宇都宮では、雨が止みそうなので思い切って鹿沼市へ車を走らせる。何しろ今日は、前回の調査残しがあるので、その場所である千手山公園へ行ったまでは良かったのだが、鹿沼は宇都宮と比べると完全に山地。雨が霧雨状態でショボショボ降っている。そこでこれ以上は雨が降らぬうちにと、まずは手拓したい碑に画仙紙を張り付ける。ここまでは良かったのだが、その画仙紙が乾かぬうちに本格的な雨となって、急いで画仙紙を張った碑に傘を差したがそんな方法で防げるはずもない。特に下部は雨のしっぱねで泥まで着き出してきた。そしてとうとう、いきなりの横殴りの強雨と風によって画仙紙は剥がれてしまった。もう完全に、本日の鹿沼市の石仏巡りは戦意消失。グショグショに濡れた画仙紙を丸めて車の中へ放り投げ、「今日の石仏巡りはヤ~メタ!」となる。まだ時計は10時少し過ぎだが、車の中でコーヒーを飲んでからそのまま帰宅してしまった。そんな訳で、今回は全くの空振りに終わった鹿沼市の石仏巡りでした。
写真は、その午後に裏庭に咲き出した百日草の中の雑草草むしりを終えてから撮影しました。今年も、我が家の夏の庭を演出してくれる百日草。そしてこの花のそれぞれが微妙に色違いとなって咲くのに魅せられている。
それにしても暑い。今日などは、パソコンから出る熱だけで熱中症になるくらいである。今週末の石仏巡りは、この暑さの中では行きたくないと早くも戦意消失である。そこで、部屋の環境を整えるべく今日の午後一番で、扇風機を買ってきてパソコンのそばに置いた。そして今年も、クーラーは全く使用しないでこの夏を乗り切ろうと思っている。はたしてどこまで我慢できるやら!
先週14日の土曜日に、相変わらず栃木県鹿沼市の石仏巡りに出かけました。それにしても、いや~あ蒸し暑かったですね。朝から汗びっしょりに加えて、自分の汗臭さに参った一日でした。今回は、最初に寺町の雲龍寺へ行って「淇水舟越君墓」の手拓を行いました。これは、鈴木石橋塾「麗澤之舎」二代目の鈴木之綱が撰文と揮毫したものです。建立されたのが文政六年ということもあって、刻字のあちこちに傷等があって解読に頭を悩ますことでしょう。それにしても、こうした墓碑銘は鹿沼市に限らずそのほとんどは50年前に読まれただけでその後は誰も精査をしていない。したがって、相変わらずその当時に調査された碑文だけが一人歩きして、今回にしてもその手写間違いがたくさん見つかった。それだけにまたしても、私でなければ出来ない精査がこの鹿沼市でもやらなければならないのかと、少し気が重くなる。それでも、今回の雲龍寺さんのように、その認識があって非常に協力的なことに感謝しつつ、この暑さにも関わらず手拓が出来る喜びで夢中になって、三面の拓本を取ることが出来た。今日は、手拓作業はここで終わりとし、それからは鹿沼市街地の石仏巡りとする。そして午後から向かったのが、千手町にある千手観音堂。とにかくここにはたくさんの興味ある(私にとってはだが…)碑塔がある。最初に調査したのは、もちろん近世の宝篋印塔にある宝篋印陀羅尼経文の手写。そこには、暫くぶりに出会った恐ろしいほどの偈文が刻まれている。こういうのに出会うとつい嬉しくなって、蒸し暑さも忘れて熱中することが出来ました。その他、読誦塔に始まり十九夜塔や興味ある文字塔等など、気が付けば遊園地が営業終了となる4時になっていた。まだまだ、調査したい碑塔もあるが、写真を撮るにもいつしか曇り空となって三脚なしではカメラブレになってしまう程である。次回には、手拓したい碑塔もあるのでその後は4時半まで当該碑塔の水洗いをしてから、本日の調査を終了して帰宅する。
ここへ掲載した写真は、そんな中の十九夜念佛塔主尊の如意輪観音様の姿。なんとなく、私好みの表情をしていたので、台座を含めた全体像ではなく、本尊様だけを本日最後に撮影して車に戻りました。
そんな訳で、次回はこの千手観音堂からの石仏巡り開始となります。嗚呼、それにしてもこれからの暑さ対策を考える時が来たようだ。一層のこと、今夏は石仏巡りをせずに部屋に閉じこもり、これまでの調査内容を纏めたりしようかと、弱気になっている。
で
7月8日も、相変わらず栃木県鹿沼市の石仏巡りに出かけましたが、最初に行った三幸町の浅間神社には狛犬さえなく朝からハズレ。どうせ来たならと、その山頂まで行ったが、あったのは私にとっては興味外の皇族が来たという記念碑。それでも、山頂からの鹿沼市街地展望はすばらしく、しばらく眺めていました。その後は、麓にある日蓮宗徳蔵寺へ行く。日蓮宗寺院だけに石仏はあてにせず、ヒゲ題目の立派なものでもあるかと期待すれば、それに応えるように門前に立派なヒゲ題目塔がありました。また、境内には顔が剥離しているが鍾馗様の丸彫り像があり、これには思わずニンンマリ!
そして少し北へ行き、本日最初の寺院訪問となる曹洞宗光太寺さんへ到着。対応に出られましたお母さんがすばらしい人で、前回のような同じ曹洞宗の瑞光寺さんとは雲泥の差。「今日は、お寺さん巡りに出かけて本当に良かった」と、心から思いました。許可を得て、早速に境内の六地蔵や十九夜さんを調査し、墓域に向かうと、そこには何とも酷い汚れようだが、大きく刻まれている主銘文が刻まれているのがわかる。加えて、そのある場所がまたひどい所で、お得意の泥落しさえ今回は止めようかとも思ったが、それにしても立派な自然石で、主銘文の脇にも何か文字がある。そうなるとどうしても気になり、また庫裏に戻ってお母さんに碑の掃除許可を頂いて、相変わらずのカメノコを手に掃除開始。すると、最初に出てきたのは「文翼先生墓」。思わずわが目を疑う。「文翼先生」とあらば、それは鈴木石橋塾で、蒲生君平と並び称された石橋塾双頭の一人で、蒲生君平さえ尊敬したという宇都宮出自の人である。その、蒲生君平を語るに欠かせない「島 文翼」先生の墓がなぜここにあり、しかもこれまで何十年も誰も注目しなかったのだろうかが不思議になり、急いでまたしても庫裏に取って返す。今度は、お嫁さんが外出から帰られていてお母さんと一緒に対応に出られ、「それは私たちも初めて知った事実」と驚いている。私にしても、これがもう少し早く調べられたら「宇都宮市の碑」調査報告書にぜひ加えたかった人物の一人と、悔しがる。いずれにしても、お寺さんがいうには今まで誰も、それに気づいた人も、問い合わせや調査に来た人もいないと言う。「全く、こんなお宝を、鹿沼史談会の人達は何をやっていたのか」と、呆れる。それからは、水場と現場を往復して本気になって水洗い。それにしてもその汚れは酷く、ネバネバした泥となっていて、それを拭き落とすのに思いもよらない時間を費やした。もちろんその後はしっかりと手拓し、ついでにお嫁さん(またこのお嫁さんが素敵な方で、この光太寺の将来は希望に満ちるだろうと、本気で思う人である)に、ぜひ本堂の近くに移動し、皆様に関心を持っていただきたいとお願いする。何しろ、鹿沼の宝である鈴木石橋先生を語るには欠かせない蒲生君平と対の一人なのだから。そんな、現状での写真が上に掲載したものである。なお、その詳細はいつもの石仏巡り報告の方へ掲載する予定である。その他、隣に倒れている「栗原昌山先生之墓」も、ついでに手拓する。そんなこんなで、結局は光太寺さんに午後2時半までお邪魔してしまうことになり、昼食はその後に駐車場をお借りして取る。
本日最後の訪問は、先週にお邪魔した寺町の雲龍寺さん。その折調査した資料をお渡ししながら、ついつい世間話に花が咲き、本当ならまだ調査しなければならない碑塔があるのだが、結局は何もしないまま4時半までお邪魔してしまう。今日は、光太寺さんでの手拓作業で疲れたとは言え、雲龍寺さんでも手拓しなければならないのに世間話だけでお寺さんを後にして帰宅するとは、何とも忸怩たる思いである。次回からは、老体に鞭打ってもう少し本気になって調査しようと反省する。
ここのところ、このブログに掲載した写真が狛犬ばかりになっていますが、それは偶然の重なりです。本当は、他の写真を掲載したかったのですが、生憎と逆光だったので良い写真が撮れなかっただけです。さてその狛犬、これは鹿沼市加園地区の鎮守様である八幡神社にあるものです。もっとも、あるといっても今はその役目を終えて本殿裏の藪の所においてあるだけなのですが…。それでも、今の本殿前に置かれている狛犬よりも像容的にその何倍も素敵な狛犬さんです。右側の一頭だけ写っている狛犬さんも、その表情が何ともいえなく良いですね。もう一頭の相棒は、更に酷い樹木の影に隠れていて写真に撮れないのが残念。
今回の鹿沼市石仏巡りは、朝の8時半から市街地のお寺さんを皮切りに開始です。その詳細は、既に別ホームページの「石仏巡り報告」の方へ掲載してありますから、ここで細かいことは述べませんが、それにしても色々あった一日でした。特に最後に訪れた雲龍寺さんでは、初めてその存在を知った「適所浦上翁」の墓碑。幕末に鹿沼で私塾を開いて二百余名の門弟を育てた先生のものです。しかし、碑文本体を手拓途中で雨が降り出し、やむなく中止。また同寺さんで、私にとっては丁度60基目となる妙哲行者碑や、四十八夜塔(栃木県内で三番目の出現塔)にも出会いました。当寺は、石橋氏の菩提寺とのことなので、墓地内にはまだまだお宝が埋もれていることでしょう。次回の再訪が楽しみです。
いや~あ、それにしても急に暑くなりました。石仏巡りも、この頃では身体に堪える歳になりました。今年の夏は、サボりながらの石仏巡りにしようと、早くも根を上げています。そして多分明日からの土・日曜のいずれかは、相変わらず鹿沼市へ入っていることでしょう。天気と気分が良ければですが…。
※これから述べる文章は、2012年7月1日の石仏巡りで掲載した内容に、ようやく強烈なコメントが寄せられましたので、今日2013年6月21日に、お寺さんの名前を削除して再編集したものです。
昨日7月1日は、先週に引き続いての石仏巡りでした。いや~あ、それにしてもその途中で、石仏巡りにおいて何年ぶりかの「イヤ~な出来事に遭遇しました」。
それは、いつものように、石仏を見る前にご挨拶に伺うと、インターホン越しに出られて「何ですか、何の用ですか」と初めから喧嘩腰。「お忙しいところ申し訳ありませんが、境内にある石仏を拝見させて戴きたくご挨拶に伺いました」と云うと、「結構です(この場合の結構は拒否の結構と後で判る)」と言う。その気になって引き下がろうとすると、「見せなくてはいけないのですか。一切、お断りいたします」。「エッ? 石仏を見てはいけないのですか」。「そうです。今は法事の真っ最中で忙しいのです」(この時点で、境内には法事に来ているような車は駐車してなく、本堂からもそれらしき声が漏れ聞こえないのだが、まして石仏を見るに法事とは全く関係ないと思うのだが、まあいいか!)。「いいえ、アノ、門の所に並んでいる石仏ですが…」。「イイエ、とにかく、見せません。一切お断りします」の一点張り。思わず、「あなたは、石仏がなんだか知らないのでしょう」と、揶揄して諦める。
それにしても驚いた。境内の、それも門の所に並んでいる石仏を見せませんとは!。
勿論、「石仏を見せません」と云われた以上は、当方としても見たくもない。
「だから、云っただろう」。帰宅してこのことを友人に話と、「あんたは馬鹿丁寧に、石仏を見るだけで挨拶に行って厭な目に遭う」と、笑っている。「お寺の石仏を見るに、俺なんか一度も断ったことなどないよ」、とも。それでも私は、これからもお寺さん境内にある石仏を見るには、まず「ご挨拶」をし、本堂にて本尊様に手を合わせてから見ることにする。それで断られれば、確かにその日は一日中気が重くなるが、それもまた思い出として残し、そう言うことも世の中にはあるものだと、数年に一度のイヤ~な自分に対する戒めだと思いつつ…。
お寺さんから言質発言を期待してたが、ようやく先日(2013年6月19日~)からコメントが何通も寄せられた。
さて、本来の石仏巡り記は明日にでも掲載しようと思っている。何しろ今回も、私にとってはここへ記した厭な話し以上に興味ある楽しい石仏達に出会えたので。