世の中は、大型連休ということで騒いでいますが、私には全く関係ないことでいつもの通りの一週間です。さて、連休中は道路も混むだろうと考え、3月に行ったまま放置していた国分寺町(現・下野市)の石仏巡りに行きました。もっともそのうちのほとんどは2001年に調査済みの物ですが、今回は関東大地震の供養塔の手拓が欲しいのと、ここの所さっぱり出会えなかった宝篋印塔調査に加えて、国分寺町で唯一の几号水準点の再調査を目的としました。
最初に、十九夜塔の側面に追刻された関東大震災の供養文を手拓すべく、隣の農家の方に了解を得ながら雑談をしていると、そこから斜め前のお宅には敷地内に庚申塔があると言う。早速チャイムを鳴らすとご主人が出られて、どうぞ見てくださいと招き入れられて、元文庚申年十月当り日に奉納された合掌型青面金剛像とのご対面となる。
その後にまた元に戻って商売道具?を広げて手拓開始。この季節は、手拓に最高の条件がそろっているので、鼻歌交じりで一丁上がり。これで、栃木県内の関東大震災碑は2基の手拓が手に入ったことになる。周辺の碑塔巡りをしていると、あっと言う間にお昼近くになる。少しばかり遊びすぎた、といっても途中で今まで気づかなかった「雨引山」塔を見つけて一人ニンマリである。二つ目の目的である、上町薬師堂へ急いで几号水準点のみ手拓する。しかしその前に、少なからず土に埋もれている箇所を掘り起こさなければならない。そして水洗いに乾燥と、意外と時間が掛かってしまい、仕方なくここで合間を見つけての昼食とする。
それにしても今日は暑い。少しばかり疲れが溜まっているようなので、午後の部は宝篋印塔調査から始めて、その後は成り行き任せにしよう、と一人計画である。
宝篋印塔は、共同墓地内を探せば意外と簡単に見つかり、暫くぶりに陀羅尼経文とニラメッコになるが、それほど難解な箇所ではないので、軽くこれも一丁上がりとなる。気分を良くして、通りがかりの墓地を覗くと、そこの個人墓地内にも立派な宝篋印塔がある。しかもその正面には、光明真言破地獄曼荼羅の方の梵字真言が刻まれている。これには、思いもかけないご褒美となる。
その後は、川中子地区の碑塔再調査と言うよりも写真撮影を主な目的として、馬頭観音堂と成就院へ行って、20余基を見てから帰宅する。
それにしても、今日は何となく暑さ疲れである。帰宅したら、まずはシャワーを浴びたい気分となって夕方5時前には自宅に着いてしまった。残りの連休中は、畑仕事などをしてのんびり過ごすことにしよう。