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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2011年11月27日は、宇都宮市郊外の石仏巡りでした

2011年11月28日 | Weblog


 今回は、宇都宮市桑島地区の石仏巡りとなりました。鬼怒川沿いなので、川風が冷たいかと準備万端よろしく出かけましたが、シャツの上にセーター一枚で一日中過ごすことが出来ました。それでも流石に、早朝からの手拓は無理なので、以前の調査で確認しながら未調査だった内道沿いの碑塔をまずは手始めにと調査しました。そしてその中に、上記に掲載した「馬歴神」という家畜塔と出会いました。この「馬歴神」或いは「馬櫪神」という文字塔は、栃木県では意外と少ない家畜塔で、私が実見したのはこれで県内十三基目という有様です。ちなみに宇都宮市では初めての確認となりました。別HPに掲載してある「馬歴神」の項目も、数年前に今市市で新たな当該碑を確認しながら放置してありましたので、今年の暮れにでも最新情報に更新しようと思っています。寒い中でも出かければ、こうして何かしらの新しい碑塔と出会えるのですから嬉しい限りです。それと今回は、碑調査で親しくなった桑島の山口氏宅へ寄り、ついつい雑談を一時間以上もお茶を飲みながら話し込んでしまいました。これも、石仏巡りの餘慶かとそれはそれで楽しい時間を過ごしました。
 その一方、手拓の方は少しも稼げずに、金剛定寺さんで二基の碑を調査手拓しただけに終わってしまいました。まあそれでも、新たな1基(もう1基は過去に調査済み)の収穫があったので、本来の碑(いしぶみ)調査の方も満足と致しましょう。


 さて一方で、これは栃木県内の「狛犬」調査をしている山口氏への連絡画像です。なにしろ、後で知らせようと思っていると忘れてしまう性質ですので。この狛犬は、上桑島の金剛定寺さんの境内にあります。昭和七年の奉納で個人での奉納です。狛犬調査では、まずもってお寺さんを訪ねることは少ない山口さんへの今月のプレゼントです。特に、吽形(掲載画像)の方の子獅子は珍しく2匹がいました。
 来週からは、愈々年末に入りますね。多分次回も、今回と同じ桑島地区へ入ることになるでしょう。それは、探している碑(いしぶみ)が今回も見出すことが出来なかったからと、手拓しなければならない碑が残っているからです。まあ、今年も残り少なくなったが焦らずに悠長に構えての石仏巡りと致しましょう。

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2010年11月22日は、仕事途中での石仏巡り

2011年11月23日 | Weblog


 昨日22日は、栃木県烏山町(現在は那須烏山市)へ仕事で出かけるついでに、烏山郷土資料館敷地内にある石造物を調査しに行きました。特にその中でも、ここへ掲載した「弐拾三夜供養塔」は、ぜひ手拓が欲しかったもの。そうそう、その本体は自然石で高さ122cmばかりのものです。
内容は、当地金井町の人々が毎月行っていた二十三夜の月の出の光を拝す二十三夜講を行っていたので、その供養塔を建立をすることになった。併せてその下部に道標文字を記したので旅の人々の安堵も兼ねたとある。
 栃木県内でも二十三夜塔は沢山あるが、このようなその当該塔建立の趣旨まで記されているのは非常に珍しい。しかも、年代的に享和三年という江戸中期なのも嬉しいものである。
 さて次は、栃木県で初めて確認できた石造物に「自恣日」と、その紀年銘の一部として記されている珍しいものである。

 上の写真に見るように、「南無阿弥陀佛」と大きくきざまれている名号である。この段階では、ありふれた名号塔として「まあ、ついでに記録だけは取っておこう」と、記録簿に記入し、次いでその紀年銘に移って「寶永五戊犬天」と右側を記入し、半分の左側へ目をやって一瞬固まってしまった。それは、そこに滅多なことでは出会えない「七月自恣日」とあったからだ。つまり、七月の自恣日だから「十五日」のことであり、それは夏安居(げあんご)の最終日の紀年銘となっていたのである。「いや~あ、これだから石仏巡りは面白い」となるわけで、仕事ついでの石仏巡りが思わぬ大収穫となった一日でした。
 そんなこんなで、今回はここ一箇所での石仏巡りとなってしまいましたが、来月後半にもまた烏山町へ行くことになるので、今回は時間の関係で巡れなかった面白い物をご紹介したいと思っている。

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2011年11月20日は、また宇都宮市街地の碑調査でした。

2011年11月22日 | Weblog


 今回で、大方の宇都宮市街地の碑(いしぶみ)調査は終了にしようと、これまでに残っていたお寺さん墓地を訪ねて出かけました。最初に新町の台陽寺、ここに堀貞道(宇都宮藩を脱藩して水戸の武田耕雲斎のもとで戦った宇都宮九志士の一人で水戸の長岡村で捕らえられて斬られた。時に21歳)の墓碑があり、そこに碑文が記されていた。その撰文者は、当時の宇都宮では第一級の漢学者とされた圓山信庸であり、氏の撰文碑を初めてここで見る。また、篆額と書は、これまた一流の書家とされた關貞良である。嬉しくなり、ここで予定外の手拓をすることになり、後で画仙紙が不足して困ることになる。
 さて、そして上に掲載したのは、今年の春に調査した縣六石の大きな碑に記されている和歌で、福羽美静の書になるものである。手拓するには脚立が必要で、その時は諦めたが、こうして半年もするとまたしてもどうしてっも欲しくなり、再びやって来てどうやって手拓するかその碑の前で思案する。そして社務所に出向いて、手拓許可願いのついでに脚立拝借を申し出ると喜んで貸してくれるという。喜び勇んで脚立を担ぎ社の中の敷地に入って、早速水張りを開始した。ただ、今回もママチャリなので持参したのは半切の画仙紙のみ。それを三枚連ねて水張りしたが、最初の出だしに大きな皺が入ってしまった。本来なら、やり直しだが、今日は他にも手拓する予定の碑がある。それを考えると画仙紙が足りなくなってしまうので、仕方なしにそのまま墨入れしてしまった。それでも、まあ帰宅してからパソコンに取り込むときに修正すれば良いと、変な納得でしまいこみ、今日の大きな収穫に自然と笑みがこぼれる。(ここへ掲載した画像は、パソコンで適当に編集したものです)念の為!
 その他、これまでに調査した碑の再確認やら資料を渡さなければならない寺院巡りで忙しくして、今日も昼食を取ったのは午後も2時を過ぎてしまっていた。それでも、まだまだ手拓をしなければならない碑が沢山あり、次回はしっかりと画仙紙を用意してこようと、今度はお店に行って画仙紙購入となる。しかし、考えてみればこれからは寒さ厳しい冬の陽気。水張りした瞬間にその水が凍りつく季節なので、そんなには手拓出来る季節ではなさそうだと、自転車で持ち帰るには何とも不便な用紙を抱えて、帰りもあちこちの部分的な手拓を繰り返しながら帰宅する。
 次回は、多分宇都宮市郊外の落穂拾いと言うべきか、いままでに見つかっていない碑の探索に行こうと思っている。

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2011年11月13日は、栃木県塩谷町と矢板市の石仏巡りでした

2011年11月16日 | Weblog

 今回は、午後から栃木県さくら市(旧氏家町)の荒井寛方記念館(タゴール生誕150周年記念展を開催中)にて、タゴール関係の方々と会う為に出かけることにしたので、今回はその前に今まで行こうと思いつつもなかなか行けずにいた塩谷町の「二荒山」碑=戸田香園揮毫碑と矢板市の倉掛にある山の中の記念碑の手拓をしようと、いつもの朝とは違って早朝に家を出る。しかし、昨夜までの雨のために宇都宮郊外へ進むに従って先が全く見えないような濃い霧となって、車の速度は自転車並になってしまう。これには困ったが、さりとて無謀運転も出来ずにジィ~と我慢比べの運転のままに進んでようやく朝日とともにその霧も晴れてくる。そして目的地の塩谷町大久保地区の星宮神社へ辿り付き、ヤレヤレと言った面持ちで調査開始。といっても、既にこの山岳碑は1994年に調査済みのために写真撮影が主目的となる。その後は、早朝の深い霧が嘘のようにあがり真っ青な快晴空、気分を良くしてこれから向かう矢板市までの途中の石仏見学とする。それらも当然ながら1990年代に調査済みとはいえ、それから随分と時間も立っているので改めての見学であるが、その場へ立てばその当時の調査のことが思い出されるので、まだまだ記憶は衰えていないようだと、一人で苦笑する。掲載した写真は、そんな塩谷町のメイン道路沿いにある「男体山」や「象頭山」碑などが並んでいる風景である。
 時計が10時を過ぎたので道草を止め、本日の主目的である倉掛へ向かう。そして、車を林道の入り口へ無理やり止め、長靴に履き替えてから準備万端整えて山の中へと入る。実はその山道、私は過去に(これも随分前の話だが)来ているので鼻歌交じりで入れるが、初めての人にとってはどこから入れば良いのか大いに悩む場所である。
 約15分くらいで倉掛峠(といっても、今は名前だけで実際は山の持ち主が時折使用するだけの山道)へ到着。早速、碑面をいつものように磨いてから画仙紙を水張りするが、昨夜来の雨で碑面は水分をタップリと含んでいる。この分では、墨入れ出来るまでの状態になるには大変な待ち時間となると考え、出来る限り水分を用いないで水張りをした。それでも、山の中はまだ霧が残っていて陽が差して来ないので、乾いた手拭で何度も水分を取り去るも石の中から染みてくる水分で一向に墨入れが出来ない。仕方なしと持久戦に持ち込み、誰一人として通らない山の中での大休止を取る。そして何とか墨入れが出来るようになったのは、お昼を知らせるうるさいサイレンが止まってからのことだった。何しろ今回のこの碑(いしぶみ)は、江戸幕末の豪商であった佐野屋孝兵衛の三代目である菊地教中の書である「倉掛村新路記」。宇都宮藩との繋がりが強かったとはいえ、菊地教中の手になる揮毫碑は数が少ないので、私にとってはぜひともその拓本が欲しかった次第である。また、その内容にしても全文を正しく最後まで記した書籍類もないので(といいながらなぜか市の文化財に指定されている面白さ)ゆえに、その内容もこの機会に知りたかった。
 こうして墨入れも終わり、早く車に戻って昼食しようとあせり、碑面から剥がす時に上部が切れてしまった。嗚呼、またやってしまったと、後悔するのは毎度のことながら、手にしてみると画仙紙は重さが実感出来るほどの水分タップリ。今度は持ち帰るのに悩んで、新聞紙を広げてその上に置き、そのまま両手で持って帰ることにする。何ともこっけいな姿だが、それだけの価値ある拓本だと、自分ではようやくにして手に入れた手拓だけに心はウキウキであった。以下、その画像などは別HPの石仏巡り記の方へ掲載予定です。

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本日11月5日は宇都宮市郊外の石仏巡りでした。

2011年11月05日 | Weblog

 
 今日は、宇都宮市新里町の鞍掛峠に行きました。目的は、戦後まもなく開通した鞍掛峠の開鑿記念碑を調査するためです。道々、今年査最後のムカゴ摘みも目的の一つとして、のんびり歩くことにして車は釣り池の駐車場に置きました。暑くも寒くもない陽気の中、周囲の山々を眺めながら坂道を登りつつ、目は道路沿いのムカゴを探して…。目的とする碑(いしぶみ)は、峠直下の道沿いに建っていました。しかし、その下部は雑草に覆われていて写真も撮れない。」こんなこともあろうと、選定鋏を持参したので、先ずはそれらの邪魔になる下草刈り。そして一休み後、森閑とした森の中での手写作業。意外と文字数が多く、約一時間の立ち作業でしたが、腰も悲鳴をあげずに無事に終了。本日の目標とするのはこれだけなので、くだりものんびり景色を堪能しながら、ムカゴを摘みながら駐車場まで戻りました。ここで、今度はコーヒーを入れて大休止。
 このまま帰路に着くには早すぎるので、これまでに碑塔を確認しながら立ち寄っていないものを調査しながら帰路に着くことにする。これで今夜は、過日頂いた新米でのムカゴご飯を食べることが出来ると。
 そんな帰路中で見つけたのが、上記に掲載した昭和55年庚申塔。何と言うことだろう。こんな所で昭和庚申塔に出会うとは!。それは、これまでに何度となくその所在を見ていながら単に止まって調査しなかったまで。これでまた、新しい昭和庚申塔に出会うとは!いかに、自分の調査の好い加減さに呆れてしまった。
 さて、そんな帰路途中で今度は共同墓地に立ち寄る。その墓地も、三月の大地震で大きな被害を受けていて、写真に見るこの宝篋印塔にしても軸部から上は転げ落ちている。写真は、私の持ち上げられる範囲の上請花台と塔身を設置して写真に撮ったもの。その軸部には、宇都宮で二基目となる宝篋印陀羅尼経からの梵寺陀羅尼経が三面に渡って刻まれていた。喜び勇んで、早速手拓作業に入ったのは言うまでもない。宇都宮市内の近世宝篋印塔も、まもなく纏め作業に入る直前にこんな嬉しい事はないと、本日の石仏巡りはここで終わりとしてルンルン気分で午後3時で帰宅した。
 来週はまたしても、宇都宮市街地の最終的な碑(いしぶみ)調査に入ろうと思っている。先週に調査した碑の、再確認が必要なものが出てきたから…。

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