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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

2009年7月25日も栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年07月26日 | Weblog

 たった一日で、腕と言わず顔までも日焼けを通り越して赤銅色になってしまいました。それにしても、昨日の午後からの暑さには参りました!。首にタオルを巻いての石仏巡りでしたが直ぐに汗でびしょ濡れ。水分補給が間に合わないほどでした。そんな中、朝方までの雨で湿気120%という山の中に入り込んでの庚申塚探しですから、ホント、この人は頭が狂っているとしか思えない有様です。それでも、前回には探し出すことの出来なかった庚申塚に辿り着いて調査でき、その後に森から出てきて風通しの良い場所で一休みした一時は、まさにこれぞ至福の時間でした。ついでに、今は個人宅の敷地内に取り込まれてしまった庚申塔2基をも調査でき、今回の庚申塔探しは大成功裏に終わりました。いつも、こうだと嬉しいのだが、それにはそれだけの苦労の連続を繰り返しているからだろう。
 そんなこんなで、更に今回も「今市の庚申塔」に洩れている庚申塔を、2基新たに記録することが出来たのには、これも一人でバンバンザイでした。また、
 最後の最後まで狛犬が鎮座しているのを知っていながら行かなかった、今市市内の報徳二宮神社へ早朝に行き、そいつを調査しました。これで、一応私なりの今市市狛犬調査は終了です。その数は総数で49対と片割れ1基の合計50です。この50という切れの良い数でもって今市市の狛犬調査に蓋をしたわけです。そしてその精査や報告は佐野市在住の山口氏にお任せすることにします。何しろ私にとっては、狛犬は門外漢という以上に主たる石造物調査から外れている項目なので、所在地と年号確認程度で精査はしていないからです。
 それにしても、ここのところの今市市石仏調査の効率がガクッと落ちています。早くも、今市市の石造物調査も落ち穂拾い的な領域に入ったなら喜ばしいことなのですが、どうもこの暑さにあるような気がしてなりません。公民館や神社があると直ぐに逃げ込んでしまい、休憩ばかりしているから少しも調査数が増えてこないのです。
 次回からは、早くも8月。8月初回は、少し今市市を離れて涼しいところでのんびりしたいと思っているところです。どこか、目新しい涼しい所はないでしょうかね~。まさか、毎年同じ渓流へいってこの歳で水遊びに興ずるだけでは能がないし…。
※ 掲載画像は今市市今市・市街地の如来寺(浄土宗の名刹)の墓地内に祀られている「御婆さま」の姿です。以外と、この御婆さまの存在はしられていませんので、掲載しました。
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またまた、昭和庚申年塔のデータを更新しました

2009年07月20日 | Weblog

 昨日の石仏巡りで、今市市の昭和55年庚申年塔を2基実見してきましたので、早速それを含めた最新の情報に更新しました。現時点で169基となっていますが、その中には情報だけで実見していないものが含まれていますので、特にその内の2基は所在地から判断してダブりかと思われます。
 前回の石仏巡りもそうでしたが、やはりそろそろこの時期の庚申塔巡りは限界のようです。草刈り鎌を振りかざし、庚申塔へ辿り着く前の草刈りから始めなければならない調査なんて、自分でも「馬鹿じゃない!」と思うからです。嗚呼、早く秋にならないかな~。と嘆きつつ。
 そうそう、ここへ掲載しました庚申塔は、今市市室瀬地区の庚申塚にある昭和55年の庚申塔です。ご覧のように、山の中で湿気があるためかその石面は苔で緑色しています。それでも、やっと探し当てた山の中で、このような庚申塔に出会うと嬉しくなって、暫くはその前でのんびりしたくなってしまいます。こんなことを書いていると、早くも次回にもそんな山の中へ入りたくなってしまいました(^o^)
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2009年7月18日も栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年07月19日 | Weblog
 朝、家を出るときはもちろん雨が降っていなかったが、行くところが山地の今市地区とあらば必ず雨が降るだろうと覚悟したとおり、宇都宮市の古賀志山裾を通過する頃にはワイパーを使わなくてはならないほどの雨になる。それでも、まあ一日中は降ることなくそのうち晴れるだろうと軽く考えて、今回は鹿沼市と宇都宮市に隣接する今市市最南端地区の小倉へ入る。この地区は、通過したことはあるが石仏調査は始めての地だけに、あちこちの細い路地を含めて探索すれば、道路沿いだけでも結構な数の碑塔がある。試しに、その一箇所を覗いてみたが、そこには私が注目している「百八燈」碑があった。しかし何しろ雨が降っているので、草むらの中を見に行っただけで足元どころではなくズボンまでビッショリ。しかも記録用紙までびしょ濡れで、これでは調査にならぬと雨が止むまでは石仏調査を諦める。勿論、次回のために目にした碑塔類の所在地を地図に落としながら進んで、この地区の鎮守様である三所神社へ到着。出迎えてくれた鳥居は、どう見ても江戸中期迄の建立となる姿だが、何としても紀年銘が読めない。諦め、境内に奉納されている昭和十五年銘の狛犬一対だけで、この地を離れる。次に向かうは、小代地区の星宮神社。ここへは1995年に男體山灯篭を探しにきた時に、古そうな鳥居があったのを思い出したからで、案の定読んでみれば、それは寛文十二年銘という古さだった。この頃から、雨が止んでくる。急いで境内の狛犬一対を記録してから、本当の本日の目的地である長畑地区へ向かう。その長畑地区下組の薬師堂には昭和庚申年塔等があるが、既に過去に調査済みだったが、その時に今市では数の少ない宝篋印陀羅尼経塔がありながら、その偈文解読の難儀さに途中で放棄していた。今回は、その宝篋印塔の銘文を読みたくて向かう。薬師堂前の農家のおばさんに了解を得てから、早速水洗いしながら解読を進める。それはほんの短い文字数だが、途中に余計な作文がしてあるので頭の中にある経文がスラスラと出てこない。仕方なく、一文字づつ丁寧に拾っていって時間は掛かったが何とか調査できた。そんな時、農家のおばさんが来て、良かったら薬師堂内にも石仏が祀られているから戸を開けて自由に見ていってくださいと言う。その言葉に甘えて上がり込むと、そこにはかつて来たときには薬師堂の裏側にあった十九夜念佛供養塔の舟型如意輪観音様が祀られていたのには驚く。いつの間にか、戸外の石仏が堂内に祀られていたのである。その後は、念のために、過去に調査済みの碑塔を面倒ながら再調査する。その後、せっかくここまで来たのだからと、すぐ近くにある大宮神社を覗けば、そこには平成十八年に奉納されたばかりの、出来の悪い狛犬一対があったので、やはり面倒がらずに近くへ来たときは再訪問すべきだと実感する。
 さて、その長畑地区から北のは室瀬地区。ここにも、ご多分に漏れず庚申塚があることは判っているが、これまで何度も来て地元民に聞き込み調査すれど、その場所が判らず仕舞いになっていた。それだけに、今回はこの集落の少ない家のどこで聞き込み調査をしてよいやらとまだ訪問していない農家を物色していると、畑の畦道に除草剤を散布している農家の方を発見。急いで車を降り、庚申塚の話を切りだしてみると、「私は、その庚申講員だから、その場所はしているよ」というありがたい話し。早速その場所を地図にして書いていくが、何しろ目標物が少なすぎるが、まあそんな事はすっかりなれてしまっている私のことである。大体の場所が判れば、後は自分の嗅覚を信じて探しだけである。と言うわけで、さっそくその近くへ来たが入口が判らず一度は通り過ぎてしまう。Uターンし、適当な路肩に車を置いて歩き出せば、生い茂った草の中に山仕事で使用する道を発見。しかしそこは雨上がりの道なので、入って直ぐに靴どころかズボンは膝まで瞬く間にびしょ濡れ。それでも自分の感を信じて分け入ってみれば、道路から200メートル程奥へ入った場所に立つ庚申塔を発見できた。そこで念願だった、5基の庚申塔を調査。調査後は、少しここでのんびりしたかったが、車を鍵もかけずに道路へ放置してきたのでそうもしておれず、急いで戻ることにしたがまたしても膝までのずぶ濡れの上塗りをする羽目になった。それでも、本日の最大の目標は無事達成。それにしても、朝8時から始めた石仏巡りだが、早くも12時である。4時間かけて調べられた碑塔の数は丁度20基。1時間当たり5基とは、何とも少ない数だがまあそれだけ中身の濃い証拠として、前回に辿り着けなかった次なる庚申塚調査のために平ヶ崎の琴平山へ向かうことにする。
 それにしても今日は、我慢がならぬくらい蒸し暑い。雨上がりの曇り空だというのに、全身は流れ出る汗でびしょ濡れである。琴平山の頂上駐車場で食事を取りながら、ここは一つ午後からの作戦を練らなければならないと考えている。
 そして午後は、その前をこれまでに何百回と通っていながら訪れたのは興味半分で境内を一眺めしただけの、今市中心地の滝尾神社。社務所に挨拶すると、どうぞどうぞ、自由に見てくださいという親切な言葉に嬉しくなって、その後は境内の興味ある碑塔の調査に入る。とにかく、この滝尾神社は歴史が古いだけに興味ある碑塔が沢山あり、興味津々となって調査しまくる。もちろん、境内にある3対の狛犬もついでに調査する。特に承應三年銘の五重塔と承應二年銘の石灯篭の素晴らしさに感激する。もっとも、そんな石造物に興味を示す人の方が珍しいものかも知れないが…。ついでに、近くにある、瀬川地区の高おかみ神社へも行き、既に調査済みながら男體山碑やら愛宕山碑に加えて、今回は日光型灯篭二基をも調査する。
 そんなこんなで、今回の調査は総数で46基となった。しかし、その中の8基が狛犬とは何たることかと、今頃になってゴロゴロ出てきた狛犬君達に呆れてしまう。多分これで今市の狛犬は総数で48基を実見したことになるだろう。狛犬調査の山口さん、この夏が終わる頃には今市市の神社巡りも終了するので、そしたら資料をお送りしますのでお楽しみに!。
 そんな訳で、次回も暑さの中に涼を少しでも求めに今市市へ向かうことになるでしょう。
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2009年7月11日も栃木県旧今市市の石仏巡りでした。

2009年07月12日 | Weblog
 朝起きると、いつもの湿気のある朝と違って清々しい空気が支配していた。早速昼食を終えるや出発し、前回に写真撮影や採寸を忘れた板橋地区の栖克神社へ着いたのは、何とまだ八時になっていない有様だった。ここから、前々週の続きとすべき大渡地区方面はいささか遠い。そこで、今回もこの板橋地区からの周辺地区石仏巡りとすることにした。栖克神社の作業を終えて、まずはこの板橋地区にあるという昭和五十五年庚申塔のまだ実見していない庚申塔探しから始める。その、あるという坪地区へ入り一通り自分なりに探索し、道路沿いや目に入る場所にはないことを確認してから、内の適当な農家へ行っては早速の聞き込み調査。しかし、どこのお宅へ伺っても、もちろんお爺さん等に聞いても知らないと言うので仕方なく、その内農家の入口周辺にある馬頭観音塔などの家畜塔調査に入る。と、そこへ自転車での方が通りかかったので引き留め、この坪内の碑塔所在地に加えて、お目当ての庚申塔を尋ねれば、「俺も知らないけれど、あの人に聞けば判るかも」と、一緒になって別の農家を訪問。そしてようやく、この坪の庚申塚が判明した。とはいうものの、相変わらずその場所はとんでもないところにあって、何の目標物もない田圃の畦道をズボンの裾をビッショリに、靴は泥だらけにしてしばらく歩いて行けば、そこは個人宅の屋敷林との境の場所だった。しかも、昭和五十五年庚申塔一基のみ!。あ~あ、これだから今市の庚申塔探しはハプニングがあって楽しい!
 ところで、今市市の庚申塚は面白いことに、その地区によって祭祀場所の方法が異なる。ある地域では、との境に当たる奥深い森の中に元文庚申年から始まる庚申塔が60年毎に築かれるが、その場所へは毎回の庚申講が開かれるときもお詣りにいかず、行くのは60年に一度の庚申当たり年に庚申塔を建立する時だけ、という場所。そしてもう一つは、60年の庚申当たり年毎に、新しい庚申塔を建立するには新しい庚申塚を別に築く地区、というように、大きく分けて二つの祭祀方法が見られる。この毎回場所を変えるのは、同じ場所へ庚申塚は築かないというその地区の決まりで、こういった場所の庚申塔探しが一番難しい。何しろ、地元の方の言う庚申塚へ行ってもそこには新しい庚申塔しか祀られていず、その他の庚申塔はまた別の場所にあるのである。従って、古い庚申塔の所在地ほどその場所を知っている方は少なくなり、その山の持ち主さえ「どこだったけな~」という有様の庚申塚さえある。
 いずれにせよ、今市市の庚申塚探しは大変である。とにかく隣りとの境に、それも山の中が多いという有様だから、庚申講に入っている方でないと、その隣の住人に聞いても判らない。また、庚申講に入っているお宅を訪ねても、ご主人が不在なら奥様やその若夫婦を初めとした家族の方さえ知らない有様なのである。ただ、その中においての救いは、どこのお宅を訪ねても親切に対応してくれることと、時によっては「そこは、案内なしでは見つからないよ」と、ご主人自らが先頭に立って案内までしてくれる優しさである。
 そんな次第で、今回の碑塔巡りでも、「今市の庚申塔」報告書に掲載されていない、大正九年庚申塔と昭和五十五年庚申塔の各一基を新たに実見できた。私にとって、今市市の石仏巡りの楽しさは、この地区住民とのふれ合いと共に、庚申塔に限らず思いもかけない碑塔に出会えるからかも知れない。そんなこんなで、今回はまたしても新しい庚申塔と共に、どこにも記録のない「男體山」山岳碑を一基追加確認できた。そんな次第で、今回の石仏巡りは成果大なるものがあり、夕方5時頃迄の碑塔調査に専念したわりには40基に満たない調査数だったが、満足して一日を終えることが出来た。
 それにしても、くどいようだがこの季節の碑塔探しは難しい。足元近くに庚申塔がありながら、それ以上に伸びた夏草に覆われていて全く気付かずに離れてしまい、後で聞いたらそこに間違いなく碑塔が隠れていると言う地元の話しに、仕方なくまた戻って探索すれば、ほんの一歩ほど山の中へ足を踏み入れれば草むらの中から現れた始末に、山中で一人苦笑いである。また、広い山の中をどんなに探しても見つからないので諦め、下山してまた聞き込み調査をすれば、その直ぐ側を通っていながら5基も庚申塔が建立されている庚申塚が発見できない始末。そこへは、この夏場の暑いなかを登る気力をなくし、次回への繰り越しとする有様だった。
 それでも、疲れたら近くの神社を訪問して付随石造物を調査旁々一休みをしたので、元禄年間や享保年間の鳥居に面白い狛犬なども記録できた。特に、午後になって訪れた明神地区の熊野神社(これがまた、場所が一般の方には分かり難く、地図帳などには記しもなく、しかも民家の庭先から道とは言えぬ酷い山道を登った山頂にある)は、石造物としては明治時代の鳥居に灯篭しかなかったが、その山頂からの眺めと涼しさに思わず長居をしてしまった。
 さて、とりとめのないことを書きすぎたので今回はこの辺で終了しましょう。次回も、今回調査した碑塔の幾つかに不備が見つかったので、同じ地区を巡ることになるだろうと思っている。
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石川博司氏よりの便り等

2009年07月08日 | Weblog
本日、青梅市の石川博司氏よりメール便にて「日本の石仏」最新号と一緒に「石佛雑記ノート28」の二冊が届く。
「日本の石仏」機関誌は、これで2冊目が届いたことになるが、石川氏からは念願だった全国の昭和庚申年塔が何とか「日本の石仏」誌に纏められたという手紙が添えられていた。これで、全国的な昭和庚申年塔の一応の造立数が把握されたことになり、何よりも石川氏の長年の努力に感謝したい。私的には、栃木県内の当該碑塔の未実見調査塔がまだ十数基残してしまっているので、今度は私の方が急がなくてはならなくなってきた。「早く公表しろ!、そうでないと死んでしまうゾ!」と、石川氏の尻を叩いてきた私としては何とも忸怩たる思いである。何しろこの季節では、山の奥にある庚申塔を探すのは困難で、早くても今秋以降まで待たなければならないのだから…。
 そして二冊目の「石仏雑記ノート28」は、中山正義氏の逝去に伴う、氏の追悼の意味で纏めた中山著作業績や石仏巡り等での思い出となっている。特に、中山著作業績項目は、これから当該石造物を調査したい人には便利な物となろう。私も私なりに、中山さんとの思い出を綴っておきたいとは思いつつ、実行に移せないでいる。それは、中山氏の人となりがそうさせるのであって、追悼集など出しても中山氏は喜ばず、それよりも何よりも中山氏との思い出の方を時々でも良いから思い出した方が余程喜ぶことを感じているからだ。」
さて、そんなこんなで、ついでに別HPに掲載している「石造物データ集」中の昭和庚申年塔を最新の物に差し替えて置いた。しかし何故か、前回より1基少なくなってしまったが、たぶんそれはダブり分が未実見塔の中に含まれていたからだと思う。いずれにせよ、これが最新情報であることに変わりはない。
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2009年7月5日も栃木県今市市の石仏巡りでした

2009年07月06日 | Weblog
 特別に、6月20日と27日の石仏巡り記を別HPの方へ遅ればせながら掲載しておきましたことを記しませんでしたが、興味ある方は御笑覧下さい。それにしても、この1ヶ月間は本当に忙しい思いをしました。その中、石仏巡りだけは何とか予定通り実行できたのは「流石に私らしい」と、変なところで感心しています。
さて、
2009年7月5日も今市市(現・日光市)の石仏巡りでした。
 早いもので、今日は中山正義氏が亡くなってから一ヶ月、いわゆる月命日です。何となく朝早くから石仏巡りに出かける気分ではなく畑仕事などで過ごし、それも一段落した午前10時頃になって、ようやく宇都宮寄りの今市地区にある神社巡りでもしてこようという気分になり、随分遠く離れているが、仏壇に中山氏のために線香をあげてから出かける。
 最初に向かうは、旧今市市岩崎地区の岩崎神社。しかし、その途中の宇都宮と今市との境近くにある名前ばかりの神社へ立ち寄り、過去に調べた碑塔の再調査をして時間を無駄使い。この周辺の神社は、かつて男體山碑を求めて足繁く通った場所だが、付随物までは調査していなかったので、鳥居や狛犬に灯篭などの調査を行う。
 ようやく着いた岩崎神社。特に鳥居は古そうなので、その紀年銘を探すと「寛文十三年癸丑二月吉日」と読むことが出来た。現時点での、今市市最古の鳥居となって一人で喜ぶ。狛犬は、昭和四十四年という新しさであったが、一応念のために記録だけは取る。その他にはめぼしい物はなく、簡単に諦めて次なる手岡地区の人丸神社へ向かう。その人丸神社へ入る手前には廃寺跡があって、そこには沢山の碑塔が並んでいるがそれらは既に調査済みなので、今回はパスして人丸神社へ向かう。境内には二対の狛犬がいるが、特に参道中頃にいる狛犬はいかにも江戸時代生まれの狛犬といった姿をしているが、残念なら紀年銘は見つからなかった。その人丸神社で、幾つかの興味ある碑塔を調査してから、例幣使街道へと向い、文挟の二荒山神社に到着。ここには、今市地震の復興碑があるので、最初にその全銘文を筆記する。復興に至までの経緯が事細かに記されているので、その文章を読みながらの筆記は楽しく30分以上を費やしてしまったが、それなりに楽しい調査となった。続いて、境内にある鳥居や狛犬を記録して明神地区の栖克(すみよし)神社へ向かう。ここでも、最初に迎えてくれたのは今市地震の復旧碑であった。当然ながら、私にとっては興味ある碑なので丁寧に銘文を筆記する。そして鳥居を潜るが、この鳥居もいかにも江戸期の表情をしている。しかし、両方の柱を見るも紀年銘はなく諦めかけて額束をふっと見れば、その額束に「享保二年丁酉十月日」とあり、もう少しで紀年銘を不明とするところだったと、思わずここで苦笑する。それでも、地元の方に船村徹氏宅前に大きな庚申塔があるのを教えてもらったので、この明神地区へ次回来たときはそれを実見しに行こうと思っている。
 さて、境内には狛犬が鎮座していて、それは大正十二年のもの。素早く記録と写真を撮ってから、それよりも私にとっては興味ある稲荷社前に奉納されている石燈籠の方へ向かう。紀年銘は明治十二年とある新しい物だが、その台座には狐像が陽刻されているのに興味を持ったからだ。勿論その前には、狛犬ならぬ狛狐像一対が奉納されているが、御神燈の台座に狐まで陽刻されているのは珍しく興味津々となって写真を撮る。
 さて、この時点で時刻は早くも午後3時半。まだ、昼食も取っていないが、それ以上に困ったのはデジカメの電池が切れてしまったこと。予備の乾電池、過去に使い切ってしまったものしか(馬鹿だから、使用済みの電池までご丁寧に取って置いた)手元になく、近くにコンビニといった便利なお店もない。これが、今回の石仏巡りの潮時と考え、次回以降の今市市訪問のために今まで余り走っていない道を選びながら帰路に付くこととした。今回、珍しくも再調査碑塔を含めても庚申塔は1基も記録することはなかったが、代わりに今市地震の災害碑を2基も精査出来たことに成果大とした。
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