この石碑は、ある書籍に所在地が間違って記されていたもので、捜し続けて丸5年振りにようやく出会うことが出来ました。それも、目的は別の墓碑銘調査で訪れた墓地の中にあったのですから、本当に間抜けな探し方をしていたことを如実に語っている次第で、いやはや、なんとも。といった思いでした。その剣術家の名前は渡邊貞綱の弟で重綱です。直心影流で、林崎派の抜刀術を得意として大日本武徳会でも活躍し、明治35年に亡くなっています。石碑建立は大正三年。撰文者は、宇都宮市の作新学院を創設した船田兵吾です。いずれにしても、これでまた宇都宮の調査石碑は新しく1基増えたことになり、この鬱陶しい気候にもかかわらず出て歩いた成果は大なるものがあります。
管見ながら、栃木県では初めてお目にかかる藤田東湖先生の「天地正大の気 粋然として神州に鍾る。秀でては不二の嶽となり」で始まる「正氣の歌」の始めの部分が記されている「日露戦役記念之碑」の御紹介です。撰文は、藤田安義。彼は、水戸天狗党事件の時に幕府から命令されてその討伐に向かった隊長の一人だったが、元々勤皇派の彼はその東湖の四男である藤田小四郎信が天狗党の首領となった彼等との戦いは好まず、初戦において負けるや幕府に具状を提出しただけで兵を引き上げて宇都宮へ帰城してしまう。それがやがて、その後の宇都宮藩の窮状を招く大きな要因になった。その彼だからこそ、その後の幕末からの勤皇志士を鼓舞したのみならず、明治の日清日露戦争に愛国的な人々の愛する歌となって行ったのを思い、ここへ掲載したのだろうとその心中を思いやる。