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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2007年11月24日も日光方面の石仏巡り

2007年11月24日 | Weblog
 今日、2007年11月24日(土)は、正に小春日和。それなのに、またしても最初に日光市小来川へ行きました。目的は、撮ったつもりで忘れた庚申塔写真2基の撮影です。8時半頃には、その撮影も終えてしまいました。これで、小来川地区の全庚申塔の写真が揃いましたので、今度はゆっくりと小来川地区の庚申塔まとめが出来そうです。その後の予定は、日光地方の庚申塔落ち穂拾いに入りましたが、途中の東小来川新谷地区を通過中に、天王様の境内が余りにも朝日を浴びて温かそうなので、ついつい用もないのに立ち寄り、朝方の冷えた身体を暖めたりしてのんびりしました。それでも時間はまだ9時前。日光地区の庚申塔落ち穂拾いと言っても、特段に目的地があってのことではないので、まずは和泉地区を一回りすることにして、途中の庚申塚で昭和55年庚申塔をゲットする。これで、日光地区の昭和55年塔は都合26基になった。
 日光街道へ出てみると、もの凄い渋滞となっている。日光の紅葉は既に終わっているのに、県外のナンバープレート車や観光バスは一体何を目的に日光へ向かっているんだろうと思う。まあ、紅葉狩りと題目を唱えて所詮は食べに行くのだろうが、それにしても何処まで行くのだろう。その渋滞の中の一人となって、焦らずのんびり日光市役所まで行って、車を置く。今日は歩くのが一番、と考えてザックを背負い、町中を目的もなくふらつくも新しい庚申塔は1基も見つからず。えいままよ、と鳴虫山の山中にある庚申塔を暫くぶりに訪ねることにして、山登りに目的変更。一歩一歩落ち葉を踏みながら登る山道は楽しく、そのまま山頂まで行きたくなったが、その山道を歩いている途中で突然考えたのが、まだ登ったことのない大黒山。次は、そこへ登ろうと考えて、鳴虫山登山道沿いの山の中にある大きな庚申塔を調査し、ついでだからと一応は天王山まで行ってから下山する。ここで12時。昼食は、一旦市役所の車まで戻って、裏の薬師堂で食べることにする。昼食後はいつもならのんびりタイムだが、流石にこの時期となると何もしていないと寒い。そこで、まだ調査していない苔の付いた四角柱を掃除してみると、それが元禄年間の庚申塔だったのに一人で大笑いする。どうやらこれで、この地の薬師堂の庚申塔調査も全て終わったことになる。
 大黒山は、日光金谷ホテルの敷地を通り抜けて登らなければならない。一応、係員にお断りしてから登り、山頂まで周囲の景色を眺めながらのんびり歩く。そして山頂で大休憩。念のために山頂から少し下ってみると、そこに明和年間の文字庚申塔が建っていた。こんな山の中に誰が祀ったのか、マッタク日光の庚申塔探しは厄介である。それでも、今日初めて目にする新しい庚申塔に”してヤッタリ”である。
 下山したものの、時計はまだ2時。しかし道路は相変わらずの大渋滞となっているので、これ以上は先へ進むのを諦めて駐車場へ戻り、そのまま早めの帰宅とあいなった。そのため、帰宅したのは午後3時半という有様である。
 そしてその後は一休みした後、夕日を浴びながら田圃道を散歩に出かけ、まだ時間が余っているとこれを書いている。

 いよいよ来週12月1日は、「多摩石仏の会」有志の加地様発案による那須地方の石仏巡りである。ところがまだ、何も用意していない。せめて、案内するコースくらいは考えなければならないと思うが、ホント困ったものである。まあ、個人での石仏巡りだから好い加減で良いかとも思っているが…。それでも頭の中には幾つかの特別に見せてあげたい碑塔があるので、それを中心に組み立てようと思っている。そして何よりも、来週末あたりは天気が悪くなりそうである。那須の地の天気が悪いと、悪くて雪、良くて寒風が吹き荒むことになる。東京方面の石仏巡りとは、全く時限の違う石仏巡りも”また良しかな”というふうにならなければ良いがと、今から心配している。いずれにしても、皆さんと会うのは今年五月以来となるので、再会が楽しみである。みなさ〜ん、黒磯駅でお待ちしていますよ〜。
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2007年11月17日も日光市小来川地区の石仏巡り

2007年11月20日 | Weblog
2007年11月17日(土)も、日光市小来川方面の庚申塔調査に行きました。小来川の調査もいよいよ最終を迎え、今回も再調査の必要な庚申塔と写真撮影が失敗しているものの再撮影が目的でした。最初に、南小来川地区の庚申塚を訪れ、上手く撮れていなかった昭和55年庚申塔を撮影したついでに、前回に良く確認しなかった倒れているかもしれない庚申塔がないか確認をしました。結果としては、新しい庚申塔は見つかりませんでした。
 次に向かったのは、ここ10年は登っていなかった水草沢の愛宕山へ登りました。相変わらずの急な斜面を登って辿り着いた愛宕山山頂は、いつのまにか鬱蒼として茂っていた杉の木が切り倒されていて、気持ちの良い場所となっていました。秋の深まる山頂で、しかも熊の子(?)さえ出てきそうもない山頂に気分を良くして、まだ10時前だというのにコーヒー等を飲んですっかり長居をしてしまいました。
 下山してから、途中途中で写真を撮りながら、1995年に見て以来再調査をしていなかった、東小来川・清合地にある宝暦7年銘拝侍二猿型庚申塔を訪ねました。この庚申塔は、福田氏個人宅の庭先から入る必要があるので訪ね行き、居合わせたおばあちゃんと一緒にお茶をご馳走になっての調査となりました。ここでも、すっかり時間を無駄使いしてしまいましたが、私の石仏巡りはいつもこんなもの。地元の方との語らいを大切にしながら、その間にしっかりと周辺の石造物所在や信仰の話しを聞くことにしているのです。それでも11時過ぎにここを辞して、今度は山久保・柏木地区の庚申塚を訪ねました。ここも、前回に訪ねたばかりですが、今もはっきりと判る庚申塚としての風景を写真に撮ることでした。そんなこんなで、ここを離れたころには12時近くになっていました。
 お昼は、山久保地区から日光市街へと抜ける間道を通って、その途中にある素敵な草地でのんびり取ることにして車を進める。それにしても、朝8時半頃から始めた今日の石仏調査は、愛宕山の庚申塔に関係しない碑塔を含めてもたったの8基である。半日で調べた碑塔の数が8基という数に愕然としながらも、これも今回は仕方がないと一人納得する。 車の外は、日光連山から吹き下ろす強風で寒く、とてもではないがいつものように草地に座り込んでの昼時間とはならない。仕方なく、車の中での昼食となる。ところで、今日の予定はここまでで全て終了してしまった。日光の山の中にいながら、その後の予定が無いでは情けない。午後の部は何処へ行こうか、一人で悩んでいて思い出したのが、今日は多摩石仏の会の例会石仏巡り日。今頃皆さんは、昼食を取るべくその場所へ向かっている頃だろうと、加地さんの携帯へ電話してみる。電話に出た加地さんの話しでは、私の予想通りに昼食を取る場所へまもなく着くところと言う。都会の中の石仏巡りと、かたや早々と山の中の石仏調査を終えてくすぶっている私という、何とも奇妙な石仏巡り者同士の会話である。それでも、本来の目的である12月1日の那須石仏巡りの最終打ち合わせを終えて電話を切る。
 そうだ!。日光の七里地区の地蔵像容庚申塔の写真を撮りに行こう。と、急に思いついて日光街道へと出る。その場所は、狭い日光街道沿いにあるため車が止められないので、途中の空き地へ車を置いて歩いていくことになる。三脚や調査用紙を抱えて車の往来が激しい日光街道を歩き、目的地に到着。早速カメラを三脚にセットして撮影に入るが、お地蔵様が身に付けている赤い頭巾と前垂れをどうするかで悩み、結局はそのままの姿と、裸にしての写真の二通りを撮影する。その右側にある昭和55年庚申塔、こちらもついでだから撮影しようとするが、その前にあるアジサイの枝が前面を覆っていて上手く撮影できない。困っているところに、歩いてくるおばさん二人。早速呼び止めて手を借り、何とか撮影することが出来た。ここまで来たからには、予定外の日光市街地の庚申塔落ち穂拾いをすることにして、いつもの日光市役所へ車をデポ。細い路地を行きつ戻りつしながらの庚申塔探しであったが、どうにか路地奥の民家庭先にデ〜ンと建立されている庚申塔を発見。暫くぶりに、「アッ、見つけっ!」という感動を味わった。こんな所に庚申塔があったとは!、よそ者には、まず見つけることの不可能な場所である。
 この辺で、何となく今日の石仏巡り意欲が消失。時計はまだ3時少し前だが、目的とした小来川地区の庚申塔調査は無事に終了したこともあって(それ以上に、日光の町中は寒い!)、心の内は大満足なのである。帰宅するには早いが、こういう時もあって良いだろうとこれまでの小来川地区庚申塔の整理を楽しみに帰路につく。しかしその夜、小来川地区の調査した庚申塔とその写真の総数が合わない。焦って再確認したところ、中小来川地区の2基の庚申塔写真がないことに気づく。マッタクッ、いつもの私らしいと腹が立つが、自分を責めても仕方がないので、予定では次回から日光を離れて栃木県南部へ目的地を変えようとしていたのを取りやめ、次回もそのたった2基の写真撮影のために小来川へ行くことにしよう。そしてついでだから、庚申信仰の「マルメ」についての情報や聞き取り調査をもう少ししてこようと思っている。
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2007年11月11日も日光市小来川方面の石仏巡りです

2007年11月12日 | Weblog
2007年11月10日の土曜日は、どこにも出かけられない終日の雨でした。その雨を幸いと、暫くぶりに終日をパソコンの前に座って日光の庚申塔の整理をしました。お陰で、江戸前期までの日光庚申塔を小冊子にまとめ上げることが出来ました。60基程の数ですが、それを画像編集したり石文を打ち込んだりしていたので、流石に夕方には疲れてしまいましたが、これで整理としての一応の一覧資料が作成できたと一安心です。印刷はまだ一部しかしていないので、取りあえずは野田市在住の戸向氏にお送りしようと思っています。これをご覧の、石友の方でご希望の方はご連絡下さい。お送りしますので。

そして2007年11月11日の日曜日は、朝から雨が降っているもののどうせ昼間にはその雨も上がるだろうと勝手に判断し、日光市小来川方面へ出かけました。今回は、再調査を兼ねてとはいえ、その本心はまだ聞き込み調査の終えていない地区坪へ入って、庚申塚を見つけることにありました。その甲斐があって、二箇所で初めての庚申塚を確認できました。そこには、まだどこにも発表されていない昭和五十五年庚申塔があり、雨降る山中で思わずバンザイです。それにしてもその二箇所の場所は酷いところで、まず県外の人では探すことは不可能な場所にあります。そんな山の中で、携帯電話が鳴りました。掲示されている電話番号は登録されていないので、誰だか判らない番号。いずれにせよ、電波が弱いので後でかけ直すことにして、庚申塔調査に没頭。三脚を車から持ってこなかったので、調査を終えてから車に戻って「一体、誰だろう」とリダイアルしてみると、それは埼玉県小川町在住の高瀬氏でした。電話の内容は、今年中にまた当県へ行きたいので災害碑の案内お願いの件でした。12月1日は、多摩石の加地氏などと一緒に那須へ行くことになっているので、それ以外ならいつでもOKとして電話を切る。
 そして最後に向かったのが、これまた酷い山の中にあって急な崖を登らなければならない。雨は降っているし、両手にはカメラ三脚に掃除道具やら記録用紙と持ているので(今回は雨と言うこともあってザックをおいてきてしまった)、四苦八苦して登る。そこにも面白い庚申塔があって夢中で調査しカメラを向けたが、何しろ暗い森の中である。写真は、再度の撮影として今日は自分のメモ程度の内容としてフラッシュを多用する。雨は益々強くなって、調査用紙はびしょ濡れとなってきたので下山する事にする。そして登るときに、下りはどうなるやらと思っていた通りに、途中から足下が滑ってものの見事に急斜面を転がり落ちる。ズボンは言うに及ばずシャツまでどうしようもない泥だらけ。車にはそのままでは乗れないのでまずはシャツを脱ぎ、ズボンは雑巾を濡らして泥を落とす。それでなくても、それまでの雨で濡れているのに、更に濡れ雑巾で泥を落としたのだからびしょ濡れとなる。ここまで来ると、今日の石仏調査の意欲は完全に消滅!。第一、泥だらけの身体では人様の目には見せられないようなびしょ濡れの泥だらけなので、今日はここで終了として帰路についた。時に、午後2時半。
 それでも、雨の中の石仏巡りの成果は大で、前述のように新たな昭和55年庚申塔を2基見つけられたし、途中で畑仕事をしていた農家のご夫妻からは取れたてのカブや赤ダイコンを頂戴したりした。
 次回こそ、雨で登山を中止した愛宕山へ登るぞ!。だから、雨だけはゴメン蒙りたいものであると、今から祈っている。
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2007年11月最初の石仏巡りも日光です

2007年11月04日 | Weblog
 2007年11月3日も日光市小来川(オコロガワ)地区の、主に庚申塔を主体とした石仏巡りに行きました。と言っても、それらのほとんどは過去に調査した所ばかりです。何しろ、前回に調査して10年を経ているものは再調査することにしましたので、今回も時間の無駄使いと判っていての再調査です。
 最初は、南小来川地区長久保地区の庚申塚調査です。ここには合計6基の庚申塔がありあす。もちろん昭和55年庚申塔もあります。そして面白いのは、この地区では「猿田彦大神」と表記した庚申塔が中心となっていることです。今回は、前回には記録しなかった交名を中心に読みましたが、その作業の何と空しいこと。ましてその頭上には、おいしそうに熟れた柿が沢山なっているのですから、ついついそちらばかりに目がいってしまいました。
 二番目は、この地区のお寺さんである天台宗円光寺へ行き、8基の庚申塔を調査しました。その中にある元文5庚申年塔の側面にある「三界万霊普□廻向」とある、□文字が読めていなかったので、手拓して永年放置していた再確認事項が解決しました。ちなみにそれは「三界万霊普皆廻向」の「皆」という文字でした。
 三番目は、小来川から古峰ヶ原へと抜ける鹿沼日光線沿いにある庚申塚二箇所を、同時に再調査しました。距離にして、僅か20メートル程しか離れていない所にある庚申塚は、栃木県ではこの場所だけで、その意味では非常に珍しい場所です。片方の、宮下坪庚申塚には6基の庚申塔、そしてその隣の向原坪の庚申塚にも6基の庚申塔が並んでいます。この向原坪庚申塚には、延享四年銘の四角柱に偈頌らしきものが刻まれているので、その解読を中心にしましたが、どうにも読めずに今回も敗退です。もちろん手拓したが、私の解読学では読むことが出来ませんでした。まあ、暫く放置し時間が経てばある日突然読めるだろうと、軽く考えています。いずれにせよ、都合12基の庚申塔を再調査するのは疲れましたが、今日は秋晴れの最高の天候だけに山中での調査は気分が良くて終了後はここで昼食としました。また食後は、野鳥観察を兼ねてたっぷりと1時間ばかりのんびりした時間を過ごしました。
 いよいよ午後の部、午後3時半には今日の石仏巡りは終了にしようと思っていたので余り時間が無く、予定では中小来川地区を巡る予定でしたが変更し、一気に滝ヶ原地区まで足を伸ばしました。その滝ヶ原の滝尾神社前に並ぶ8基の庚申塔も再調査してしまおうとしてのことです。現地に着けば、相変わらずの埃に汚れた碑塔となっていて、読むのも一苦労ですが、再調査ということでここは紀年銘などの再確認に終始して、あとは写真を撮っていない物の撮影で終了。この頃になると、対岸の山肌が西日を浴びて輝いていました。時間が少し余っていたので、同地にある八臂弁才天の写真を撮ったりしてのんびりし、その後は来た道を戻って今日はここまでで終了とた。
 そんな次第で、今回も前回同様に調査用紙だけは42枚と多くなりましたが、この時点で目新しい碑塔には当然ながら1基も出会えませんでした。
 その帰り道、西小来川のサイカチ原の下内地区で、山の中に何だか判らない石仏があるとの話しを聞いたので行ってみると、なるほど確かに地元の方でもその存在を知っている方は少ないと聞いていたが、ここ最近だれも足を踏み入れた形跡がない荒れた山の中に、不動明王が二つに折れて倒れていた。それを抱き起こしてつなぎ合わせ、綺麗に掃除してから撮影する。その脇にはこれも二つに折れている金剛界の大日如来像もあるが、それは顔部分の上部が見つからなかった。小さな氏神様の祠が近くにあるので、その関係の石仏と思われるが、その事に関してはの人は誰も知らないと言うことだった。結局、本日の新しい成果は最後になってこの2基だけだったが、新しい碑塔が加わっただけでも嬉しく思う。
 小来川地区の庚申塔、今年になって実見していないのは所在地があやふやな物も含めてあと23基のみ。今年の内に全て再調査を完了させてしまいたく、次回もこの小来川地区へ行くことになるだろう。それと、出来れば愛宕山へも暫くぶりに登ろうと思っている。
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