 さて、明日からはクリスマス三連休。今度はどこへ行こうか思案中です。多分、宇都宮市街地の今度で何度目になるのか分からぬ碑の再再再校正のために、該当碑を眺めてこようかと思っていますが…。第一級の寒波がくるというので、どうなりますやら。少なくも一基は手拓をしたいと思っているので、雪の降る中での手拓だけは勘弁こうむりたいところです。

 そんなこんなで、夏ごろから行きたいと思っていた県南地区行きは未だ実行されず。多分、年末の30日頃にのんびり行くことになるでしょう。

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宇都宮市の碑(いしぶみ)前編を最終校正!

2011年12月15日 | Weblog
 今まで掲載していました「宇都宮の碑(いしぶみ)」前編、時間が無くて最終校正をせぬまま掲載していましたが、ようやくこの度その作業も終わり、全てを再更新しました。それでも、蒲生君平碑や菊地愛山に戊辰役戦死記は、再度訪ねての再校正が終了していません。困ったことですが、年内には何とか再訪して眺めてこようと思っています。それにしても、大変なことに関わってしまったと自嘲しながら、楽しい時間をそれなりに過ごしています。
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2011年12月11日は宇都宮市街地の石仏巡り

2011年12月12日 | Weblog

 今回は、宇都宮市街地で未調査のままになっていた碑(いしぶみ)の調査、相変わらずママチャリで日光からの冷たい北風をものともせずに出かけました。といつつも、見つけ次第に手拓をしたいがために、朝の9時をとうに過ぎてからの出発でしたが…。最初に行ったのは、これまでに何度も伺っている桂林寺さん。特に今回は、広大な墓域内からたった一基の、それもあるかどうか分からぬ墓石を探すことにあった。そこで早速庫裏を訪ね、住職さんに訳を話して協力してもらうことになった。そして、多分この当たりだろうと墓域原本をコピーまでしてくれた用紙を元に調査開始。ところが、該当する墓地は見つかったが肝心な墓碑が見当たらない。仕方なく、その墓地の墓誌を見てみるとそこに探しいている方の戒名が記してあった。どうやらお墓を改修した際に処分されてしまったようである。そうなってはもう手も足も出ず、潔く諦めた。実際にはそこまでには随分墓地内で時間を費やしてしまったが。
 さて、桂林寺を辞しようとする木の陰に、上記に掲載した宝篋印塔を発見。今までは、木の葉が繁っていて見落としていたようだ。早速、再び庫裏を訪れて調査許可をもらって眺めると、なんとそこに刻まれている偈文は栃木県で初めておめにかかる「妙法蓮華経 提波達多品第十二」からの出典となる「深達罪福相 遍照於十方 微妙浄法身 具相三十二 …」とあるものだった。目的とする碑は見つからなかったが、思わぬ拾い物をしたと満面笑みで、次へと向かった。
 ※桂林寺の住職さんをはじめ、ご家族の皆様方には大変お世話になりました。その非常に好意的なご協力に、暫くぶりに感激した一日でした。お寺さんの対応として、それは将にお手本のような暖かさでした。茲に厚く御礼申し上げます。
 その後は、昭和年代の碑を手拓したり、いつもと違う画材屋さんで手拓用の画仙紙を購入したりして帰宅しました。そして反省すべきは、やはり用紙は行き慣れたお店で購入すること。あまりにも用紙の質が異なりどうやら無駄遣いをしたようです。

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2011年12月04日は宇都宮市内の石仏巡り

2011年12月08日 | Weblog


 上に掲載した「自保堂楳澗先生之墓」、宇都宮市南部の鬼怒川沿い下桑島町にあるというが、これだけを探すために実に4回も桑島地区へ行きました。そして今回は、集落のかたまった地区へ行っては一軒づつ尋ね歩きました。一言に下桑島地区といっても、それを一軒づつ訪ね歩くのは大変でしたが、それでも何とか今回は、その尋ね歩く途中の個人墓地内でご覧の碑を発見することが出来ました。尤も、それからもその墓地がどこのお宅かを知るのに苦労し、ようやくそのお宅へ辿り着いて、調査許可を得られた時は、心底からホッとしました。もちろん、碑陰にある碑文を手拓したのは当然です。それにしても、最初に探したのは四月という有様なので、実にこの1基に巡りあうまで8ヶ月も要したことになります。幸いなことに、碑陰の碑文は平易な漢文だったので、ここのところの難解な解読作業に疲れていたので、その点でも嬉しくなりました

次に掲載した写真は、かつて西刑部町の共同墓地内で確認しながら十九夜塔の調査だけで次回回しになっていたものです。その時は、丁度手拓用紙が切れていたので碑陰にある和歌が手拓出来なかったので、今日までその再訪がのびのびになってしまっていた次第です。

それがこれで、「元信先生之碑」とある碑(いしぶみ)の碑陰にあるもので、これは私にとっても共感できる内容となっていたのです。つまり、
「萬代の宝を 後に積むよりも ただ壱人の友ほ ほしけれ」とあり、この時代でも本当の友を得るのは難しかったのかと、わが身に置き換えて納得できた内容でした。
 その他、残りは余りにも痛みが酷い碑だったので未調査だったものを手拓したりして帰宅しました。尤も、帰宅してからその碑を解読しようとしましたが、現時点ではその十分の一くらいしか進んでいません。そのほとんどは傷ついていて読もうと思っても出来ない状態。後は、根性との勝負となりそうです。

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