今回最後となる右側面にある碑文は、全文が隷書体で書かれているのだが、その異体字の多いことこの上なし。拓影を仕上げるに当たり、文字を確定するだけでも大変な作業でした。また、選者の静軒寺門良はその経歴がはっきりしているものの、揮毫者の彺力疾あるいは晩之(「之」の文字は多分?)原彺力疾と読むのか判らない人物の経歴が今の私には全く不明である。前回も記したが、この方の経歴を御存知の方は是非にご教示賜れますようお願い申し上げます。今回の調査は、途中でサボったと言うこともあり、四面の拓本画像を紹介するだけでも一週間以上もかかってしまった。そしてこれからが碑文清書の本番であり、その前に自分なりの銘文内容をを理解しなければならないが、これが今まで以上に大変である。まあ、先週から石碑巡りは旧盆過ぎまで夏休みとしたので時間はたっぷりある。それでも三面の銘文を読みきって、文字を清書するまでには日数が足らなくなるだろう。慌てずに八月一杯は、この三面の銘文を相手にして暑さを忘れようと思っている。今夜からの、出発点となる拓本による手写作業が楽しみである。
前回に続いての掲載で、これは四角柱の碑陰に記された銘文です。そこに、前回の大竹蒋塘と同じく菱湖子四天王の一人としての生方鼎斎が揮毫した銘文がありました。もちろん、私にとっては栃木県で初めて目にする書ですので、嬉しいことこの限りなしです。そしてその揮毫された文字の上品さに感嘆しました。本当に自信のある書家とは、このように何の衒いもない書体で揮毫するものだと驚きつつも感服いたしました。これまでに多くの書家の碑文を見てきましたが、私的には宇都宮の戸田香園と並んで尤も好きな書家となりました。
さて次回は、いよいよ今回の四角柱に見る碑文の最後、右側となりました。その面の銘文選者は静軒寺門になるものです。どんな格調高い内容になるのか、今から楽しみです。これも機会があれば、ここへ掲載しようと思っていますが、いつになるかは判りません。そしてその悩みはこれだけにあらずして、、揮毫者は「晩■原彺力疾」書とありますが、私の浅学さではどのような経歴の持ち主なのかが判りません。もし、これをご覧になってその方の経歴等をご存知の方は、ぜひにご教示賜れますようこの紙面を借りてお願い申し上げます。そしてそこには隷書体で全文が書かれているために、読めない文字が沢山出てきます。これは困ったものだと今から頭を抱えています。
撰文者の芳川波山は、文政九年(1826)に今の埼玉県妻沼・忍藩松平忠尭藩主に教授として招かれ、藩校の進修館で多くの藩士を育てた人である。名前は、芳川 俊逸。そしてこの銘文を揮毫したのは、足利市出身・巻菱湖四天王の一人である大竹蒋塘(大竹 培)である。この石碑には建立年が記されていないが、当然ながら建立されたのは江戸末期である。建立されてから歳月が過ぎているので碑面に痛みがあって、いつになく真剣になって手拓したがご覧の通りである。それでも、銘文は充分に読めるし、揮毫された文字も充分にその揮毫者である大竹培の筆跡を味わうことが出来るのは、石碑調査者冥利に尽きると言うものである。
なお、この石碑4面にはそれぞれの大物撰文者と大家の揮毫者による銘文があるので、毎日ワクワクしながら拓本を眺めては、それだけで満足している私である。今回は、その内の最初である左面を紹介しました。次回は、碑陰にある銘文手拓を一人で眺めているだけでは申し訳ないので、その画像を掲載しようと思っている。
先々日に手拓した四角柱の碑表写真です。書かれている内容は、題名に記した通ですが、当然ながら変体かなを含んでいます。これを拓本を採り、パソコンで修正したものが、下段のものです。
この左側にあるのが、8行×28文字の銘文で、撰文は芳川逸で、揮毫者は足利市出身の大竹培です。然しながら、建立年がどこを探してもありませんでしたが、江戸末期に変わりはありません。その拓本も勿論採りましたが、碑面が荒れていて手拓しただけでは綺麗な拓本画像になりませんので、さてどうしようかとパソコンに取り込みが終わった今、考え込んでいます。まあ、これは今年の夏休み課題と捉えているので、時間を掛けて作成しようかと思っています。そうそう、それと右面は静軒 良(寺門 良)の撰文です。これも、どんな文章か、これからが楽しみな所です。
今回の猛暑の中の足利市域放浪にて、思いもかけず「野見宿彌命」(のみすくねのみこと)の石仏に出会いました。滅多に出会えない石仏と、偶然とは言え目にすると嬉しくなるものですね。なにしろ、これまでに栃木県で見たのは合併前(今は栃木市)の都賀町で見た、同じ名前の「野見宿彌命」明治33年庚子11月とある自然石のみで、これが二例目だからです。但し、今回のには惜しむらく紀年銘がない。それでも建立年代を推定するには、都賀町と同じ明治期と思われる。高さは114センチと少し小ぶりだが‥。何の信仰塔かは、PCを検索して各自で調べてください。
昨日(7月17日)は、今夏最後の足利市内石碑下調べとして行きました。それにしても早朝から暑かった!の一言です。東京の嘉津山氏から掲載画像の写真を撮ってきて欲しいという要望もあり、朝一番でこの地蔵菩薩を見に行きましたら、ご覧のように銘文がある。嘉津山氏もこの銘文のある事は知らないようなので、手拓することにしたが、それからがイケマセン。崖の途中にあるので、所在地は切通しと言うが、風が全く入って来ずに蒸し風呂同然。たちまち全身から汗が噴出し、とてもではないが半袖のシャツなどびしょぬれで、仕方無しに肌着一枚となっての何ともみっともない格好での手拓作業となる。勿論、やぶ蚊は汗臭い身体に大喜びで飛びついてくる。しかし、何よりも汗が酷くてシャツなど来ていられない。当然ながら、普段なら丁寧に手拓する作業もいい加減で、文字さえ読めれば良いと言う荒い仕上げとなる。その姿を通りがかりの御婦人が見るに見かねて冷たいお茶のペットボトルを差し入れてくれる。そのペットボトルを一気に飲み干してから、今度はこの地蔵全体のサイズ測量やら銘文筆記に差h信撮影。お地蔵さん本体だけで、高さが91センチもあり、しかも赤い帽子に前掛けを着けているので写真を撮るにはそれを脱がさなければならない。そのためには、裏面に崖に足を掛けての作業となり、又しても汗ビッショリ。しかも道幅が狭いので崖から落ちそうな場所まで下がっても、全体像は入らずに、掲載写真の姿が精一杯。主銘文以外も、本来なら全銘文を読む必要があったが、紀年銘に最初の交名だけで終了とする。ここでの作業だけで、終わってみれば2時間以上もいたことになる。急いで車に戻って水分補給。又しても持参したペットボトル一本を一気に飲み干してしまった。
嗚呼、軽い気持ちで写真撮影だからと引き受けてしまったが後悔のみであった。
さて、それからのこの日の一日の行動はまだまだ続くが、それらは明日以降に気が向いたら掲載することして、今回はここまでとする。
うだるような猛暑の中、5月23日に碑陰銘文だけを手拓したままになっていた、ご覧の碑表を手拓してきました。暑さに気が緩み、つい半袖で来てしまったので暑さに加えて薮蚊に刺されながらの手拓でした。手拓部分の高さだけで165cmあるので、結構時間がかかってしまいました。この拓本は、パソコンにも画像を取り込み終えたので、あるお世話になった方に差し上げる事にしています。喜んでくださると良いのですが‥。そして自分用は、いつか機会がある時に再度手拓しようと思っています。何しろ、このような自分の気に入った碑に出会うと手拓しながら碑面に向かっている時間が私にとっては至福の時間なのです。
それにしても毎日が暑すぎる。この夏は、拓本採りを諦めなければならないかと危惧しているところです。