石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

8月26日はツバメ君の放鳥です

2006年08月27日 | Weblog
昨日、8月26日は、宇都宮を5時半に出て栃木県藤岡町の渡良瀬遊水池へ行って来ました。その目的は、県民の森から預かっていた傷病ツバメの放鳥です。7月20日に預かってからですから、随分と放鳥までに時間がかかってしまいましたが、現地で3時間近くたっぷりと周囲の環境に慣れさせてから放鳥しました。その飛び方は、毎度の事ながら野鳥の生命力の強さを感じさせるたくましい飛び方で、私達夫婦のいる上空を何回もお礼の意味を込めてか旋回しながら、やがて空高く芦原へと飛んでいきました。この、無事に放鳥出来た感動を味わえたくて、このボランテァをしているのかも知れません。

その後、せっかくここまで来たのだからと、谷中村史跡保存ゾーン内の延命院跡を訪ねて庚申塔やら十九夜様等の碑塔を見てきました。
今日は、ツバメ君の放鳥が第一の目的のため、何となくその後は石仏調査モードに入れなくて、数カ所を訪ねただけで早めに帰宅してしまいました。
それでも、過日に佐野市在住の山口氏からご教示ありました、藤岡の富士浅間神社へ行って二猿庚申塔を見たり、新町の歓喜院跡を訪ねました。歓喜院跡にある五智如來は、正徳年間ながら見事な像容で、また石文も梵字を含めて沢山あり、写真に撮っただけで興奮物です。この歓喜院跡の石像物調査は、その他にも素晴らしいものがありますので、その調査には黙って半日はかかるだろうと、今回は場所確認と碑塔確認だけで離れました。

そして今日は、早朝から秋ダイコンの種を蒔く準備の畑仕事をしました。涼しい気候なれど、やはり畑仕事は重労働で汗ダクダク。隣のスイカ畑には、小さな末成りが実っているので、そいつを手で割っては汁をすすって水分補給です。そんな仕事も午前10時までに終了して、今はシャワーを浴びたさっぱりした身でパソコンのキーボードに向かっています。

さて、いよいよ8月も私にとっては今日で終わりです。ここ数年、家内の両親を含めて全親の介護から解放されたのを良いことに、毎週石仏巡りを重ねてきましたが、来月九月からは、その石仏巡りの日数を大幅に減らそうと思っています。つまり、毎週出かけていたこれまでの石仏巡りを、その半分の月に2~3度にしようと思います。その理由は、石仏ばかりに趣味の時間を取られすぎて、その他の趣味がすっかりおろそかになってしまっていたからです。それは、平地の雑草に山地の山野草調査、山登り、自然風景の写真撮影等々にも、以前のようにもう少し本気になって取り組む時間が欲しくなったからです。結果的に、それら全てが中途半端に終わろうとも、石仏だけが人生唯一の趣味にはしたくないからです。そんな訳で、この石仏HPも更新が滞りがちになりますこと、ご了解いただきたいと思います。
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8月19日の石仏巡り記

2006年08月20日 | Weblog
昨日19日は、栃木県藤岡町へ行って来ました。藤岡町と言っても、その西部地区でいわゆる三鴨地区です。目的は、この地区の未調査のままで放り投げていた宝篋印陀羅尼経塔の銘文調査と、願成寺跡にある「橋供養塔」の拓本取りにありました。
それにしても昨日は、今年最高の暑さでした。流れ出る汗も塩水となり、肌はジョリジョリ。そんな汗をふき取るタオルも、少し干しておくだけでカラカラに乾いてしまう有様に、「こりゃ~、今日は熱中症で倒れて俺も終わりか」と、冗談半分、半ば本気で考えました。それなのに、それなのに、そんな炎天下で、宝篋印塔に刻まれた銘文を手書きで書き写しているのだから、ホントッ馬鹿な私です。それでもこの頃は、大きな麦わら帽子を被って作業するようにしています。が、腕だけはどうしようもなく、屋外労働者のそれと同じく赤銅色に輝いています。
次は、その炎暑の中での拓本取りに挑戦。その「橋供養塔」は、3年ほど前に佐野市の碑塔調査のときに見ていたのだが、その時は藤岡町という事もあって所在を記録したに過ぎなかったが、内容は非常に面白い物。その拓本を今日は採りに来たのである。タワシで掃除しただけで、流れ出る汗は滝のよう。その時点で、今日はその為にここへ来たとはいえ、手拓は止めたくなる。桜の大木の木陰へ逃げ込んで暫し休息&思案する。「今日の目的の一つが、この橋供養塔の調査のため。それを逃げては、今度はいつになるか判らぬ」と自分に言い聞かせて、作業を開始する。日の当たる面は、水張りするやたちまち乾いてしまう。加えて、南風がある。いつものような方法では、採拓どころではないので画仙紙にしわが出るのを恐れていては出来ぬと、それこそ碑面に画仙紙を当てるや水をぶちまけるような感覚で拓紙を貼り付け、直ぐに墨入れ。何とも荒っぽい作業だが、以外にもこの方法で手拓の出来は上々。文字の全てがはっきり読めるではないか。
反対側は、画仙紙を碑面よりも表に出すと、南風にあおられて途中でめくれてしまうのは目に見えている。そこで、碑面サイズより少し小さくした画仙紙を作り、これも手荒く張り付け、墨入れは電光石火のごとく済ませて無事に完了。
この時点で、今日はまだ10基にも届かぬ碑塔調査数ながら、11時半を過ぎている。全身汗だらけの身を少し乾かそうと木陰で風通りの良いところへ移動して大休止。そして面倒だからと、ここで少し早いが昼食とする。一般の人には信じられぬ事ながら、私の夏場の昼食は、熱々のラーメンである。「暑さは、熱さを以て征す」という訳ではないが、それでなくても汗ダクダクなのに、その体にそれ以上の熱いラーメンを流し入れる事によって、何となく元気になるから不思議なものである。そしてこれが、結構旨い!勇気のある方は、ぜひ一度ご体験を。 <その後、この場所で30分ほど昼寝する>

さて、午後はどうしようと考える。今日の目的はだいたい終了したので、このまま帰宅しても良いのだが、それには時間がもったいない。そこで、この周辺のまだ見ていない庚申塔や未記録の碑塔調査を気分のなすままにしようと考える。今いる、都賀地区に隣の大田和地区に甲地区。それと、先月に来てろくに調査できなかった大前町の大前神社前にある碑塔群調査として出発。そしてその後、3時半まで炎天下に石仏調査を為して帰路につく。
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8月12日の石仏巡り記

2006年08月13日 | Weblog
昨日12日の石仏巡りは、栃木県藤岡町と岩舟町の一部へ行って来ました。その最大の目的は、曇天でないと旨く撮影できない写真撮影にありました。それと、溜めてしまった藤岡町の宝篋印塔を纏めて調査しようと、何と一日で6基もの寶篋印陀羅尼經銘文を書き写すことが出来ました。それにしても、藤岡町は宝篋印塔が有りすぎる。あまりにもの多さに嬉しい悲鳴をあげてしまうほどである。それを目的に行きながらも、流石に6基目の銘文を写し終えた頃にはうんざりしてしまった。やはり、一日での寶篋印陀羅尼經塔の調査は3基止まりが良いところでしょう。
さて、昨日は朝からどんよりと曇っているのを幸いと、藤岡町太田地区の公民館を訪ねました。ここにある、二童子付きの元文庚申塔が今迄は何としても良い写真が撮れなかったのです。その理由は、一度でもここへ行った人なら私の話が納得するような、それはそれは写真撮影泣かせの場所なのです。同様に、ここにある宝篋印塔も同様で、銘文は何と言うことも無いのに、その写真となると日中では何としても様にならないのです。それらを今回ばかりはじっくりと腰を据えて撮影できました。
その後は、これまでに存在を確認しながらついつい面倒で調査しなかった周辺の寶篋印陀羅尼經が刻まれた宝篋印塔の銘文読みに集中しました。つまり、太田公民館に浄光院に都賀地区の中居公民館に大谷田公民館の都合6基です。流石に、近くの共同墓地にあるのは次回へ繰り越しにしました。それでも、今日はわずかこの数カ所だけで一日を終えてしまいました。
天気予報では、午後3時過ぎからマチガイナク、雷雨があるとのことで、その3時になったのを潮時と少し早いが今日の石仏巡りを終えて藤岡町を後にする。確かに、相変わらず曇っていていつ雷雨があってもおかしくないが、私の通る上空からは一向にその気配がない。そこで岩舟町へ入ってから、それならもう一仕事と、過日岩舟町の観光協会理事さんからメールでご教示いただいていた「明治天皇御野立所」の記念碑があるというので、それをついでに調べることにする。場所は、「日本一小さな博物館」と銘打っている「岩舟石の博物館」東側の山の上である。行ってみると、なるほど大きな記念碑で高さが336センチもある堂々としたもの。内容は、明治天皇崇拝ものだが、一応は石造物なので記録を取り、裏面にあるくだらぬ銘文を書き写してから写真に納めて帰宅する。

そして今日は旧盆入り。午前中にお墓へ行ってご先祖様を迎え入れる。その後は、取り溜めてしまったツバメ君の写真プリント。これだけで午前中は終わり。午後は、何となくのんびりしてからパソコンに電源を入れ、只今これを打ち込んでいる。明日は、あちこちの家へお線香あげに行く予定。そして突然話は変わるが、今年の長梅雨で我が家のスイカは今頃になってようやく成長過程に入った所。最初に実ったスイカは既に食べてしまったので、いつもならこの時期、毎日一人1個づつあてがわれるスイカも今年の旧盆には食べられないという一抹の寂しさがある。
そんなこんなで、毎年そうなのだが、この旧盆中は以外と休みがありながら石仏巡りには出かけられない。昨夜、石仏DBを見ていたら栃木県野木町の江戸前期までの庚申塔中に写真がないのを見つける。これはマズイ!、と思いながらも野木町は宇都宮からだと少しばかり遠い。本来なら、この連休中に写真撮影に行きたいところだが…。
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8月5日は、ただ単に暑かっただけ!

2006年08月06日 | Weblog
昨日、8月5日は國學院生2人を連れて、栃木県の勝善神調査に行きました。若かった頃の自分を思うと、今回のように年の離れた大先輩や先生に沢山の迷惑を掛けたので、少なくも今回はそんな反省と共に私も同じように若い人達にしてあげなければ恩返しにならないと考えたからです。
いや~、それにしても暑かったですね。昨日は、碑塔案内という事もあって気が楽だったのですが、これがいつものような石仏調査だったら途中で熱射病になったことでしょう。
ところで、来週は早くも旧盆行事の始まりです。いつもこの期間は、なんだかんだと雑用があって思うような石仏巡りは出来ません。と、来週の石仏巡りも成果がないことを今からそれとなく予告です。
それでも、いま県から預かっているツバメ君を、その旧盆中には放鳥しようと思っています。我が家の周辺では、野生のツバメ君の姿が見えなくなったので、一時的にツバメ君達が集団となって留まる渡良瀬遊水池まで運び、そこで放鳥することにしています。従って、その折りに少しは藤岡町周辺の石仏巡りが出来るかと思っています。

前回のこのブログで、「歴史考古学」に掲載された内容の意見を書きましたところ、そんな方法が簡単に出来るならその見本を見たいというメールを頂いたので、今回の石仏巡り報告の方は、その内容を掲載しました。興味のある方はご笑覧下さい。但し、これは少しパソコンを出来る方なら誰でも知っている、また既に行っている方法だと思いますので、特段に目新しいことではありません。あくまでも、PCを使わぬ方たちへのご紹介です。その為、詳細な操作方法などは大幅に省略して掲載しています。

それでは、益々の暑さの中、石仏巡りを行っています皆様のご健勝をお祈りして!
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風化石碑の解読と復元ー複写法を読んで

2006年08月03日 | Weblog

 知人から、歴史考古学研究会発行「歴史考古学」第57号 2006年3月号の中の抜き刷り「風化石碑鑿跡が残っているー風化石碑の解読と復元ー複写法」塩原 都氏論考を頂いた。要約すれば、拓本を取った石文をいかに解読するかの方法論で、ここでは主にコピー機を使用した方法での解読しやすい複写の仕方を述べている。
その内容、はっきり言って時代錯誤である。コンピュータの発達している今、このような方法はそのパソコンを利用しない、出来ない人々の方法論であって、還暦を過ぎていても少しパソコンに慣れていれば、パッパッパッとキーボード操作でものの数秒で出来てしまうことを、延々と紙面を無駄使いして述べている。
 当然ながら、コピーを繰り返せば拓本文字は劣化してしまうが、パソコンに取り込んだ画像はそんなこともなく(基本を知っていればの話しだが)、自由自在に文字画像編集から拡大まで思いのままである。もちろん、パソコンでタンポでの墨入れ追加も自由に出来るし濃淡なども思いのまま、またその論考の中で述べている鏡像などはクリック一つで瞬時に出来てしまう。今は、そういう時代なのである。それよりも、なぜ文字を誤読してしまうのか、その原因推理の方がもっと面白かったのに、と思う。(それでは論文にならないか…)

 もっと大切なこと、それは私にとってそこに現れた文字が「読めるか」どうかにかかっている。その「読めるか」とは、文字の知識の無さから来る恐怖であり、漢文、古文、異体字、中国語、台湾語、全てに長じていない私には、そのことの方が問題なのである。学生時代には、漢文は好きな学科であったが「好き」と「出来る」は別問題であることを多くの石碑に出てくる願文から悟らされ、今さら漢文や古文書解読教室に通うことも出来ず、たった一文字の解読に数日を費やす有様。それでも、解読できればバンバンザイで、その多くは不解読文字となって、空しく空白の口マスを表記する有様である。
 しかしそのロマス、それには以下のような4種類の分類があると自分で区別している。

1、[不解読]=いわゆる、文字の形ははっきりしていながらも、「私には読めぬ文字」という意味であって、解読に長けた人や博学の士には簡単に読めてしまうかも知れない文字のことである。あくまでも「私には不読」という文字が石面にあることを意味する。特に異体字には悩まされるが、それをクリヤーすれば今度はいわゆる書家による創制文字に苦しまされること多々である。
2、[未解読]=何の努力もせずに文字存在確認だけで済ませたもので、後日の再調査再読を意味している文字のことです。その意味では(1)の以前にある文字のことです。(これって、面倒なときは時々行ってしまいます)
3、[不読]=私のみならず、恐らく誰も読めないだろうと感じる、文字の痕跡だけや砂岩などの酷く摩耗した文字があることを確認したものです。こうした文字を読んでしまう御仁が私の先輩にいることも事実ですが、その人を神様としています。尤も文字が読めないのに、深読みして前後の文字から判断して「無理に読んでしまう」猛者も時にはいますが、これは特に慎む行為だと考えています。後世に恥をさらす結果となります。
4、[不明]=欠損や剥離などによって、文字があったことが判る箇所のことです。現実に文字が無いのですから、これぞまさしく誰も読めません。推測は可能な時がありますが…

これを、石仏研究者の方々が統一してくれないので、例えば「字字字[  ]字字ロ字字」となっていても、その虫食い箇所は[不解読]なのか[未解読]なのか、それとも[不読]なのか[不明]なのかが、そこからは一切判らないのです。その方が、問題ありだと思いませんか。それが[不解読]や[未解読]文字なら挑戦のし甲斐もありますが、行って実見すれば[不明(欠損などで読めない)]該当文字だったりすると全くのガッカリ物です。
 そんな、論議がこれから博学の皆様によって発展し、一つの方向へ向かえば何と便利なことかと、つまらぬことを考えました今回の読後感です。
※それ以外に感じたことを述べると、調査時には誰でも手写するものだが、その手写するときに転記間違いを起こすこと。拓本を採らぬ時には特に細心の注意を以て手写すべきである(私の場合は、手写だけの場合は最低で現地に2回は行って再校正します)。多くの(自分のをも含めて)方の報告書(特に市町村の発行する報告書)ではこの手写時の間違いが非常に多く見られます。その最大の要因が、漢文が読めない人による調査のために前後の意味も判らず、自分の浅い知識だけで適当な文字を書き込んでしまうからでしょう。
そんな例として「堕」と「随」の石に刻まれた文字の区別がつきますか。また、基本的な「己・已・己」等が自信をって識別出来るでしょうか。更に、異体字のチョッとした文字形の違いを区別出来ますか。同様に、漢文の知識を以て、前後の文字から該当する漢字一文字を推測出来るか、時代背景を知識として持っているかなど等、石碑調査は「不器」という様々な学問知識を要求されますので、片手間に拓本採りだけが趣味ならまだしも、それを読み下すとなると、もう大変なことになりますが、それに耐えられる努力が必要でしょう。そしてそれを為した人にだけ与えられるのが、拓本などを元に文字を清書し、その意味を理解する喜びを味わえることでしょう。そして何よりも、「無以先入語為主」とあるように、私は常に読めない文字に出会ったなら、それを確定し読むには「本当にその文字で良いのか」と「疑い」の精神で、何度もあれやこれやと文字と格闘し、数日悩んでからのことにしています。
そんな石碑判読の難しかった例として、一例を挙げて置きますので興味がありましたら、「栃木県那須町の石碑」を検索してからその中の「諭農の碑」を御笑覧下さい。全景写真と銘文に拓本画像、読み下しが個々に掲載されていますので‥。以上、未熟な者が生意気にも記しました。ご苦笑くださいまして、鰓を張った私の物言いをご寛容下さい。

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