ここの所、旧栃木県藤岡町大前の大前神社へ通い続けています。今回は、その石碑調査のための拓本採り前段階として、朝の8時過ぎから碑面掃除に着手。しかし、高さが三メートルを超えているとなると、私の車に乗る三脚の大きさはしれたもの。二つ折れの三脚を伸ばして碑面に立てかけ、その最上段の踏み台に立って石碑の頂部にやっと手が届く有様。それでも諦めず、片手に水ともう一つの手にタワシを持って見事なまでにヌルヌルしている碑面を丁寧に掃除する。手を抜けば、水張りした画仙紙にはそのノロが付着して酷い拓本になってしまうからだ。それを頂部から始めて側面も綺麗に掃除する。恐らく、他人様が見ていたなら危なっかしい作業に、思わず「三脚を支えていてあげる」と申し出てくれるだろうと思って可笑しくなる。しかし、当然ながら人影は全く見当たらないまま、ついに一時間半を掛けて掃除が終わる。自分でも暫くぶりに無茶な作業をしたものだと呆れながら、こんな拓本採りがあと何年出来るのだろうかと苦笑する。ここで、大休止。すでに、汗と掃除用水と落としたヌメリとで全身びしょ濡れ。そしてすっかり疲れた体と汗が収まるまでの休息時間中に、今度は手拓する画仙紙をどうするかで悩む。兎に角、頂部の篆額部分にどうやって画仙紙を水張するかである。伸ばした三脚の頂部に乗って両手を離しての作業、どう見ても掃除以上に危険なことに変わりはない。そこで全紙を横にし高さを50cm幅に裁断して採ることにする。そして銘文部分は、折角掃除したのだが左右の空間部分は割愛して銘文のみの手拓にしようと決める。その銘文のみの手拓にしても計測してみると、横幅40センチ画仙紙が2枚。半切画仙紙が4枚の計6枚が必要である。そしてもう一つの難問は、木陰で風当たりの無いので、非常に乾きが遅いこと。水張のための水を極力少なくするために、水張は手抜きの刷毛で行うことにする。そして篆額部分から水張を開始したが、いかんせん両手を離しての曲芸紛いの水張作業ゆえに、一回目は見事に失敗して途中で破れてしまう。2回目、今度こそはと先ほどよりはもっと大胆な行動で身を左右にせり出しながら水張りしたが、垂直に近く立てかけた脚立からはやはり手元が見えず、第六感に頼るだけの水張のため、随分と用紙が斜めになってしまった。しかし、採りたい個所はその中に納まっているので良しとしていったん三脚から降りて一息付く。墨入れに適した状態になるまで、待ち時間である。まだ、墨入れするには少し早すぎるが、その後の作業段取りを考えるとそうノンビリともしていられず、またしても三脚上段に乗って両手に墨二つを持って作業するが、その墨入れする墨の追加にはいちいちその度に三脚を降りなければならず、何とも効率の悪い作業である。結局、篆額部分の墨入れだけが終わった段階で、時計はお昼を過ぎていた。急いで即席ラーメンを腹に流し込み、銘文個所の水張に取り掛かるが銘文の上下は190㎝ある。つまり、手持ちの画仙紙では縦に使用するだけで2枚必要。それを三回繰り返さなければならない。どう計算しても、水張から墨入れ迄の待ち時間と、墨入れ作業の時間をプラスすると、夕方までには完了しない計算となる。少なからずあせるが、そうかといって銘文の墨入れでは手抜きする事も出来ない。水張が終わるや、持参した団扇でパタパタと風を送って少しでも早く乾くように、これも汗だくとなってその後は全く休みも採らず採拓に専念する。運悪く、今日に限って携帯電話を忘れてきたので、現在の時間が全く分からない。腕時計を持たない主義の弱点が露見したことになる。銘文手拓の三回目まで進むと、西の空は少しずつ日が傾いているのが分かるが、却って現在の時間が分からない方が良いとばかりに作業に専念し、どうにか手元が見える内にすべての拓本採りが終了する。画仙紙を碑面からはがす前に、まずは車まで戻りエンジンをかけて時計をみれば、既に6時を回っていた。ここで、ドッと疲れが噴出してくる。朝の予定では、拓本までは無理でも碑陰にある交名部分だけでも綺麗に水洗いするつもりだったが、それよりも早く撤収しないと、それでなくても薄暗い場所なのでそれこそ真暗闇になってしまう。びしょ濡れになっている拓本を破らないよう丁寧に何度かに分けて車まで運んでから三脚やらカメラやら拓本道具やらバケツやらを撤収し、それまで履いていた作業用登山靴を運動靴に履き替えて急いで帰宅する。何しろ、携帯電話がないので、いつもの帰宅よりも2時間以上も遅くなることを伝えたかったがそれも出来ぬまま夜の8時近くになって自宅に辿り着く。嗚呼、こんな手拓作業は2007~8年前の矢板市長峰公園以来である。今回の感想としては、もう年なのでこんな拓本採りは止めようと真剣に思う私だった(笑)。
先週日曜日から、ようやく栃木県内の石碑調査に戻ることが出来ました。その最初の訪問地は、栃木県藤岡町(今は栃木市と吸収合併して、栃木市藤岡町です)の大前(オオマエ)地区にある大前神社(こちらは読みがオオサキです)である。暫くぶりなのだが、ナビを使用せずにいつものように感覚だけが頼りで適当に車をすすめるが、どうも小山市寄りを走っているようだ。もう少し西側へ行かなければと、相変わらず適当に走って行って、何となく昔の道路に出会って一安心。それでも宇都宮から1時間強も掛かってしまった。神社西側には、昔のままに庚申塔を始めとした顔なじみの石仏がずらりと並んでいるのを目にして、まずはここで一休み。
さて今日の目的は、私の長年の宿題であった江戸末期から明治期にかけて活躍した森保定(森鴎村)という儒学者の碑文調査である。当地には、1基だけは確実に彼の撰文した石碑があることは知っていたが、目の前にあるのは「水戸部翁碑」という初めてその存在を知った石碑。コーヒーカップを片手にしながら眺めると、石碑の大きさは高さが152.0×幅113.0cmある、意外と存在感を持っている石碑。しかも根府川石を使っているので、拓本を採るには最適な石材。当地へ来て、最初に出会った以上はこれを今日の調査対象とすることに決めた。早速いつものように碑面掃除から始めたが、碑面に付いたツタの根に悩まされる。小さなツタの根を爪を使って挟んでは丁寧に取り除いていく。爪でピンセット代わりに挟んでも採れない根は、爪を立てて直接碑面に当ててゴシゴシとコスって取り除く。これをしないと、採拓した拓本はそのツタの根がまともに邪魔してだれがやってもロクな拓本にはならない。そのツタの根採りだけで一時間余を浪費してしまう。そしてやっと手拓作業に入るも、今回は暫くぶりという事もあっていつも使用している特大のタンポ類を持ってくるのを忘れる。加えて、前回までの田沼町庚申山の庚申塔手拓で使ったままの墨は、その墨が使いすぎて息切れしている。さらに今日は曇りで風もない天気予報だったが、南風が意外と強く吹いている。更に、画仙紙は半切しか持ってきていないので、篆額を横張りにして一枚。銘文は縦にして3枚の計4枚を使用しなければならない。水張りするも、風が強いので直ぐに乾いてしまう。まだ、半切用紙だから良いものの、全紙だったら途中であきらめてしまっただろう。そして3時間の苦労の上で何とか墨入れが終わった。従って昼食は午後1時に近かった。暫くぶりの立ち仕事だったので、正直疲れた。その拓本画像等は、まだPCに取り込んでいないが、多分今週中にはここへ掲載できるだろうと思っている。
そんなこんなで、結局は本来の目的であった石碑とは出会わずに昼食後は浮気して、小さな石碑調査をして帰宅する。もちろんこれも、森保定の撰文である。そしてこの石碑には、揮毫者が揮毫間違いした文字が三字あることが記されている。このような揮毫文字訂正碑は栃木県内でも意外と少なく、恐らくこの周辺では多分この石碑だけだと思われる。今回は勉強のために、その内容を拓本画像を添えて掲載してみよう。それにしても、その文字は小さい。直径5ミリのタンポで何とか墨入れしたが、小さい文字であることには変わらない。石碑写真ではまず以て読めないだろう。
ウーム、これでは拓本画像が小さすぎてその訂正文言がよく分からない。そこで、ここにその内容を書き出してみると、「醵誤鐻金下凡字」「強字衍」とあり、その意味は「鐻」の文字は誤りで正しくは「醵」。金の下に「凡」の文字が抜けている。更に(千圓の次の文字「強」の文字は余計な文字(衍字=エンジ)である。と記されている。つまり、誤字に脱字、不要な文字の挿入と、間違いが三つの種類であることが判るだろう。
このように、揮毫するときに不注意で間違うことは誰にも起こりえることで、それを正直にこうしてその石碑に訂正文を乗せることが出来るのは、如何にその人物が人間的にも優れた人物であるかが知れようというものである。
那須町に、珍しい青面金剛像容の台座に面白い絵柄がついているという話は、今から20年も前に聞いていたので、「それは何とも見たいものだ」とその当時は随分捜し歩きましたが見つからずに今日まで過ぎてしまいました。そんな話を聞いた山口氏が早速にその場所を探し出してくれましたので、出かけてきました。その場所は、行ってみれば何のことはない。かつて馬頭観音の調査の折にその脇を何度も通った道沿いにあった。それが今回掲載した画像である。
さて、そんな調査も台座銘文にある三面の拓本を採ってもまだ昼飯前。そこで、本当に暫くぶりに、高久乙地区の馬頭観音街道を訪ねてみれば、その昔の道の雰囲気は全くなくなり、ただの田舎道。しかもその道路脇には沢山の馬頭観音様が立ち並んでいたが、その雰囲気も全く感じられない。それらしき箇所は、通過しただけだが2か所のみ。かつては、毎年5月の連休といえば必ず訪れてのんびり写真を撮ったりして、のんびり過ごしていた場所へ立ち寄り、早めの昼食とする。この場所だけは、昔の雰囲気が残っていて、沢山ある馬頭観音様の姿もそのまま思い思いに並んでいた。昔の思い出を回顧しながら、ゆっくりゆっくりと食事時間をすごし、暫くぶりに出会えた馬頭観音様の同じ写真を撮影したりして時間を過ごしてから、のんびりと田舎道を選んで宇都宮迄へ帰る。