石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2011年10月29日も宇都宮市街地の碑調査でした

2011年10月30日 | Weblog

秋晴れのどうしようもない快晴の下、今回もママチャリで宇都宮市街地へ向かう。その最初は、上記に掲載した写真のもので今年の春に調査していた上記の「岡田梅嶺翁碑」の手拓が目的である。岡田翁は二荒山神社の楽人として六十年も勤めた人である。従って、その碑文の揮毫者は当然ながら宮司をしていた戸田香園である。しかし、草書体で全文が刻まれているために浅学の私には写真画面だけでは読めない箇所があるので、今回の手拓作業となった次第である。
この前にて、先ずは作業に入る前の一休み。そして風が来ないうちに水張りを行い、またももう少し乾くまでと一休み。その一休みが長すぎたのか、ふっと振り返ると最初に水張りした箇所上部は乾きすぎ位になっている。慌てて立ち上がり、墨入れ作業。そんな時に無理な姿勢で墨入れしていた私の腰が「グギッツ」と音がする。そう、またしても無理のきかない腰に負担を掛けすぎて、私の腰が悲鳴をあげた瞬間である。それでも、腰をかばう以上に今は墨入れが先として作業を進めていると、今度は嫌な風が吹いてきて、早くもそれが水張りした隙間を狙って入り込み、墨入れの終えた箇所から剥がれ出す。片手で紙を押さえながら、痛い腰をかばうこともままならぬまま、何とか作業が終了した。それでも、これでこの碑(いしぶみ)の内容が何とか理解できたが、その全文となるとやはり帰宅してからの解読が必要な箇所がある。
さて、作業が終えた所で腰の状態を確認。どうやら、痛いことに変わりはないが何とか動けそうである。もちろん自転車にも乗れる。そこで、ここで本日の調査を終えて帰宅するにはもったいないと、本日のメイン調査地である慈光寺へ向かう。


 最初に調査したいのは、未だだれもその全文を調査していない、戸田忠至(後の高徳藩城主で江戸詰め家老だった間瀬和三郎=山稜奉行として多大な功績により戸田家を名乗るのを許された)が、その祖の間瀬家招魂魂として建立(正覚院法縁無塵上座が碑表)したもので、それはその招魂碑(上記掲載写真)の三面にに刻まれている碑文。それを撰文。揮毫したのがかの大橋訥庵(坂下門の変の首謀者)である。それだけにこれだけはどうしても手拓が欲しかったもの。しかし、現物に対面してみると、酷い苔の生えよう。しかも陰湿な場所にあるので薮蚊がものすごい。墓碑を綺麗にし、薮蚊と戦いながら水張りそして墨入れが終わるまでには優に2時間ばかりを要することになってしまったが、念願の手拓が手に入った嬉しさで思わずそれを碑面から剥がす時は笑みがこぼれてしまった。その他、墓域にはこれまで探しに探していた梅園春男の墓碑もあり、その他にも縣六石の墓碑などを調査終えた時は既に午後4時になっていた。そして気づいたのは、まだ昼食を取っていない事。今更昼飯でもあるまいと、空腹のままそれまでの嬉しさで腰の痛さも忘れていて、自転車に乗って初めて気づく愚かさであった。帰宅したら、また家内に馬鹿にされるだろう。それにしても今回はいつになく、成果の多い(尤も本日の新しい調査碑は四基のみだが)一日だった。

これで、宇都宮市街地の主な調査は終了である。それでも、詳細に各地の墓地内を調査すればまだまだ出てくることは容易く想像するが、些か神経衰弱のような碑塔調査にも疲れてきたので、後は郊外にある未調査の碑(いしぶみ)調査へと向かうことになるだろう。それにしても今日で、今年の4月から今回までで100枚もの手拓用紙を使い切ってしまった。。しかも7~8月は調査に出かけなかったのに。それなのに毎回、自分の手拓の下手には呆れてしまうが、これも自分の性格の現れだろうと思う。

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2011年10月23日も宇都宮市街地の碑調査です

2011年10月28日 | Weblog
今回の石仏巡りブログへの書き込みは、サボりました。それというのも、23日に調査した碑(いしぶみ)碑文清書に手こずったからです。毎夜遅くまで清書するも、意味が通じずに文字の読み違いに苦労したからです。それと、調査した4基とも墓碑と言うこともあり、その碑文解読に思わぬ時間をとられて、パソコンの前に座ってのんびりブログどころではありませんでした。それでもようやく、今朝でその作業も終了。後は、手拓を採らなかった碑の不明個所を次回に再確認してくるだけです。そんなことをしていて、早くも明日は週末。今度は、放置していた碑の拓本をどうしても採っておかなければと思っているところです。なにとぞ、風が穏やかでありますよう願いつつ、早朝に訪ねて作業するつもりです。 嗚呼、それにしても読めない文字ばかり。今頃になって漢字事典と親しくなっています。
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今年何冊目かの本が出来上がりました!

2011年10月21日 | Weblog

今回の本は、今年三月に作成したままに放置していた栃木県佐野市に住んでいた山口という人が宝永年間に回国の旅に出て、その間に途中で出会った回国行者と交換した刷り札の実物画像集です。その刷り札は、佐野市在住の高橋久敬氏が偶然目にしたものを写真に撮り、私に送ってきてくれたものです。
その刷り札は、全国からの行者から交換したものですが、当然ながら関東地方が最も多く特に茨木県や千葉県の行者が多いです。宝永年間という古い時代の回国行者の刷り札は、氏名に出生国名はもちろんのこと、回国に出た目的も記されていて、眺めているだけでも楽しいものです。そして、この時代の回国行者に関心がある方にとっては、一度は石塔などに出てくる名前との照合が必要なほどの資料的に価値のあるものです。と言いつつ、今回も作製したのは自分だけの一冊だけです。それでも、こうした資料があることだけでもと、ここへ掲載しました。この本の内容は、刷り札の画像とその清書、そして全部のリストを出生国順に纏めたリストで出来ています。

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暫くぶりに、調査済みの碑(いしぶみ)を追加しました。

2011年10月19日 | Weblog

9月から10月にかけて調査した、宇都宮市とその他の市町村の碑(いしぶみ)を、別ホームページの「栃木県の石仏公開データ」の方へ追加掲載しました。「栃木県宇都宮市の碑(碑)-後編」と「栃木県の碑(いしぶみ)」にあります。特に今回は、宇都宮市では幕末から明治にかけての教育者達と県内では災害碑が多くあります。揮毫者や石工も豊富で、中には勝海舟や廣群鶴の新たなものもあります。また、戸田香園(宇都宮藩最後の家老)の揮毫した碑は新たに調査したものがあります。と言っても、余り興味がわく内容かも知れませんが…。
そうそう、上部に掲載した写真は自宅近くの雑木林で撮影したオトコヨウゾメです。遠くまで出かけなくても、身近な所で秋を味わっています。

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2011年10月16日は、宇都宮の碑(いしぶみ)調査です

2011年10月18日 | Weblog
又、宇都宮市街地の碑(いしぶみ)調査に戻りました。今回は、前回に手拓した用紙を紛失した延命院さんの墓碑から開始です。しかし、朝方までの雨で碑面は濡れていて、張り付けた画仙紙は少しも乾きません。辛抱強く待ったのですが、ついに待ちきれずに強引に墨入れ。その為特に最下部はかすかに文字が読みとれる程度の墨入れとなりました。まあ、私の好い加減な手拓としての見本でしょう。 次は、直ぐ近くに桂林寺へ行き、慕域内にある碑の調査です。 お寺さんではお葬式の開始時刻で混雑していて、ご挨拶しないままに慕域へ入り、手写しました。短い内容でしたので何とか早めにクリアー出来ました。それがここへ掲載した写真です。内容は、土方の親分が宇都宮藩の命を受けて山稜修復事業に関わったことや、各地の土工工事に関わった経歴が中心の個人顕彰碑ですが、それを揮毫したのが戸田香園ということで、何とも嬉しい新規の碑でした。 ここまでで、午前中は終わり。その後は田川の土手にて、本日初めての大休憩と昼食時間としてノンビリしました。午後は、今年の五月に調査していながら、手拓をしなければ全内容が分からない宝篋印塔の調査です。何とか手拓を取らせていただいて眺めると、宇都宮市内では初めての宝篋印陀羅尼経の梵字表記陀羅尼でした。ついに、宇都宮でも出会えたと嬉しくなり、今日はここまでの調査で大満足と、その手拓した用紙を大事にザックへ入れて相変わらずのママチャリで、鼻歌交じりで帰宅しました。
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2011年10月9日の石仏巡り

2011年10月11日 | Weblog

天候に恵まれた9日、JR宇都宮駅にて東京からの犬飼氏と多田氏を9:30に出迎える。そしていつものように駅弁当を手にして向かうのは、宇都宮市徳次郎町。本日最初の石仏は、祠の中に納まっている二体の雷神像容。加えて、二童子付きの不動明王像に面白い文字塔など。次は、今回始めての山の中へ入る庚申塔調査。そこにある「甲庚申」という文字の意味を多田氏にご教示願うはずだったが、庚申塔でこの表記は初めて見たということで、回答は持ち越しとなってしまったが、そのところにある面白い青面金剛の像容には取り分けて多田氏が喜ぶ。私としても、この青面金剛の持物には必ず多田氏は飛びつくだろうと自信を持っていただけに、してやったりである。山を降りて、その後は昨年「南無阿弥陀仏」の馬頭観音塔を見ていたので、ついでに今回は「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれた馬頭観音を見たいなら案内するというと、そんな面白いのがあるなら見せてとなって、そこへ行き、これで二つが揃った馬頭観音塔の実見となる。その後も、栃木県で最も知られた金精丸彫りがあるから寄り道うする、となって道路が崩壊で通行止めとなっているゲートを開けて進入し、途中からは歩いてこれも実見。
 その後は、本日の犬飼様所望の日光へ向かう。十王像の背中に、「融通念佛」の文字があるので、今回はそれを三人で精査するためである。しかし、日光へ向かう国道は観光車で大渋滞。もう少し時間を遅らせれば空くだろうと、それからはあちこちの山歩きとなる。ここへ掲載した写真もその一つで、暫くぶりに行った山道案内は、自分でも迷うほど。それでも何とか目的地へつき、何とか面目を保つことが出来た。画像は、滅多なことでは見られない「三面六臂の三寶荒神」である。光背に文字の形跡あるも、紀年銘を含めて全て判読不可能。それでも、江戸前期の作であることは容易に推測される。その山からの帰り道は、ムカゴを摘んだりマタタビの実を収穫したりと、まるで何をしに来たのかわからない有様。
 再び国道へ出てみたが、相変わらずの渋滞で少しも先へ進まない。そこでまた途中寄り道。今度は、石屋町の愛宕山へ登ろうとなってご老体の犬飼様にとっては少なからず身体に堪える本日三度目の山登りとなる。
 そうそう、そんな次第で昼食を食べたのは午後も二時近くになっていた。それでも何とか十王像の銘文調査に入ることが出来、そこに「融通念佛」の文字と貞享年間の紀年銘を見て三人とも大満足。何しろこの十王の背中に融通念佛の文字があるのを確認したのは、私たちが初めてなのだから。
まあ、そんなこんなで今回の石仏巡りは数こそ少ないが秋に相応しく実りの多い一日だった。もちろん帰路は、車の中で相変わらず冗談を言い合いながら宇都宮まで戻り、午後6時近くに駅で来年の再開を約して別れる。
※それにしても残念なのは、昨年と違って参加者が一名少なかったこと。私の偏屈性格をご存知での「顎鬚」を生やしだしたことなので仕方がないとはいえ、それほど還暦を過ぎてから髭にこだわる理由は難なのだろうと、一人思う。目立ちたいのか、それとも他人に注目してもらいたいのか、いずれにしても恬淡として生きたい私には理解が出来ない。

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2011年10月01日は宇都宮市内の碑(いしぶみ)調査でした

2011年10月02日 | Weblog
 今回は、暫くぶりに家内のママチャリを拝借して宇都宮市街地へ向かいました。その最初は、8月に観專寺住職さんにお願いしていた碑塔の確認です。しかし、どこをどう探しても該当する碑はないとのこと。ウ~ム、残念。
 諦めて、次は延命寺さんへ行く。落ち葉掃除をしている住職ご内儀に挨拶して碑(いしぶみ)、いや正しくは墓碑調査のお願いをすると、どうぞごゆっくり調査してくださいという快諾を頂ける。何はともあれ、バケツと水を拝借して墓石掃除に取りかかるが、それは毎度の事ながら酷い汚れよう。しかも今回は二基を一度に調査するための墓石掃除なので、手拓を取れるようになるまでの状態にするのにそれだけでたっぷり一時間を要してしまった。そしてそれから手拓開始も、今回も両側面に碑陰まで碑文が刻まれている。一基を取り終えるだけで、10月に入ったというのに汗びっしょり。続いて二基目の墓碑に取りかかり、それらが終えたときには既に11時を過ぎていた。お礼の挨拶に行くと、綺麗に磨いてくれた御礼を謂われ、ついでに当寺に記録に残すような人物の墓碑が有ったことを教えてくれて嬉しいですとまで謂われてしまった。いつの日か、それらの調査報告内容を差し上げなければならないだろう。何しろ当寺hは、彼の蒲生君平が最初に学問を当時の住職から習ったお寺さんだけに、関心ある方々が多く訪ねるお寺さんなので、そうした点にも関心があるようだ。さて、問題はそれから、いや夕方に帰宅してからの話である。ザックをおろして早速本日の成果を取り出したところ、肝心な手拓した墓碑一基分の用紙がない!。お寺さんで、後始末をしているときに置き忘れたのか、その後で訪ねた八幡山公園で昼食のためにザックを開けたときに落としたのか、いずれにしてもナイ!、無い!の大騒ぎとなる。まあ、無くしたものは仕方なしと、言葉だけは潔く諦める。手拓を無くした碑文は、しっかり手写もしてきているので、清書には問題ないので…。
 さて、延命寺さんの次は悩んだあげくに、昼食をのんびり取りたいために宇都宮の中心地にある八幡山公園へ行く。もちろん、それだけで行くわけが無く、昼食後は同地にある大きな碑(いしぶみ)を調査するためでもある。公園東側の三角点広場にてザックを広げて昼食とし、ついでにザックを枕にして大休憩となる。長袖シャツを着用してきたが暑くなり、それを脱いで半袖となってのノンビリタイムは暫くぶりである。半分はうとうとしながら、今年も残り少なくなったこれからの碑(いしぶみ)調査についてあれこれと考えながら…。また、これから行なおうとしている碑(いしぶみ)調査が、どんなに大変なことかも想像できずに…。
 その碑(いしぶみ)写真が、ここへ掲載したものである。高さは、私の持っているメジャーでは計測不能。横幅だけで、1.8メートルもある。それ以上に問題なのは、その前に茂っている樹木の枝。写真もまともに撮れないので、まずは手の届く範囲の枝を折って何とか写せる状態にしてから撮影。そしてそれ以上に悩ましいのが、恐ろしいほどの碑文文字数。手写用紙を取り出し、最初に数えたのがその一行文字数と行数。本文だけで一行43文字×行数28行。その他を合わせると碑表だけで1300文字にもなる。それをこれから細心の注意を払いながら一文字ずつ手写することになるが、1時間休みもせずに手を動かして手写出来たのはその三分の一。結局、碑陰の交名を抜かして手写が終えるまでに3時間半もかかってしまった。多分、これまでの栃木県内の碑文では1、2位を競う文字数ではないかと、その手写が終わったときには脚がけいれんするほどの疲れようだった。もちろん、これを手写した者は多分私以外には今までいないだろうという、半分はしてやったりの思いもある。もっとも、家内にその手写様子を見られたら、だから腰を悪くすると叱られそうである。帰路は、そんなヨロヨロした足取りで八幡山公園を降り、自転車を置いていた場所まで来たがまだ3時半を過ぎたばかり。そこで欲を出し、その近くの八幡山墓地を訪ねて、宇都宮の勤皇の志士として名高かい児島強介の墓を訪ねて手を合わせてくる。もちろん、しっかりとその写真やら銘文を書き写し、採寸までしてきたのは言うまでもない。本来なら、その墓表文字は強介絶筆の筆ゆえに手拓も欲しかったが、すでに本日の手拓用紙は底切れとなっていた。さあ、次回は暫くぶりに石友との愉快な石仏巡りである。今から楽しみである。
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