秋晴れのどうしようもない快晴の下、今回もママチャリで宇都宮市街地へ向かう。その最初は、上記に掲載した写真のもので今年の春に調査していた上記の「岡田梅嶺翁碑」の手拓が目的である。岡田翁は二荒山神社の楽人として六十年も勤めた人である。従って、その碑文の揮毫者は当然ながら宮司をしていた戸田香園である。しかし、草書体で全文が刻まれているために浅学の私には写真画面だけでは読めない箇所があるので、今回の手拓作業となった次第である。
この前にて、先ずは作業に入る前の一休み。そして風が来ないうちに水張りを行い、またももう少し乾くまでと一休み。その一休みが長すぎたのか、ふっと振り返ると最初に水張りした箇所上部は乾きすぎ位になっている。慌てて立ち上がり、墨入れ作業。そんな時に無理な姿勢で墨入れしていた私の腰が「グギッツ」と音がする。そう、またしても無理のきかない腰に負担を掛けすぎて、私の腰が悲鳴をあげた瞬間である。それでも、腰をかばう以上に今は墨入れが先として作業を進めていると、今度は嫌な風が吹いてきて、早くもそれが水張りした隙間を狙って入り込み、墨入れの終えた箇所から剥がれ出す。片手で紙を押さえながら、痛い腰をかばうこともままならぬまま、何とか作業が終了した。それでも、これでこの碑(いしぶみ)の内容が何とか理解できたが、その全文となるとやはり帰宅してからの解読が必要な箇所がある。
さて、作業が終えた所で腰の状態を確認。どうやら、痛いことに変わりはないが何とか動けそうである。もちろん自転車にも乗れる。そこで、ここで本日の調査を終えて帰宅するにはもったいないと、本日のメイン調査地である慈光寺へ向かう。
最初に調査したいのは、未だだれもその全文を調査していない、戸田忠至(後の高徳藩城主で江戸詰め家老だった間瀬和三郎=山稜奉行として多大な功績により戸田家を名乗るのを許された)が、その祖の間瀬家招魂魂として建立(正覚院法縁無塵上座が碑表)したもので、それはその招魂碑(上記掲載写真)の三面にに刻まれている碑文。それを撰文。揮毫したのがかの大橋訥庵(坂下門の変の首謀者)である。それだけにこれだけはどうしても手拓が欲しかったもの。しかし、現物に対面してみると、酷い苔の生えよう。しかも陰湿な場所にあるので薮蚊がものすごい。墓碑を綺麗にし、薮蚊と戦いながら水張りそして墨入れが終わるまでには優に2時間ばかりを要することになってしまったが、念願の手拓が手に入った嬉しさで思わずそれを碑面から剥がす時は笑みがこぼれてしまった。その他、墓域にはこれまで探しに探していた梅園春男の墓碑もあり、その他にも縣六石の墓碑などを調査終えた時は既に午後4時になっていた。そして気づいたのは、まだ昼食を取っていない事。今更昼飯でもあるまいと、空腹のままそれまでの嬉しさで腰の痛さも忘れていて、自転車に乗って初めて気づく愚かさであった。帰宅したら、また家内に馬鹿にされるだろう。それにしても今回はいつになく、成果の多い(尤も本日の新しい調査碑は四基のみだが)一日だった。
これで、宇都宮市街地の主な調査は終了である。それでも、詳細に各地の墓地内を調査すればまだまだ出てくることは容易く想像するが、些か神経衰弱のような碑塔調査にも疲れてきたので、後は郊外にある未調査の碑(いしぶみ)調査へと向かうことになるだろう。それにしても今日で、今年の4月から今回までで100枚もの手拓用紙を使い切ってしまった。。しかも7~8月は調査に出かけなかったのに。それなのに毎回、自分の手拓の下手には呆れてしまうが、これも自分の性格の現れだろうと思う。