今回掲載した石碑に見る銘文だが、改めて石碑に記すべき碑文内容とはどう有るべきかを考えさせられた。今回の場合は、石碑分類としては「公共事業における記念碑」と位置づけたが、其の場合の撰文内容として記さなければならない必須条件とはなんだろうか、と。そもそも、今回のような石碑内容を撰文するには、まずその工事の必要性と地元の切実なる願望がいかほどであったかを記し、次いでその工事内容だろうと思う。と同時に、後世に残す意味からも撰文者の優れた漢文教養が求められると思う。それらを勘案して初めて、その石碑の前に立った人々に感銘を与えられる石碑となるのではないではないだろうか。そうしてこの碑文を見た場合、まずその道路新設の場所が今となっては初めて訪れた人には何処だか判らない。また、名文の出だしにしても、足利の「著名」な人物を挙げているようだが今ひとつで、朝鮮王の文宗が突然出てきたりと、何か文脈が繋がらない等、読んでいても「何で?」という繋がりになっている。そして結語としては、「私の云うことが信じられないなら‥」という、碑文としては思いもかけない言葉で結ばれている。尤も、この銘文の奥深さを理解できない私の方に問題があるといわれてしまうとそれまでだが、私の期待した銘文内容以上に大きな石碑なので、今回ばかりは手拓する気分をなくして手写だけで終わらせてしまった。
なお、同地にある別の石碑は、前回にここへ掲載した「開鑿新渠碑」である。その二基の石碑に見る撰文内容の違いを読み比べると、その違いが歴然とするだろう。
石碑に刻まれた文字の清書で、悩まされるのが銘文を揮毫した書家の創作文字。今回も、そんな文字に出会いました。それは3行目の最初の文字で、本来なら「匯(カイ=集まる)」という文字で、掲載した拓本画像を見れば判るように、その「匯」の文字に更にサンズイを左側に付けている。その下の文字は「湊」の文字だから「匯湊」でカイソウと読み、「水がめぐり集まる」という意味になるかと思います。その本来の「匯」の文字にサンズイを更に付け加えて、「本当に酷い水量が集まる」という意味にしたくて、本来の文字の意をさらに強調したかったのかも知れませんが、やはりそれでも石碑に残る文字としては無理があるかと思います。文章内容としては、文句の付けようがないだけに、私としては何とももったいないことだと思いました。これをご覧の皆様は、どう考えるのでしょうか。あるいは、私の正字文字に対する思いが強すぎるのでしょか‥。勿論、その文字は異体字としては存在を確認できませんでした。念のため‥。
次回は、同地にあるもう一つの道路を開通させた石碑があります。こちらは、銘文を読んだだけで拓本は採らなくて(本体高さが3メートル近くもある大きさなので、余計に手拓する努力が無くなったのも事実である)良いと思うほど、私にしてはその内容が酷いものでした。記念碑内容として余りにもお粗末な内容だからです。それを、出来たら掲載しようかと思っています。
上記に掲載したのが、昨日掲載した拓本の銘文清書です。調査した内容を提出しますので、ついでに訓読を付け加えました。本当は意訳すれば良いのでしょうが、面倒なので省略です。まあ、全体的な書いてある内容は判ると思うので、これで勘弁してもらいます。(笑)
そしてこの墓碑の建立年代の推定は、撰者の寺門良が慶応四年に亡くなっているところから、南泰先生が亡くなってから7回忌に当たる万延元年ではないかと推定しています。なお、揮毫した「謖山橋本正誠」の経歴が出身地を含め全く判らないこと。誰か御存知でしたら是非に御教示下さい。
当地は、例年になく早い冬本番の寒さに毎日震えている。酷暑の中の石碑調査が終わったのもつい最近のことのように思われるが、今度はその中での石碑調査となる日々が来春まで続くというという次第である。嗚呼、春が待ち遠しい!
さて今回は、其の中を赤城山おろしが吹き荒ぶ足利市西部地区で、上記に掲載したような拓本を採ってきた。この墓碑の採択許可願いに伺ったのも、思い返せば今夏の汗の吹き出る時期だった。
さて、この墓碑に建立年号は刻まれていないが、この墓碑の撰者が寺門 良とあるので、江戸最末期であることは確かである。そのためか、或いは根府川系の石質のためか、碑面に剥離状態が現れている。このままでは遅かれ早かれ、そう遠くない時代に全文は解読できぬようになってしまうだろう。その直前に、こうして手拓出来て後世に残せるようになったのを、独り喜ぶ。日本全国には、このような貴重な石碑関係碑が沢山あるだろうに、そのほとんどはろくに調査もされぬまま朽ちるのを待っている。ぜひ、今の内にそれらの碑文を後世に残そうと活動する人々の出現を願っているのは私だけなのだろうか。呆れるほどの昭代の今だから、程ほどにノホホンと生きるのは実に楽しいだろうが、果たしてそれだけで良いのだろうかと、疑問に思う人の出現を70を過ぎた今だからつくづく思う、これは独り言である。
さて、只今は銘文の最終清書中!。明日には出来そうなので、そしたらまたそれをここへ掲載しようと思っている。何しろ、江戸末期に、皇国古来の医方を追い求めた珍しい医者の内容なので‥。
昨日の足利地方は、「風もなく穏やかな天候です」という天気予報を信じたばかりに足利市まで行ったが、豈はからんや赤城山からの寒風が吹き荒れている。最初は、女浅間神社にある男体山に関する石碑を手拓する予定だったので、渡良瀬川の河川敷駐車場へ車を止めて歩いていく。勿論、今日の強風では手拓作業は諦めて現地確認のためである。そして碑面の状態やら手拓時のための寸法を採っただけで早々と退散。碑面にノロが付いているので水洗いしなければならず、来春に行くときは駐車場からバケツ一杯の水を持っていかなければならないが、これも仕方がないだろう。それでも幸いに、脚立までは必要がないので良かった!
次に訪れたのが、朝川町にある四所神社。ここへはかつて石仏巡りの折に調査済みだが、上記掲載した写真が何としても見つからないので、再度の撮影に行った。そして下山時に転んで腰を痛め、手の小指を擦りむいてしまう。その時は、「なんて~こった」と、自分の老いを嘆いたが後の始末(笑)。帰宅してから、早速に前回に調査したデータを見てみれば何のことはない、左側台座裏にあった紀年銘を見逃してしまった。ホント、お粗末な話である。
この時点で、時間は既にお昼。トイレのある足利市公園へ行って一休み。そして思うに、移動しての午後から石碑手拓には時間が少し足りないこと。そこで、公園内の林の中ににある飯塚瀬北翁の漢詩拓本を、人にあげてしまって自分の物がないこと。あれなら、3時間もあれば採れると思い、今回はそれを採択して終わりにしようと考えた。案の定、森の中へ入れば風がなく絶好の手拓条件。ルンルン気分で手拓して3時前には手拓完了である。その石碑は、私の数ある石碑中でも大好きなものだけに、時間をかけて丁寧に手拓したはずなのだが、今回で3度目の作業ともなれば手馴れたもので、半切画仙紙3枚半の作業ながら意外と早く完了してしまったわけである。勿論、出来栄えも申し分なし。(前回の拓本画像は、今年の7月15日にこのブログに掲載してあります)。
今日の最終予定は、前回に調査した千歳橋之碑の銘文の再確認だったが、気分を良くしてそのまま293号線で帰宅する。次回は多分、馬頭町のお寺さん墓域にある廣羣鶴刻字の石碑を手拓してこよう思っている。何しろ今回の天候で、そろそろ県南地方の拓本採りは余程の好条件が揃わなければ出来ないだろうと思ってのことである。
少しばかり、予想していたよりも一日遅くなりましたが(石碑調査に出かけてしまった影響ですか!。笑)、上記のようになりました。閑と興味のあります方は、対比してみてください。何しろ拓本が無いものですから字態や異体字の正確さに多くの時間を取られてしまいました。相変わらず納得はしていないのですが、楷書を明朝文字で表すのですから無理があることは百も承知での清書文字です。意味を確認しながらの清書なので、銘文的には間違いが無かろうと思いつつ、今回もいつものように一抹の不安を抱えながらの清書です。つくづくと、拓本の必要性を感じました。
今回の清書の為に日時を使いすぎて、調査&拓本を終えながら未処理石碑が溜まってしまいました。明日からは、また新しくそれらの銘文清書に入りいます。
昨日3日は馬鹿陽気となり、現地に着くなり下着1枚となっての手拓作業でした。特に今回のは石碑4面にある文字が酷い汚れようで、その文字出し水洗いに1時間近く掛かってしまい、下着1枚でも汗だくだくと云った有様でした。小さい石碑ながら、4面の手拓が終わったのは12時に5分前という時間に我ながら呆れました。帰宅してから眺めれば、その三分の二位しか読めない有様。今は前回にここへ掲載した碑文の作字中につき、それが終わったなら難問に挑戦するのが大好きな私としては、他に未処理の石碑を抱えながらも早速にこの読めない文字解読に挑戦するつもりです。勿論、一度で解読できるとは思っていないので、次回に足利へ行ったときは再度、実物とニラメッコしてこようと思っています。それにしても、文化元年の石碑にしては欠損箇所も多すぎる。思うに、元々が千歳端の袂にあったので、馬さんの手綱を結んだりと手荒い扱いを受けてきたのだろう。いずれにせよ、その時代の千歳橋の話なので貴重な資料になるだろう。ちなみに、足利市史の古い方の書籍に銘文が掲載されているが、御多分に漏れず誤り箇所がザッと見たところだけでも結構ある。これも、解読挑戦の一つの励みになるだろうと笑いつつ。また、当然ながら折角に足利市まで来たのでこれだけで帰るわけがなく、その後は大町の三神社へ行って既に実物を見ている石碑の手拓してから帰宅した。それにしても、暑かった一日でした。
10月は毎週末になると決まって天候が悪く、拓本採択には泣きました。それでも、10月は意外と成果が多くて8基の石碑を調査出来ました。拓本が採れない石碑3基は、暫くぶりに本気になって手写して来ました。参考のために写真も撮ったのですが、やはり拓本には負けます。特に今回御紹介する碑文は、寛政八年に建立されたもので、しかも約760文字有り、ご覧のようにワープロにある明朝文字で最初の銘文清書をしたのですが、上記掲載した画像にある赤文字は異体字を含めて全て作字文字の対象であることを表し、最終的には全てを作字で仕上げなければならない文字です。これからその作業に入るのですが、初回校正までには早くても3昼夜は必要となるでしょう。そしていつも恐れるのは、その中の漢字に不安なものがあれば、清書したのを持って再びこの石碑の前に立たなければならないことです。それだけに、その前に少なくも素読だけはして、単語の意味だけはおさえておくことにしましょう。それでも、こうして寛政時代の文字が自分の手でよみがえらせる嬉しさに、心ワクワクといった所です。それにしても、ここまでの作業で感じたことは、流石に太田錦城の撰文だけに何と素晴らしい内容の漢文か(全文の読み下しは無理だろうと思いつつ)と。それというのもこの作業に入る前にしていた、明治30年代の石碑銘文のお粗末さにウンザリしていただけに、本当に眼福ものです。
そんな、文字変換が終わりましたら、気分次第で今回の赤字銘文文字がどのように変わったのかを、ここへ掲載したいと思っています。