石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

7月29日の石仏巡り記

2006年07月30日 | Weblog
昨日29日は、7月最後の石仏巡りにも関わらず行き先の定まらないまま7時過ぎに家を出る。取りあえずは国道293号線を足利方面へ向かったが、西方町まで行ったところでハンドルを南に切り、栃木市方面へ進路変更。
 現在、県民の森から預かっている、ツバメ君。8月半ばまでに放鳥しないと、ツバメ君として生きていけなくなるので、その放鳥場所と決めている渡良瀬遊水池のツバメ君達が群れる様子を見てくることも、突然ここで今日の目的に加えることにした。そう目的地が決まれば、ツバメ君ではないがその場所に向かって一直線。(それでも途中で、小山市の河原田近くを通ったので寄り道し、あきる野市のT氏に昔見た延宝庚申塔の所在地を教えたものの、その後どうなっているかを確認しに行く。そして無事に昔のままの場所にあるのを確認して一安心)。
 遊水池広場は、早くも多くの人々が子供連れで遊びに来ていて、流石に夏休みに入ったことを実感させる。そして目的のツバメ君、まだこの遊水池に集合する時期としては早いとみえ、その群れるときは何千羽と集まるツバメ君の姿はどこにも見えない。何かホッとすると共に、まだ思うように飛べない我が家のツバメ君に飛行特訓をし、はやく皆と一緒に飛べて付いていけるようにしなければならないと思った。
 遊水池へ来たついでに、折角だから延命院跡まで行って、庚申塔や十九夜様を見てくることにする。梅雨明けを思わせるような暑さの中を、私一人だけ日傘代わりに黒いコウモリをさして歩いて行くも、直ぐに汗ダクダクとなる。現地についてもとてもではないが、石仏などの調査どころではない。そんなことをしたら、たちまち熱中症となって死んでしまうだろう。写真も撮らずに、所在を再確認しただけで引き上げてしまう。
 それにしても困った。石仏巡りと称して家を出ながら、石仏調査はまだ1基もしていない。何となく、今日は新しい地区の石仏調査が面倒になった。そこで、取りあえずは近くの猿田彦堂へ行って、何度撮影しても旨く写らない寛文銘の例の庚申塔を訪ねることにする。それともう一つ、その庚申塔に刻まれた石文解読が終了していないので、それもこんな時だからこそしようと決めて行くことにする。いつものように本堂へ上がり込み、その正面に座り込んで調べ始めるが、またしても途中で諦めてしまう。解読するには、やはり拓本を取らなければ無理のようだ。それには管理者の了解を取らなければならないが、今日はそこまでの努力をする気力が失せていた。そこで、いつものようにまだ駄目な写真を撮っただけで早々と退散。
 そうだ!。大前地区、大前神社の前に並んでいる碑塔類、庚申塔以外は未調査だったのを突然思い出す。こんな時こそ絶好のチャンスと向かえば、神社周辺は道路工事で進入禁止。苦労して迂回路を経由して行けば、まさしく神社前は土曜日にも関わらず工事中。全くついていない。という次第で、ここも石仏調査は断念。
 その後は適当に巡り歩いて、八龍神社へ到着。寛政年間ながら、私好みの狛犬君に出会ったので、この頃では滅多にニラメッコしない狛犬君相手に遊んで時間を過ごす。それにしても、このまま帰宅したのでは余りにも情けない。そこで、あそこなら真夏の太陽君を含めて誰にも邪魔されないだろう、と考えた赤麻地区の四社神社へ向かう。ここも、童子付き庚申塔と数基の碑塔以外は未調査場所。その未調査碑塔類は全部調査すべく、到着するや早速開始。快適な涼風を受けながらの石仏調査は、今日一番のご馳走。ルンルン気分で1時間半ばかりを過ごしてから、ついでに金福寺へも行って調査終了。終了後は、神社の境内で敷物を広げまたまた大休止。休み疲れたころに動きだし、その後もあちこちグダグダと夢遊病者のように動き回って、結局は午後4時過ぎまで藤岡町で過ごしてしまった。いよいよ次回からは8月。少し、気を引き締め直していこう!

7月22日の石仏巡り

2006年07月23日 | Weblog
今日は雨が降らないことを信じて朝早く家を出たのに、鹿沼市へ入ると雨が強く降ってくる。さらに都賀町を経て栃木市へ入ると益々雨足は強くなり、とてもではないが石仏巡りは出来そうもない。岩舟町のお寺さんを訪ねて雑談をするには、少しばかり早すぎる時間で迷惑をかけそう。仕方なく、南の空が明るいのに従って栃木市を抜け、大平町へ入る。この頃から雨が弱くなり、気をよくしてそのまま道路に従って南下し、藤岡町へ入る。しめしめ、ここまで来たら雨が一滴も降っていない。
 着いたところは、栃木県藤岡町部屋地区。この周辺の点在している碑塔類は精査していないので、雨が降っていないだけでももうけ物と、今日はこの地区の石仏巡りとする。細い道をくねくねと巡りながら、目に入る碑塔類を調査記録していく。そして部屋地区を終えると隣の帯刀地区、更に石川地区へと入って、宝篋印塔を含めてのんびり気長に見て歩く。そして昼食時間が近づけば、その場所に相応しい場所として渡良瀬遊水池の土手へ出て、熱気球の浮かぶ空の下でのんびり過ごす。そんな昼休みを長く取りすぎて、何となく午後からは石仏巡りのモードが切れてしまった。そこで今日は、この周辺から動かないことにして、藤岡町と野木町と小山市が複雑に入り交じった地域を一つとして、午後からは思川西岸地区を適当に見て歩く。
 突然思い出したのが、小山市白鳥地区の八幡宮にある、梵字光明真言陀羅尼の石塔。この石塔は、一般に見る光明真言塔とは違って、梵字真言を読むのに適した教科書的書き方がなされているのを思い出したのである。それを拓本に取るべく向かって、ここで多くの時間を過ごす。大きな碑塔なので、碑面を綺麗に水洗いするのは面倒なので止め、文字部分だけの簡易拓本にしたが、それでも教科書的に使用するには充分な拓本が取れた。近くの子供が一人で遊びに来たので、その子を相手に更に時間をつぶし、その後は益々の惰性で周辺をうろついただけで、目にした碑塔調査もせずに午後4時になったのを潮時にそのまま帰宅する。それでも、今日一日での碑塔調査の記録用紙は52枚。しかも、宝篋印塔陀羅尼経銘文が3基も含まれているのだから、のんびりした石仏巡りにしては満足のいく一日だった。

7月16日の石仏巡り記

2006年07月17日 | Weblog
昨日、16日は15日に書き込みましたように、栃木市からの石仏巡りに出かけました。栃木市旭町の定願寺さんへ行って、住職さんに庚申塔の銘文解読許可をお願いしたのですが、やはりダメでした。なぜ、ダメなのかは話してくれませんでしたが…。
或いは、誰とも知れぬ檀家でもない馬の骨に、銘文を読まれたくないというお坊さんの考えがあったにしても少しは理解できるので、無理強い(もっとも、それをすると益々意固地になるでしょうが…)しても仕方なし。「そうですか、それは残念です」と、笑顔でお寺さんを後にしました。いつの日か、仏教を指導する僧職者としての基本的な姿勢に目覚めてもらうしかないようですので、これをご覧の皆様も、定願寺さんの庚申塔銘文解読は諦めてください。また、気軽に許可を受けず、銘文を読もうとして叱られても知りませんのでご注意申し上げます。

 これで、栃木市の石仏巡りは一応の終了とする。本当は、もっとももっと栃木市の寺院を含めて見て歩きたいのだが、もう少し石仏巡りの者を温かく迎えてくれる地域へ向かうことにしよう。といいつつ、半分は銘文を読ませてくれるだろうと期待していただけに、予定が大きく空いてしまう。そこでまずは、予定通りに大平町川連の天満宮にある延宝庚申塔を写真撮影に行く。ここで、一緒に並んでいる四角柱文字「庚申塔」に、道標として「左日光」の文字を確認。「日光」への道標を探している私としては嬉しい一基である。

空からは、今にも雨が降ってきそうな様子に、その後はどこへ行こうかと思案してしまう。岩舟町の高勝寺さんへ行っても、今日は日曜日なので祈祷・祈願依頼者の対応で忙しいだろうから遠慮し、何となく車はそのまま南下して藤岡町へ入ってしまった。
一本道を何処までも南下して、栃木県最南端となる藤岡町内野・下宮(シタミヤ)まで来てしまったので、天王社へ立ち寄って庚申塔などを写真に撮る。その後は、昼食の場所として旧谷中村合同慰霊碑へ戻り、そこでのんびり過ごす。そして今日は、ここで終わりと決めて、慰霊碑の中にある庚申塔の写真を撮って過ごすことにする。今は、手入れがなされているのでこの季節に来ても写真は撮れるが、その全てが塀に半分以上埋められてしまって、何とも云えぬ思いである。それでも、遊び半分で写真を撮っているのだから、ついでに邪鬼や三猿などの拡大写真も面白半分に撮影する。その一端は、後日HPの方でご紹介しましょう。そんな時間つぶしも、2時過ぎから雨が落ちてくる。急いで、残りの未撮影庚申塔を撮影して車に戻り帰路につく。その途中、「藤岡町歴史民俗資料館」の案内板が目に入ったので立ち寄り、応対に出た人と雑談をしてここでも時間つぶしをしてから、いよいよ本格的に降り出した雨の中を帰宅する。

本日15日の石仏巡りはお休みです

2006年07月15日 | Weblog
 今日、7月15日土曜日は、しばらくぶりに石仏巡りはお休みです。
早朝から、遅れに遅れてしまったジャガイモの収穫です。もう、その仕事は毎年の事ながら暑いのを通り越して炎熱地獄で、猛暑の中を石仏巡りした方が何倍も楽なのを実感です。それでも、これで来春までのジャガイモが確保できると思えば、都会に住む人達には真似の出来ない贅沢な話しなのでしょう。そして何よりも、取り立てのジャガイモを食べた方しか判らない美味しさを味わえるのだから、こればかりは幸せなことなのでしょう。
 庭の数本のヤマユリが今朝はじめて咲きました。大株の方のヤマユリは明日咲く状態でパンパンにふくらんでいます。つい最近まで、クチナシの花の匂いで溢れていた我が家の庭も、今度はむせ返るようなヤマユリ独特の芳香で満ち溢れることでしょう。そんなヤマユリの花を眺めていたら、その脇でレンゲショウマが重たそうなつぼみをたくさん付けていました。このレンゲショウマ(花は、小型の睡蓮の花が下向きに咲くと思えば良いでしょう)は、大型野草の中でも私の好きな花で、毎年楽しませてくれています。

 今日は、どうしても聴きに行きたいコンサートの前売り開始なので、少しばかり遅れてしまったが10時頃に前売り会場に行けば、既に長蛇の列で良い席は取れなかった。まあ、顔を見に行きたいのではなく、生の演奏を聴きたいのだからチケットが取れただけで良しとしよう。
 そんなこんなで、午前中は終わり。昼食後は、午後2時まで昼寝をしてから夕立の来ない内にと散歩に出かけて、先ほど帰宅。そしてする事もないので、ただ何となくパソコンを起動してこれを打ち込んでいる次第です。そんな今、夕立がやってきました。これで少し涼しくなると良いのだが…。

 明日はどうしよう? と、只今思案中です。栃木市の定願寺さんへ行って、庚申塔の銘文を拓本に取らせてもらえるか、交渉しに行こうかとも思っています。何しろ、その庚申塔銘文は誰もこれまでに解明した人がいないので、出来れば解読して皆様に公表しておきたいと思っているからです。それと、現在編集中の「栃木県栃木市の江戸前期庚申塔」のまとめが、今のままでは不完全になってしまう恐れがあるからです。まあ、ダメ元で行けたら行って来ましょう。そしてついでに、何度もその前を通りながら未だに写真の一枚も撮っていない、大平町天満宮の延宝庚申塔を今度こそ写真に撮りたい。さらに、これまた一年ぶりに岩舟町の高勝寺さんへ行き、その後に新たな板碑が境内から見つかったかを確認してきましょう。
と、予定を立て始めるときりがありません。所詮は、明日、起きてその気になって石仏巡りに出かけたらの話しです。

嗚呼、今日は既に午後も3時を過ぎました。これからコーヒーでも飲んでゆったりだらだらとした夕方を迎えようと思っています。

7月8日の石仏巡り記

2006年07月09日 | Weblog
昨日8日は、暫くぶりに栃木県野木町へ行って来ました。というのも、先週は栃木市の江戸前期までの庚申塔纏めが終わってしまい毎夜が暇だったので、平成16年に多田治昭氏から頂いていた「関東地方童子・夜叉付青面金剛塔」を眺めていたら、栃木県は今迄に確認されたのが14基のみで、関東地方では最低な数であることが記されていました。茨城県が15基、群馬県が16基とあるから、あと数基あれば最低ランクから抜け出されると思って、自分の石仏DBを検索してみたら多田氏のリストに抜けている3基を見つけました。つまり、それを加えると合計17基となり、東京都の18基についで一気にランクが上がることになります。そこで、その写真を探そうとしたのですが、何しろ整理ベタな私はそれが何処にあるかが判らない。あちこちの写真を集めてみたがかろうじて出てきたのは上河内町の1基のみ。それも既に変色して酷い写真になっていた。そして残る2基の野木町のはどうしても出てこない。そこで写真探しを諦めて、それなら撮りに行った方が早いとなって、昨日の野木町訪問となった次第である。
 それら2基の写真を撮った後は、野木町を訪れたのは暫くぶりと言うこともあって、ついでに昔に訪れた所も含めてもう一度写真を撮らなければならない碑塔巡りを行った。と言いつつも特段の目的地が無く、適当に巡るものだから道を間違えて茨城県へ越境して総和町や古河市へ入ってしまっては、「オッいけない!。越境してしまった」と、行きつ戻りつの石仏巡りに独り苦笑した。そんな訳で、今回の石仏巡り写真は91コマものたくさん撮ったわりにはご紹介するようなものは少ないです。
 昨日も暑かったのですが、それでも木陰へ入ると涼風が吹いてきてこの季節にしては快適な石仏巡りでした。予定では、今日日曜日はジャガイモの収穫をする予定だったのですが、天候が不順なので今週中頃のカラッと晴れた早朝に日延べしました。早朝の散歩後は、我が家の庭に咲き出したノカンゾウの花を写真に撮ったりして朝のひとときを過ごしました。来週は3連休、今度はもう少し目的を持った石仏巡りにしようと今から考えていますが、このはっきりしない天気同様に、その日が来なければ判りません…。

7月1日の石仏巡り記

2006年07月02日 | Weblog
昨日7月1日は、栃木市の庚申塔でどうしても実見して紀年銘などを確認したい物を中心に訪ね歩く。その場所は、お寺さんあり神社あり、草原の共同墓地に加えて山の中の庚申塚ありと様々な所だけに変化に富んでいて面白いが、肝心の石文解読には手こずるものばかりで数は稼げない。しかし、今日でもって栃木市の庚申塔に特化した追いかけは終了したいので手を抜かずに1基づつ消化していく。というのも、それらの中に江戸前期までの庚申塔が紛れ込んでいて、私が訪ねてきてそれを拾い上げてくれるのを待っているような気がしたからだ。そして総数29基をあたるもそれらしき庚申塔に出会ったのは、最後の最後に訪ねた大皆川町の八坂神社でだった。その画像は、あとで別HPの方へ掲載したいと思っているが、像容的に延宝年間を下ることはないと確信している。また、その像容の中で注目すべきはヘビの持ち方で、下手の両方で腰ひものようにして持っていることである。
 多田治昭氏「石仏散歩 悠真」第2号では、長野県辰野町小野 祭林寺の延宝三年塔に同様の庚申塔があって、非常に珍しいヘビの姿であるというように、当然ながら栃木県では初見である。ただ惜しむらくは、石材が岩舟石を利用したので剥離がひどくボロボロとなっていること。肉眼でははっきり判るが、写真に撮ってみたところ余り良く判らないのが残念である。
 また、今回の庚申塔巡りでとても興味深かったのは、志鳥町の大沢地区(志鳥町公民館の道を南下した最南端位置で、道路突き当たり)の山の中に祀られている「庚申塚」の青面金剛像である。紀年銘が文化五年でありながら、邪鬼を踏む合掌型六臂青面金剛像容であること(この時代になると青面金剛像容塔は非常に少なくなって、そのほとんどは文字塔となる)。そして何よりも、そこに見えるお猿さんは青面金剛様の裾にすがりつくような二猿だったことである。行き止まりの山口家奥様に所在場所を教えていただいて、ようやくその場所が判る所にある庚申塚ゆえに、始めから三脚などを用意して行くべきだったのに、所在場所が判った嬉しさで山の中に入ってしまい、物の見事に写真撮影が失敗してしまった。二猿の見える青面金剛像容塔としては、栃木県での最も遅い出現塔と思われるので、機会があったら再度の挑戦をしなければならない。
 それでも、これでもって栃木市の江戸前期までの庚申塔は全て出そろい、写真もまた全てが揃ったので「栃木市の江戸前期迄の庚申塔」として、確信のある最終的な纏めが出来そうである。

 昼食時間は、志鳥町の滝ノ入地区の草原で取りましたが、早くも飛び始めた赤とんぼと共に里山から吹き降りてくる清風を友にのんびり過ごした時間でした。これから益々暑くなると悲鳴を上げつつも、こうして考えてみれば早くも夏至も過ぎこれからは一日ごとに昼の時間は短くなり確実に冬へ向かっているのです。愚痴をこぼさず、里と山との中間地点の石仏巡りがこれからしばらく続けられたらと思いつつ、今日は早めに目的が終了したのでそのまま帰路につきました。