今回も、寒さが残る8時半に家を出て、宇都宮市でも東部の鬼怒川下流に当たる桑島町地区の石仏巡りに出かける。今回も、2000年以降に調査したところは除外し、主に神社と公民館に共同墓地を巡ることにした。もちろん、その途中での道沿いで目に入る碑塔も含めてだが。まずは、桑島地区でも正確には下桑島町となる地区の高おかみ神社へ向かう。ここで延享三年銘の十九夜念仏塔や庚申塔に二十三夜塔等を調査する。それにしても今日は、風もなく暖かい。ジャンパーを脱いでセーターのままでの調査となる。終えてから地図を見ると、同じ下桑島町内なのに、同じ名前の高おかみ神社が瑞穂野北小学校の東側にあるので、早速向かう。小さな神社だが、確かに本殿には高おかみ神社と書いてある。本来、一つの村には同じ名前の神社は一社だけのはずだが、と不思議に思いながらも狭い境内には二十三夜塔が寛政二年と文化六年銘のがある。
ここで一旦、下桑島町を離れて上桑島町へ入る。ここには、当地方面では珍しい熊野神社があるので行くと、農家の方がいて調査前に雑談となってしまった。しかし、この雑談が後で思いもかけない庚申塔と出会えることになった。さて、この公民館を兼ねた熊野神社には、嘉永元年銘の「満津道山(マツドーサン)」という安産信仰の四角柱がある。現在でも毎年8月18日に四合同で祭りが執り行われるというので、機会があれば見たいものである。
さて、次は早速農家の方に教わった当四地区合同の庚申塚へ向かう。ところが、その場所は車一台がやっと通れるだけの農道で、対向から車がきたら完全にアウトである。仕方なく、少し元に戻って車を駐車しても大丈夫な場所へ置いて歩いていくことにする。その庚申塚の風景が、ここへ掲載した写真である。そしてその中央に建つのが、栃木県では何としてもこれまで見ず悔しい思いをしていた面六臂の青面金剛像であった。馬頭観音像でないのは、同じ石の下部に三猿姿が見えるから間違いなし。これでやっと、栃木県にも三面六臂の青面金剛様に出会えたと、今日はこれだけの成果で充分な思いである。早速、今度は石文を求めて台座を調べるが、その肝心な紀年銘を含めて一切の文字がない。もしかして本体のどこかに隠れていないかと本気になって調べたがはやりどこにもなかった。これには少なからずガッカリである。気を取り直して写真右側の調査。これも青面金剛像で三猿も確認できた。そして問題なのは、写真左側の舟型光背石に浮き彫りされた像容である。
その前に、この庚申塚のことについて聞いたことを述べておくと、ここは新宿、小原、谷地下、柿木坂の四組共同の庚申塚で、この庚申塚にお参りするのは四年に一度と決められていて、現在も行われている普通の庚申講開催の時にはここへお参りすることはないという。
そんな昔通りの古い庚申塚となっているので、この地に庚申信仰以外の碑塔を置くことは考えられないが、最後の碑はどう見ても六臂の斧を持った馬頭観音像である。但し、頭部にそれならあるはずの宝馬が置いていない。そして庚申塔とするには、お猿さんの姿もない。これには困った。馬頭観音像でもなければ青面金剛像でもない。もちろん、石文一切がどこにも刻まれていない。大いに悩み、帰宅してからも悩んだ挙句、それは馬頭観音像を拝借し、青面金剛像とした庚申塔であることにした。
その後もあちこちと見て歩き、何とか午前中で桑島町を一通り調査することが出来た。あとはこの地区の落穂拾いだけとなる。お昼は、鬼怒川の土手へ行き、開放的な広がりの中で昼食とする。余りにも暖かく、春をも感じる気候に気分が良くなり、一時間もの昼休みをたっぷりと取る。
さて午後は、次回への予備調査として少しだけ東側の上籠谷町へ入る。この地区は、道路整備が遅れているので、どこへ行っても昔のままの狭い道路が迷路のように走っている。地図もろくに見ず、適当に走っていって薬師堂へ着き、その境内で元禄十一年銘の十九夜念佛塔に出会う。当地方での元禄時代の十九夜塔は古い部類に入るので、これは儲けたと時間をかけて調査し写真撮影をする。その後も、適当に車を走らせているうちに自分のいる場所さえ分からなくなり、気がついたら真岡市へ入っていた。そして結局は元に戻るのが面倒になり、そのまま帰宅してしまった。午後3時半に自宅到着は前回に続いて早い帰還だが、まあ足も腰も痛いし、厳冬期の石仏巡りとしては丁度良いと変な理屈をつぶやきつつ…。