石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2010年12月25日も宇都宮市内の石仏巡りでした

2010年12月27日 | Weblog

 冬晴れでしたが、風が少しばかり強い中を元気に出発。と言っても、今回はこのところの徳次郎町から離れて宇都宮市南部地区へ入りました。ところが、山地ばかりを巡っていた私にとっては、平野部の何とつまらないこと。石仏があるところといえば、共同墓地に公民館と寺院仏閣と相場が決まっていて、面白みはゼロに近いものでした。それでも、いつかは調査せねばならぬという脅迫感で巡って歩きましたが、結果としては予想した通りに月並みなものばかりで、しかも一日で27基のみという成果でした。それでも、宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝篋印塔を二基確認出来たので、まあこんなものかと思い、午後三時には風が一層冷たく感じられるようになってきたので、今回はここまでとしました。
 掲載した写真は、今では完全に地元の方にも見捨てられた家畜塔です。大きな自然石なのですが、そのほとんどは土中に没していて「勝善神」の「勝」文字だけがかろうじて見える状態です。この寒空にスコップで掘り起こすまでもないと、このままで記録するに留めてしまいました。そして今年もいよいよラストランとなってきました。年内に、あと一回ほどは石仏巡りに出かけたいと思っていますが、それは天気次第となりそうです。
 本心は、それよりも今年一年の調査しながら未整理となっている石仏達をどうにかしなければと思うところです。皆様も、悔いのない年末を過ごされますよう願っています。
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2010年12月18日も栃木県宇都宮市の石仏巡りでした

2010年12月20日 | Weblog

 今週も、飽きずに宇都宮市徳次郎町の石仏巡りが主となりましたが、流石に収穫は少なく、同じ一日なのに何かもったいない時間を過ごしてしまったような気がしました。それでも、山の中を徘徊して、これまで誰も発表していない庚申塔を発見しました。ただし、紀年銘等はなく「庚申塔」と大きな自然石に刻まれているだけでした。しかも、なにしろ闇雲に山の中を徘徊して出会っただけに、その場所へ二度行けるかと言うと余り自信がありません。藪漕ぎ同然の山の中で、表に出たらシャツと言わずズボンまでも酷い状態でした。そんな、たった1基の庚申塔ですが、山の持ち主以外は誰もその存在を知らぬ庚申塔に出会えたというだけで大満足でした。
さて、掲載しました写真は、ふもとの稲荷神社にある馬頭観音像達です。残念ながら、小屋には頑丈な鍵が掛かっていて近寄ることは出来ませんが、それにしても中央の馬頭観音様は素晴らしい像容です。
 ところで、相変わらず腰が痛く困っています。山の中を徘徊する分には大丈夫なのですが、前かがみ姿勢は出来ないのと同じ状態です。足にも少し痺れが来ていますので、多分坐骨神経症の前兆だと思われます。これから益々寒くなるので、しばらく石仏巡りは控えようかと思っているところです。と、言いつつ、今回はこの寒さの中で手拓を数点してきました。問題は、日陰の碑面には霧吹きをかけるとすぐに凍ってしまうこと。凍らぬよう細大の注意を払いながら水張りし、手早く墨入れ。そしてすぐに碑面から剥がさないと、それこそしっかりと凍り付いてしまって手拓用紙が剥がれなくなってしまいます。そんな、日陰の寒さに震えながら馬鹿見たいことをしているから、腰痛にでもなるのでしょうね。それでも帰宅してから、その銘文解読に心ときめく時間を楽しんでいます。
 果たして次回はどうなるやら、そろそろ年末の仕事仕舞いの準備に県内各地へ、腰が痛いのに車で飛び回らなくてはなりませんので、その途中で石仏を見て楽しむだけにしようかとも思っているところです。
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2010年12月11日は栃木県宇都宮市の石仏巡りでした

2010年12月12日 | Weblog

 先週に引き続いて、今回も宇都宮市徳次郎町の石仏巡りでした。特に今回は、どこかにあるという二箇所の庚申塚探しに主眼を置き、何とか徳次郎町の庚申塔調査を終えることとしました。最初の西根地区の庚申塚は、自分で予想した場所がドンピシャリと当たり、山の縁にあるのを僅か数分で探し出してしまいました。これには自分でもビックリです。そして二箇所目、門前地区の庚申塚はそう甘くなく、山の中を探し回ること小一時間。とにかく、今度は深い森の中なので、そのどこかにある庚申塚探しは想像を絶する難しさ。おかげで、山頂まで登ってしまい、流石にそこにはないだろうと又ふもとへ下って作戦の練り直し。そして再び山の中へ突入して、山仕事で使用される踏みあとを探しては辿ってようやく到達することが出来ました。その風景写真が、ここへ掲載した写真です。右端の四角柱は、倒れて下に転がっていたのを抱きかかえて、元の場所へ据えなおしました。それは大正四年銘という若さですが、「甲庚申塔」とあり、大感激です。何しろ栃木県では、この銘文庚申塔は少なく僅か数基という有様ですから、思わぬところでゲットすることが出来ました。その他、像容等も良いものがあり、来春に東京の加地氏や犬飼氏達が宇都宮へ来られましたらご案内しようかと思っています。
その他、今回は先週の残り調査をしたり、1996年に調査済みの箇所の再調査をしたりしていて、アッと言う間に時間が過ぎ、田中地区の家畜塔群を調査する頃にはすっかり山影になってしまい、仕方なく写真は次回に繰り越して銘文等の調査だけとなりました。
次回も多分、とにかくいい加減にこの徳次郎町を終わらせたいために行くことになるでしょう。
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2010年12月最初の石仏巡りは…

2010年12月05日 | Weblog

 腰が少しばかり痛いのもなんのその。冬晴れのド快晴とあらばおとなしくしている事など出来ずに、石仏巡りに出発。それでもやはり、遠出は車の運転がつらいと、宇都宮市内にする。最初に向かったのは宇都宮市北部の下金井町地区。適当に道路を通っていると、道沿いに早くも家畜塔三基を発見。その近くには、大きな墓地があるので行ってみれば、そこが公民館で敷地内に単製石幢六地蔵塔もある。一人でウシッシッと喜んで調査しているとそこへ地区内のおばあさん達が、これからみんなで遊びに行く集合場所がこの公民館とのことで、それぞれ連れ立ってやってくる。こうなればこちらのもの、早速この地区の石仏について話を伺うと、そこはおばあさんたちのことでたちまち話に花が咲く。そしてこの先のかつてはお寺さんがあったとおいう梅林にも大きな石塔が建っているとのこと。早速向かったが、その梅林とはものすごい藪林となっていて、中に入ったまでは良いが梅の伸びた枝とそこに絡みついたつる草に加え、足元はどうしようもない雑草があのいやな実をつけてはびこっていた。それでも何とか中へもぐって、宝篋印塔方宝篋印陀羅尼経が刻まれた塔を発見。思わぬ大物に出会って、大感激するも、今度はそれらの枝やツルや草で写真に撮れない。仕方なく、またしてもそれらの枝を切りツルや雑草を取り払って撮影したが、やはりスッキリした写真にはならなかった。もちろん、梅林から出てきた時は全身に草の実(あの、嫌な服にべたべたつくやつです)だらけ。それを取り払うのに、思わぬ時間を取られて独り苦笑いです。

その後は、まだ全地域の調査が終わっていない徳次郎町へ入る。その一つが、先月27日に少しだけ立ち寄って確認しただけだった、雷神像と不動三尊像容塔の調査。というより、写真撮影。その中の雷神像二体のうちの一体が、ここへ掲載した写真です。こういった雷神像に出会えるなんて、と独りで興奮しました。
 その調査を終えてから、長年存在だけを確認して放置していた、家畜塔群へ向かう。今回は、ここにある碑塔を全て調査する事とする。が、最初に掲載した写真のように先ずは水洗いや苔剥がしに加え、個々の写真撮影のために全体を動かさなければならない。腰が完治していないのに、この作業は少なからず腰に来ましたが、何とか全部終了しました。そして気が付けば、お昼は塔の昔に過ぎた午後2時となっていて、「マッタクッ」とまたしても苦笑です。それでも、午後の陽を受けながら青空に浮かび上がっている富屋連峰の峰々を眺めながらの食事は美味しかったです。
 この続きは、来週に!
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