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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年8月29日も栃木県今市の石仏巡りでしたが…

2009年08月30日 | Weblog

 今回が8月最後の石仏巡りと、朝は勇んで出かけました。特に今回は、既に調査を終えている小林地区の落ち穂拾いに入りました。その中でも、共同墓地を含めて個人墓地などのこれまで余り足を踏み入れていない箇所や中途半端なままにしていた落ち穂拾い調査です。そんな墓地内の碑塔調査ですから、あるものは無造作に積まれている廃棄物扱いの石塔を崩し、その中に紛れている信仰内容物を探すのですから、いや~あ大変です。そんなことを何カ所かで繰り返していて、それでも10基となる新たな碑塔を確認したときのことです。それは、空き地に1基だけ半分ほど埋もれていたので掘り起こしならぬ「引き抜き」をしようと、渾身の力を込めて行いました。そして無事に銘文を記録し、このままではやがて埋もれてなくなってしまうと言う、その後の老婆心がいけなかったのです。ズルズルと引きずり、近くの個人墓地傍らにへ移動しようとした瞬間、ギクッと腰が悲鳴を挙げ、その場で動けなくなってしまいました。そう、背骨の一つが表に飛んでいってしまったような感覚です。暫くぶりに、こんな馬鹿みたいな事ばかりしているので、今では持病とまでなってしまった「ぎっくり腰」になってしまったのです。取りあえず、ほうほうの手で車に戻り、何とか潜り込んでそのままバッタンキュウ。およそ30分後に、少しだけ動けるようになった腰で運転席に座り込みました。この段階で石仏巡りを止めればよいのに、今までに何回も経験しているので少し様子を見ようと石仏巡り再開です。そして道路端で、調査済みの碑塔群の中から見逃していた如意輪さんと対面。勿論、半分は腰砕けのよろよろした足取りで、です。これで、本日11基目を調査できたと喜んで車に戻ろうとしたが、又しても腰が言うことを聞かず、脂汗をたらしながら何とか車へ戻りました。この段階で初めて、今回のギックリ腰は今まで以上に重傷で在ることを自覚し、宇都宮市内のかかりつけ整体師へ緊急コール。なんとか努力して先生の所まで辿り着けば、「いや~あ、暫くぶりに重体患者が来た」と笑っている。それから約1時間、私の嫌いなハリ治療もその痛みに耐えながら受けて、何とか腰が動くようになった。そして自宅へ辿り着き、その後は腰の痛みと治療の痛みに悩まされながら一夜を過ごしました。
※掲載写真は本日最後となった11基目の如意輪観音さんです。
 もちろん、一晩で直るような状態ではなかったが、今日30日は衆議院選挙の日。家内に腰の状態を確認してくると言って、歩いて投票所まで行ったが投票する人々が多く順番の長い列が出来ている。それを我慢するよう気を紛らわせようと、並んだ前後の人々と選挙にどの党をいれるかの話で盛り上がり、周りの方々を更に巻き込んでの爆笑の渦となった楽しい待ち時間でした。そんな馬鹿なことをしていたのですっかり腰の痛さを忘れ、良しこの調子ならさらに足を伸ばせると投票後は遠回りな散歩道を選んで帰宅したが、それからはまた腰が痛くなり、ふたたび横になってしまいました。しかしそれにも飽きて、今はこれを打ち込んでいます。あ~あ、それにしても何という8月最後の石仏巡りになってしまったことか! こうしてギックリ腰になるたびに誓う、「ペットボトル以上の思いものは持たぬ」ということを忘れて失敗してしまいました。予定では、今日はダイコンと白菜、それにエシャロットの植え付けをする日だったというのに!。次回からは9月。一日も早く直し、また再び石仏巡りに行けますよう今週平日はおとなしくしています。
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2009年8月22日も今市の石仏巡りでした

2009年08月23日 | Weblog

 朝一番で、小倉町の追分地蔵尊へ頼まれていた庚申燈籠の銘文明細を届ける。しかし、朝早すぎたと見え、留守なのでメモ書きして置いてくる。
 さて本日は過去に調査済みの碑塔再調査を目的として、早速今市市荊沢の公民館へ行く。本日はここからが出発で、公民館へ車を置いてまずは道路南側にある共同墓地から調査開始である。この墓地内にある天保年間の馬頭観音像に刻まれた道標文字、右○○○の文字が読めない。その読めないとは、私の知識不足以外の何ものでもなく、今更ながらに勉強の足り無さを痛感する。そして左○○の方は、フリガナまで付いているので良いのだが、その○○という方向を示している文字が「医師」とあるのには、又しても降参である。そもそも、「医師」等という地名は聞いたこともないので、あるいはこの当時に当地で有名だった医者がいた方向かも知れぬと、あらぬ事を考える。
 その共同墓地からさらに山際を東へ辿っていくと(ここはに住んでいる人でも余り知られていない個人持ち山の一角で、私は山遊びの時に偶然見つけた場所である)、そこにも幾つかの注目すべき碑塔が隠れるように存在する。その中でも特に、享保8年から宝暦12年迄にかけて、個人で西国板東秩父を巡ったことが記されている順礼兼読誦の笠付四角柱は、非常に興味津々と言ったものである。それらの塔に再会したのも久しぶりなので、別の方へ纏めておこうと思っている。
 そこを終えてから、今度は隣の針貝地区へ入り、高雄神社入る道路沿い共同墓地の再調査とする。最初にここへ来た頃は護岸工事が成されていない時で、碑塔調査をしているときにその崖薮からキツネが飛び出してきたところであり、家内と一緒に驚いたことを思い出しつつ、1基づつ丁寧に再調査する。そしてこの周辺を含めて調査を終えたところで早くも時計は12時。過去に調査した碑塔の再調査とは言え、午前中の碑塔調査がこの有様では面白くなくなり、まだ未調査となっているキテイ台風災害碑を昼飯前の調査として追加しようと、塩野室町まで足を伸ばす。そして災害碑なので鬼怒川沿いにあるのだろうと探したが見つからず、ここで一旦うち切り、清流を見ながらの鬼怒川沿いで昼食とする。
 それにしても、今日はやけに蒸し暑い。本来なら、秋に入った涼風が吹いていても良さそうな所でも蒸し暑く、全身汗びっしょりである。おまけに今回は、手をブヨに喰われたので痛痒くて仕方がない。それでも、飯を食い食い午後の部の作戦を練りつつ、疲れた身体を癒すために少し多くの時間を休憩タイムとする。
 そして午後、早速に元の戻り農家とあれば飛び込んで聞き込み調査を開始するが、生憎と留守の家や知らないと言う返事ばかり。それでもようやく、訪ねたおばあさんに「多分、あそこではないか」と2箇所を教わって飛んでいけば、それは開墾記念碑であり、もう一箇所の教えてもらった場所には粟野町の録事尊を祀っている場所だった。仕方なく、鬼怒川の土手に登って眺めるが、そんな碑が見えるはずもなく、さらに車が一台だけ通れる小道を探索すれば、その道沿いに建っていた。これが本日最高かつ唯一の、私にとっては見たかった碑となり、炎天下の中で長文を丁寧に書き写す。
 そんな訳で、その後は町谷地区の碑塔再訪&調査としたが、もちろん淡々と最新の記録に書き換えただけで目新しい物には出会えなかった。いや、それどころか、昔は確かにあった碑塔が今回の調査でなくなっているのに気付き、時代の流れとはこういうものかと実感した次第である。それにしても今日は疲れた。午後3時半過ぎには、もう単純な碑塔再調査にも飽きてしまい、早めの帰宅として車通りの少ない田舎道を通って帰宅する。
そうそう、今回の画像は針貝地区の明和2年銘の馬頭観音像です。口がまるっきりのへの字です!
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多摩石仏の会発行「野仏」第40集のご紹介

2009年08月16日 | Weblog


 多摩石仏の会「野仏」第40集を、ご厚意により頂戴いたしました。会の機関誌として「野仏」第1集が発行されてから40年目の節目となるものです。いつもながら、その「野仏」を拝見して思うのは、そこへ発表される方々の多彩さです。それは、会員=全員発表者という、一般の石仏の会では信じられないことを毎年平気で発行し続けていることです。もちろん、その内容も私のような田舎の石仏趣味人ではとても太刀打ちできない、素晴らしい論考ありレポートありと、内容も豊富でただただ驚いてしまいます。もっとも、勉強していないと読むのにも一苦労する有様ですが…。
何れにしましても、発表者は13名でB5判114頁という厚さで、しかも全てが手作りという最後まで労作なのが何とも嬉しい会報です。
今は、2022年
。その後の追加事項です。今では、会との連絡も途絶えて、会そのものが存在しているかも分かりません。

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2009年8月14日も今市市の石仏巡りでした

2009年08月15日 | Weblog

旧盆真っ最中の14日は、主な目的を拓本取りと決めていつもの栃木県旧今市市へ向かいました。それでも最初は、途中にある見逃していた碑塔幾つかを調査してから、本日最大の目的地である大沢地区日光杉並木沿いにある松平正綱公の杉井並木寄進碑です。手拓しなくても、全文が読める状態なのでこれまでサボっていましたが、やはり日光を代表する記念碑だけに手拓することにしました。碑面が非常に風化しているため、手拓するのに少しばかり難儀しましたが、それでも1時間余りで完了することが出来ました。特別指定になっている碑を、誰の許可も得ずにのんびり手拓出来る幸せと、杉並木から吹き抜けてくる涼風に気持ちよい手拓時間でした。(その内容は、知らない方もいるかと思い、別のHPの方へ全文を掲載しておくことにします。最も明日以降になりますが)。
さて、それを終えてから、今度は追分地蔵尊へ向かいました。境内にある延宝4年銘の庚申燈籠。手拓をせずに読んでいたのでどうにも自信が無く、今回は何としてもそれを手拓する必要を感じて行きました。そして手拓してみれば、やはり肝心な所で読み違いをしていて、中山さんと一緒だったら大笑いされるところでした。この詳細は、後日多田氏に報告しましょう。ついでに、堂守をしていらっしゃいますご夫妻に、いつか東京からこの庚申塔を見たさに来る人がいますから、その時は宜しくと伝えて、大笑いしました。
 午前中は、ここまでで終了です。何と時間が過ぎるのが早いこと。これだから、途中で手拓作業をサボってしまうことに也がちとなり、後で後悔するのです。トホホッ!
 お昼を、市街地の「報徳今市振興会館」の木陰で取らせて頂きました。ここには、私が探し求めている昭和24年に起きた「今市地震」災害碑があるから来ました。以外にも、あっさりした内容にがっかりしましたが、それでもこれで新たに1基増えたと一人で大喜びです。
 それにしても、日光街道は夏休みのために大渋滞となっている。そこで、その後は田舎へ行くことにして、昔に記録した碑塔類の再調査に明け暮れました。面白みはないのですが、これも最新情報に書き換えるためには必要なことと、早くも秋風が立ち始めた炎天下で、気持ちよい汗をかきながら充実した一日を過ごせました。
 そうそう、今回の写真は本当に暫くぶりに訪ねた迦楼羅像です。
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2009年8月9日も栃木県旧今市市の石仏巡りでした

2009年08月10日 | Weblog

 家を出てから直ぐに雨となる。それでも、家を出てしまったからには引き返すのはもったいないと、一路今市市内へと車を走らせる。本来なら、最初に追分地蔵尊へ行って灯篭の手拓をするつもりだったが、雨では手拓は無理としてついでに再調査する予定だった市街地を避け、瀬尾地区へ向かう。そして7月に中途半端に終わっていた高雄神社へ立ち寄り、改めての再調査を淡々と、雨の中を傘もささずに終了。
 さて、これからどうしたものかと思案しても所詮は雨が降っていては思うような調査は望めない。仕方なく、そこも中途半端な調査に終わっていた小百地区へ入り、滑川橋の袂にある十九夜塔や近くの家畜塔を再調査し、早くも今日はここで小休止。すでにここまででズボンと言わず身体までもびしょ濡れである。車の中には、長靴も傘もあるというのに、億劫が先に立って使用しなかった私が悪いのだが、バインダーに挟んだ調査用紙までもびしょ濡れには困ってしまう。
 そんな、車の中で困っていてもらちが明かないので、調査洩れと今市市では数の少ない宝篋印陀羅尼経塔がありながら、これまで銘文完読を放置していた高畑地区の十一面観音堂へ行くことにする。そこにはさらに、調査洩れの十九夜塔があるらしいので…。
 観音堂へ着いてみると、の方達が集まって観音堂の調査をしているようだ。話の中へ割り込んで、宝篋印塔の調査了解と私が見落とした十九夜塔の所在を尋ねると、十九夜塔を一緒に探してくれたが、どう探しても見つからない。どうやらこれは場所違いだったことにして処理する。
 その後、の方達と石仏について四方山話をしていると、この近くに「不動岩」という洞窟があって、そこには石仏が祀られているという話をしてくれる。早速、「その場所へ行きたいので場所を詳しく教えて!」となるのはいつもの私のパターン。それに対し、そこは私達の案内ないしでは行けるような場所ではない、と言う。仕方なく諦めかけていると、「そんなに行きたければ案内してあげる」となり、丁度居合わせた市生涯学習課にお勤めの伴場氏を誘って出発する。そこは、滑川右岸沿いの崖にある洞窟。ガラガラの岩石が堆積した急斜面を登って辿り着けば、確かにそこはかつて山岳修験者が籠もり、修行した場所となっていて、その本尊である不動明王像(安永七戌天九月吉日紀年銘)が祀られていた。また、その他の金剛界大日如来坐像などもあり、思わぬ発端から初めて訪れることが出来たことに感謝する。下山してから頂いた、田舎饅頭の美味しかったこと。本当にお世話になりました。
 また、観音堂の北方の森の中には「諏訪神社」がることも知った。この神社は、栃木県の神社所在明細に掲載されていながら、その場所がなんとしても判らなかった場所。聞けば、鳥居も二基あり狛犬もいるとのこと。こうなれば益々行きたくなり、今度こそ長靴に履き替えて手には傘を持ち、教えられた田圃の畦道を通って森の中を目指して歩いていく。ところが、途中から田の畦道と違って草の刈っていない神社への道となり、その雑草の背丈は腰まである状態。これでは長靴を履いていても何の役にも立たず、仕方なしに傘を草に押し当てながら進んで神社入口階段に到着。最初に迎えてくれた鳥居は、私の期待を裏切らない「寳永五戊子天二月吉日」とある明神鳥居。こんな山の中に、寳永年間の鳥居が建立されていた事に驚く。そして歩を進めれば、もう一つの鳥居前に「安政三辰年五月吉日」銘のいかにも江戸後期らしさの特徴を備えた立派な狛犬が鎮座していた。雨のそぼ降る深閑とした神社境内で、一人狛犬と向かい合っていると、やはり江戸時代の狛犬にはその後の岡崎型と称される狛犬とはひと味もふた味も違った趣が余計に感じられた。ただ、重いので三脚を置いてきたことが悔やまれ、その後の写真撮影に四苦八苦する羽目になったが…。
 そんなこんなで、神社訪問を終えてからの昼食は、今回も先週に引き続いて午後一時をとうに過ぎてのことだった。このころから、雨も止みだしてくる。こうなると早速、午後の部の石仏巡りとして、そこも途中までの石仏調査に終わっていた瀬尾の天台宗明静寺へ向かう。ここでも、最初に確認したのは境内にある宝篋印陀羅尼経塔。案の定、偈文を読んでみると午前中の十一面観音堂にあった宝篋印塔と兄弟塔であることが判ったので、その銘文筆記はあとにし、まずはズラリと並んでいる十九夜塔等の石仏を洩れなく再調査する。そして住職御内儀と立ち話をしていると、ここから直ぐ近くにも十九夜さんが建立されている事を教えてもらい、早速それらを記録する。
 それにしても、改めて自分の姿を振り返れば全身泥だらけ。加えて身体全体から汗くささが漂ってくる。まだ四時にならないまでも、このまま今日の石仏巡りを終了して帰宅しようかとも考えたが、何となく時間がもったいなくなり市街地へ入り、いつのまにか無料駐車場へ車を乗り入れていた。そして前回訪問した玄樹院墓地へ行き、祐天名号塔の銘文と弘治三年銘と思われる地蔵像背面銘文の再確認をする。それでもまだ今市市から去りがたく、ついでだからと足を伸ばし、同じく先週訪れた如来寺さんへ行き、鍵を開けてもらい前回見逃した幼稚園施設内にある十九夜塔を調べさせてもらう。
 これで、今回の石仏巡りは追分地蔵尊の手拓は出来なかったものの良しと、今年の夏らしくない湿気を十二分に含んだ空気を車窓から取り入れながら、ルンルン気分で帰宅する。
※写真は、高畑地区不動岩の洞窟に祀られていた大日如来像。もちろん、明るいところへご出座願って撮影しました。
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庚申塔のデータ庚申と新規追加しました

2009年08月04日 | Weblog
※1 栃木県内の実見した全ての「江戸前期迄の庚申塔」最新データを更新しました。多分これ以上は出てこないだろうと思っていますが、それが庚申塔の恐ろしさ。でも、何となくこれで栃木県内の江戸前期庚申塔探索行は終了した気分です。それでも、このデータに抜けている当該庚申塔所在をご存じの方からのご教示を、心からお願い申し上げます。

※2 栃木県今市市(現・日光市)の庚申塔も、この際に公開しました。本当は全て実見してから公開したかったのですが、それにはあと何年もかかりそうなので取りあえず知っている今市市の庚申塔全基を掲載しました。もちろんその中には、今回が初めての情報公開庚申塔も含まれていますので、特に「今市の庚申塔」書籍だけを頼りにレポートなどの参考とすると痛い目に遭いますのでご注意下さい。(^O^;)
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2009年8月1日も栃木県旧今市市の石仏巡りでした

2009年08月03日 | Weblog

 今回は、市街地の石仏巡りをしようと、旧今市市役所(現・日光市役所)駐車場へ車を置く。ザックでは大げさと考え、手提げバックにして手拓用具や三脚等の持参は省略。もっとも、そのために数カ所では手拓が欲しかったのに出来なかったりしたが…。
 さて、市役所から適当に道を選んで歩いて、数基の碑塔を記録しつつ、追分地蔵尊へ向かう。その途中で、危うく創価学会の寺へ入りそうになって苦笑いしたが…。そして追分地蔵尊へ着いて、今回は境内にある灯篭も含めて丁寧に記録を取る。その灯篭の一つに「庚申供養」があり、紀年銘も延宝四年とあったので、ここで急に中山さんを思い出す。この庚申灯篭は、中山さんが見ていない灯篭だったのだ。この前を、中山さんと何度も通りながら駐車場がない不便さでついに一度も立ち寄らなかったことを今さらながらに後悔する。あの、気に入った碑塔の前ではそこが地面であろうと平気で座り込み、じっくり構えて銘文を眺めるあの懐かしい姿を思い出してしまった。次回には、手託させていただく快諾を得て離れ、そこから更に歩いて如来寺さんが管理している玄樹院墓地へ入る。ここには祐天上人揮毫の名号塔が二基あり、そこに刻まれた石文がいささか長いが、ついでだからと気長に構えて書き写す。また墓地内には、特に沢山の家畜塔があり、それら全てを調査するには2時間以上かかりそうだが、いつかはやらなければならない作業と覚悟を決めて取りかかる。お陰で、終わったのは午後も1時半をとうに過ぎてしまっていた。まだまだ、周辺を彷徨きたかったが、まずは何あれ遅い昼食にしようと、車を止めた市役所まで重い足取りで戻る。
 今回の特別に遅い昼食は、少し日光寄りへ移動して杉並木公園で取ることにして車で向かう。駐車場内で食事を終え、一休みして時間を見れば午後も2時を遥かに過ぎていたのは言うまでもない。市街地へ戻る気力をなくし、これからは車をここへ置いて杉並木を北上した所にある大日堂へ向かう。今日は曇り空ながら以外と蒸し暑いが、この杉並木街道の中には思いの外に涼しい風が通り過ぎている。今度は掃除道具と三脚を抱えたが、手拓道具は残したままポクポク歩き大日堂へ着くや早速調査開始。寒念仏信仰の不動明王像やら十九夜塔に欠損箇所の多い石文不明の庚申塔を調べたりしたあとで、何やら気になる碑塔が1基残る。それは、銘文を読むのに摩耗と汚れが酷くて抵抗があり、どうしようかと悩んだが、「後で後悔しないように、目の前の気になる碑は読もうよ!」という、中山さんの声が聞こえたような気がしたので、その碑の前に中山式で座り込む。まずは水洗いを執拗に繰り返し、何とか文字が出てきた。今度はその文字の解読だが、手拓せずに読むのに抵抗を感じながら眺め尽くし、何となく全体の流れが判ってきた。どうも、これはこれまでだれも報告していない庚申塔のようである。そこで紀年銘を最初に解き明かそうと目を移動し、本気になって読めば「貞享四丁卯天 / 十月十五日」が読めた!。つまり、これは庚申当り日である。そこからは更に本気モードに入って、泥拓や判読を繰り返しているうちに「奉精誠意趣者庚申供養祈願所」と解読できた。その他にも石文はあるが、それ以上は手拓しないと無理。しかも下部が埋没しているので、スコップ持参でないとこれ以上の調査は無理と判断する。意外なところでの、私にとっては嬉しい江戸前期にかろうじて入る庚申塔の発掘である。何となく、中山さんとの意志が通じたみたいで嬉しくなる。
 さて、今夜はこの近くの大谷川岸辺で恒例の花火大会が開催される。そこで、渋滞に巻き込まれないためにも早めにこの周辺から逃げなければならないが、まだ時間は4時になったばかり。「この夏場に、4時で石仏巡りはないだろう!」と、一人で文句を言いつつ、その花火大会が催されるど真ん中にある、大谷川公園内の森の中にある瀬川地区庚申塚を訪ねる事にする。近道をし、公園の大駐車場へ車を止めるや手早く往復30分以内で調査を終了しようと、暗い森の中にあるというのに掃除用具もカメラ三脚も持たずに急いでその中へ駆け込む。急いで、昭和55年庚申塔を始めとした四基の庚申塔を調査して引き上げる。帰宅してから写真を確認してみると、やはり四基とも撮影し直しが必要なほど酷い写りだった。ヨシッ、こうなれば次回も今市市街地からやり直そうと、変なところでムキになる私だった。
※写真は、今市市瀬川・大谷川公園内にある高新津感昭和55年庚申塔です。
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