石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

今年も

2010年05月27日 | Weblog
 先週金曜日の朝21日、いつものように早朝の時間を利用して畑仕事をしていたら、突然のギックリ腰に見舞われました。動けないので、翌日の石仏巡りは当然ながら中止のやむなきに至りました。毎度の事ながら、ギックリ腰ではどうしようもなく只おとなしくしているだけでした。それでも今朝から少し動けるようになったので、仕事前の時間を庭の植木手入れをしました。特に、我が家の前にある庚申塔が夏草に覆われ出しましたので草刈をし、姿が見えるようにしました。植木の手入れは、樹木3本だけで時間切れ。腰も少しうずき出したので、ここで中止です。何しろ、今度の週末は必ず石仏巡りに行きたいので、再発だけは避けるためです。
 そんな、私の爆弾を抱えた腰。も少し大切に扱おうと思っているのですが…。無事に石仏巡りに出かけられるよう、今日明日と大切にしようと思っています。
 そんな訳で、先週は暫くぶりにブログを書けませんでした。皆様も、御身大切に!
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2010年5月15日は栃木県栃木市都賀町の石仏巡りでした

2010年05月17日 | Weblog

 初夏の匂いのするこの日は、暫くぶりに都賀町(現・栃木市)の石仏巡りに出かけました。過去にその70%以上は調査してあるのですが、この際一気に残りを片付けてしまおうと言う魂胆です。したがって、そのほとんどは過去に実見済みですが、まあそれも良かろうと、今回はのんびり丁寧に碑と向かい合うことにしました。そのため、これまでは見ていても記録を取らなかった長文の石文を、根気で何基も丁寧に記録することが出来ました。それらの銘文を読みながら、つくづくとこんな気長な石仏巡りも良いものだと感じました。
 そして今回ここへ掲載しました写真、それは「光明真言破地獄曼荼羅」というもので、蓮の陽刻と共にその代表的なものとして残しておきたいようなものです。しかしいかんせん、碑面が傷みすぎています。加えてつたない手拓作業能力では、さらに質が落ちてしまいます。それでも、やっとこの梵字真言塔として理想的な姿だけは残すことが出来ました。そんな訳で、今回も収穫の多い石仏巡りとなりました。次回も当然、この都賀町への石仏巡りとなります。
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5月8日は、国分寺町の最終石仏巡りでした

2010年05月09日 | Weblog

 連休明けの昨日土曜日は、栃木県国分寺町(現・下野市)の最終石仏巡りに行きました。石仏調査は順調に進み、午後過ぎには一通り終わってしまいました。もっとも、昼食も取らずに頑張りましたから。そうそう、暫くぶりに国分寺町唯一の延宝庚申塔を見に行きましたが、今までの場所(野口氏宅)は無住になっていて、肝心の庚申塔がありませんでした。少々焦り、隣の家で尋ねましたところ、すぐ近く(公園の南側)に引越ししたことが分かり一安心です。早速訪ねてみると、今度は自宅庭の中の一番良いところに馬頭観音と共に大切に祀られていました。北向きになってしまいましたが写真も問題なく撮れます。もちろん、喜んで写真も撮らせてもらえますので、今までと何ら問題ありません。家が、6メートルほど移動したと言うところです。
 さて、たったの三度だけで国分寺町の石仏巡りを終了としますが、それは単に石造物の数が少ないからでして、決してサボって調査したからではありません。と言いつつ、個人で個人宅内に祀った家畜塔は、そのほとんどが未調査ですが…。それでも、こんなに簡単に終了してしまったのは、以前に一通り調査していたからということでその銘文再確認と、碑塔所在地の場所探しに苦労しなかったことが最大の要因です。そして悩むのは、次回からどこの地区へ入るかの問題です。多分このまま、目的地なしのそのとき限りの気分次第と言う石仏巡りになるのでしょうね。
 掲載した写真は、国分寺町の慈眼寺さんのずらりと並んでいる碑塔群風景です。
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5月1日は栃木県国分寺町の石仏巡りです

2010年05月03日 | Weblog


世の中は、大型連休ということで騒いでいますが、私には全く関係ないことでいつもの通りの一週間です。さて、連休中は道路も混むだろうと考え、3月に行ったまま放置していた国分寺町(現・下野市)の石仏巡りに行きました。もっともそのうちのほとんどは2001年に調査済みの物ですが、今回は関東大地震の供養塔の手拓が欲しいのと、ここの所さっぱり出会えなかった宝篋印塔調査に加えて、国分寺町で唯一の几号水準点の再調査を目的としました。
 最初に、十九夜塔の側面に追刻された関東大震災の供養文を手拓すべく、隣の農家の方に了解を得ながら雑談をしていると、そこから斜め前のお宅には敷地内に庚申塔があると言う。早速チャイムを鳴らすとご主人が出られて、どうぞ見てくださいと招き入れられて、元文庚申年十月当り日に奉納された合掌型青面金剛像とのご対面となる。
 その後にまた元に戻って商売道具?を広げて手拓開始。この季節は、手拓に最高の条件がそろっているので、鼻歌交じりで一丁上がり。これで、栃木県内の関東大震災碑は2基の手拓が手に入ったことになる。周辺の碑塔巡りをしていると、あっと言う間にお昼近くになる。少しばかり遊びすぎた、といっても途中で今まで気づかなかった「雨引山」塔を見つけて一人ニンマリである。二つ目の目的である、上町薬師堂へ急いで几号水準点のみ手拓する。しかしその前に、少なからず土に埋もれている箇所を掘り起こさなければならない。そして水洗いに乾燥と、意外と時間が掛かってしまい、仕方なくここで合間を見つけての昼食とする。
 それにしても今日は暑い。少しばかり疲れが溜まっているようなので、午後の部は宝篋印塔調査から始めて、その後は成り行き任せにしよう、と一人計画である。
 宝篋印塔は、共同墓地内を探せば意外と簡単に見つかり、暫くぶりに陀羅尼経文とニラメッコになるが、それほど難解な箇所ではないので、軽くこれも一丁上がりとなる。気分を良くして、通りがかりの墓地を覗くと、そこの個人墓地内にも立派な宝篋印塔がある。しかもその正面には、光明真言破地獄曼荼羅の方の梵字真言が刻まれている。これには、思いもかけないご褒美となる。
 その後は、川中子地区の碑塔再調査と言うよりも写真撮影を主な目的として、馬頭観音堂と成就院へ行って、20余基を見てから帰宅する。
 それにしても、今日は何となく暑さ疲れである。帰宅したら、まずはシャワーを浴びたい気分となって夕方5時前には自宅に着いてしまった。残りの連休中は、畑仕事などをしてのんびり過ごすことにしよう。
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