石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

3月28日は田沼町の愛宕山へ登りました。

2009年03月29日 | Weblog
 昨日28日は、佐野市の高橋氏と山口氏の3名で、旧田沼町作原の愛宕山へ登りました。勿論その最大の目的は、愛宕山山頂に祀られている勝軍地蔵の調査にあり、特にそれは大きな自然石に線刻されている馬乗り勝軍地蔵蔵の手拓にありました。山頂に着き、早速手拓開始となり、ルンルン気分で作業は進み、念願だった調査を終了することが出来ました。その後は蓬莱山へ行き、そこにある石仏巡りと言うよりは昼食を取りにという、何とも遊び気分の時間を過ごしました。しかし、それだけではもったいないので、当然ながら途中途中にある石造物調査を行ったのは言うまでもありません。特に、私と高橋氏には見えない石塔を車を運転しながら見つける能力に長けた山口氏の眼力には敬服し、これまで何度も通りながら気づかなかった碑塔を多く調査することが出来ました。やはり、二つの目よりは四つの目、さらに六つの目の威力は偉大です。
 そして山を下りてきてから、龍樹寺近くにあった破軍星の付いた北斗七星塔の拓本が取る必要になってついでに立ち寄って貰うと、これまであった場所には石塔一つない。少なからず慌てて高橋氏が早速に民家の方に聞いたところ、境内の方へ移動したとのことで一安心。ここでも暫く時間を手拓に費やして物にし、勇躍次の場所へと移動する。そこは無住の寺なのだが、私の勘違いで細い道路を苦労して辿り着いてみると、そこは以前に調査済みのお寺さんだった。しかし、そこから見る東側の山並みは美しく、これから木々が芽生えるともっと素晴らしい農村風景となることだろうと、ここに住む人々が少しばかり羨ましくなる。
 さてさて、そんな訳で今回は栃木県小山市碑塔調査終了記念としての山行兼石仏巡りだったが、次回はどこへ行きましょうか?思案中です。いずれにせよ、次回からは四月なので、その時次第ののんびりした石仏巡りにしたいと思っています。
コメント

本日、栃木県小山市の碑塔データを公開しました

2009年03月26日 | Weblog
 別HPの「栃木県碑塔データ集」の方へ、栃木県小山市の実見した全碑塔データを掲載しました。全部で、1475基です。些か多すぎますので、1、庚申塔 2、十九夜塔 3、その他 となっています。3、の「その他」は、一応信仰順・年号順にしましたが、その仕分けはアバウトです。いずれにせよ、これを全て見るのはほぼ不可能でしょうが、そんな「興味はあるけど…」、と悩む皆様の顔を想像して掲載しました!
 そしていつものことながら、そのデータ資料によるお問い合せ、特に所在地などのお問い合せはご容赦下さい。見たければ、現地へ行けるよう所在地を具体的に表示してありますので、後は自分で探してください。というのが、私の主義ですので…。第一、そんな問い合わせは面倒でたまりません。
 私の石仏巡りはあくまでも「自分だけの満足のため」以外の何ものでもありません。従って、このHPなども本心は面倒なので止めたいのですが、友人・知人にも動向をお知らせついでに惰性で続けている次第です。そこのところ、ヨロシク!。
コメント

2009年3月21日は栃木県小山市最後の石仏巡りでした

2009年03月22日 | Weblog
 昨日は、小山市石造物調査落ち穂拾いの最終回として、小山市西部地区の南端地区等へ行きました。そして一気に宝篋印陀羅尼経塔を四基調査してきました。これで、小山市の宝篋印陀羅尼経塔は完了です。特に、満願寺歴代住職墓地内にある五輪塔型四角柱に刻まれた宝篋印陀羅尼経梵字全文字を手拓することが出来ました。本日最大の目標物だっただけに大満足です。南風が強かったのですが、住職さんの許可が得られた以上は何がなんでも手拓すると必死の思いでしたが、無事に綺麗に採れて大事に大事に抱えて帰宅です。勿論今回は、小山市の最終落ち穂拾いと言うことで、実調査数は少なかったので過去に撮影していなかった碑塔を訪ねてみると、その中に未調査の碑塔があって、独りで笑ってしまいました。また、白鳥地区では地元の方に場所を案内して貰わなければならないような場所にある享保元年銘の青面金剛像容塔も調査することが出来ました。
 また、お彼岸中ということもあって、各地の墓地には多くの方が墓参りに来ていたので、その墓参りの人達に図々しくも石造物の所在を聞くことが出来、思わぬ収穫となりました。
 さて、小山市の石造物調査数は昨日現在で1475基になりました。あと、25基を探し出せば丁度1500基となるのですが、まあそれは何時の日か余裕の出た時にでも探し出すことにしましょう。その1475基全部を、ついでの時に別HPの資料データの方へ掲載しようと思っています。尤も、数が多いので、それを見るには根性が必要ですが…。
 そしていよいよ、次回からは小山市を離れてどこか、春の野山の雰囲気が味わえるところへ行こうと思っています。その場所として浮かんだのは、栃木県田沼町方面にして、愛宕山でも登ろうかと思っています。
コメント

栃木県内の十六日・夜塔のデータ掲載

2009年03月19日 | Weblog
 本日、栃木県内の十六日・十六夜塔のデータを公開しました。興味のある方は御笑覧下さい。
現時点で、96基をリストにしました。当然ながら、これ以外にも出てくるでしょうが、その時はまたある程度の数が出たところで書き換えることにします。これを見ると、以外にも栃木県には沢山あるのを実感します。さて、ご覧の皆様の地区ではいかがですか?
毎度のことながら、印刷等は一切許可しません。また、所在地のお問い合せも、偏に面倒ですのでご容赦下さい。興味のある碑塔は自ら尋ね探し出すのが、石仏巡りの醍醐味だからです。
コメント

2009年3月15日は、犬飼氏等を案内する石仏巡りでした

2009年03月16日 | Weblog
 昨3月15日は、「多摩石仏の会」会長の犬飼氏と同会会員五島氏をJR宇都宮駅に10時出迎え、暫くぶりに栃木県東部地区の石仏巡りとなりました。発端は、犬飼氏が真岡市になる阿弥陀如來像容の融通念仏塔を実見したいということに始まりました。そして最初は、その真岡市へ向かう途中にある宇都宮市東刑部の五輪塔型大日如来像を見学しました。珍しい大日如来像に最初から満足され、ホッと一息です。ここで、写真撮影のために太陽光線が像容から離れるまでの時間を我慢強く待って撮影。
 その後は、私もそこを訪れるのは20年以上も経っているので、果たしてその場所を思い出されるか不安だったが、案の定以前とは人家が新しく建っていたりして迷いに迷う。というのも、そこは何の目印もない里山の中にあるので、同行した二人にしても「よくぞ、こんな場所を知っている!」と、感心されること多々。そこには、承応年間の不動明王が建立されていて、野にある不動明王像でこれほど古い紀年銘を持つものは初見とのことで喜ばれる。それからも途中で道を間違えたりしたので、取りあえず犬飼氏所望の真岡市無量寺へ向かう。そして法事で人々が沢山いる中に紛れて、本日最大の目的であった融通念仏塔をゆっくり実見する。
ここを終えた時点で、早くもお昼時間。昼食を取るに相応しい場所を求めて、再び戻って何とか下籠谷地区の神明宮と観音堂へ到着。まずは食事前に、以前多田氏にも紹介した邪鬼が仰向けになっている青面金剛塔を案内してから、道路反対側の観音堂へ行ってその観音堂敷地内で昼食となる。この観音堂には、全国的にも珍しい宝篋印塔に刻まれた「十七夜念佛供養塔」があるのを教える。また、境内に列ぶ碑塔の中から「三日月塔」をも教える。その三日月塔の信仰内容を知らないと言うので、それは不動明王のことだと手短に説明すると、そこに刻まれた種子と共に納得してくれる。それにしても、その隣には自然石文字塔の「二十三夜塔」もあるので、これでは普通の人では月待信仰塔と勘違いしてしまうだろうと笑っている。
 お昼時間を少しばかりのんびりしてから、午後の部の石仏巡りに入る。私の予定では、真岡市内にある「念佛一千五百卍遍供養塔」と、本来なら「萬」とすべき文字の所が「卍」となっている、珍しい塔を案内するつもりだったが、日曜日と言うこともあって真岡市市街地は混雑しているだろうと取りやめ、現地点から益子町へと向かう道筋にある如意輪観音像容に「念仏光」と、これまた「講」の文字の替わりに「光」文字を当てた元禄年間の碑を紹介することにした。しかしこの場所も、私にとっては暫くぶりだったので、行ってみると新しい道が出来ていて、どこをどう走ったらよいのか判らなくなり、農作業の人に聞いてやっと現場へ到着する。「本当ダッ、念仏講でなく「念仏光」だ」と、つまらぬことで喜んでくれる。
 そして相変わらず適当に走ったので益子町内で道に迷って右往左往しながら何とか次の目的地である益子町の普門寺へ到着。境内にある沢山の碑塔は一部省略し、まずは三猿姿の刻まれた宝篋印塔、さらに「十九夜」ならぬ「十九屋」と刻まれた元禄年間の碑を案内。何しろ今回は、真岡市の融通念仏塔だけが主で、あとはついでの時間つぶしなので、文字の面白さや像容の面白さを選んであちこちと移動する。そんな訳で、今度は私が勝手に名付けた「如意輪観音様の胸に心臓が刻まれた碑」を見せることにして町中の観音寺へ行く。ところが、その観音寺の入口を忘れてしまい細い行き止まりの道へ入ってオロオロしてしまう。それでも何とか観音寺の駐車場へ車を止められて早速ご案内。でもその前に六字の種子だけが刻まれた六地蔵種子塔を紹介する。そんなこんなで目的とする如意輪観音像を案内するのを忘れそうになって慌てたが、その胸に記された模様にうなずきながらももう一つ反応がない。いつもの私の石仏巡りなら終了となる四時近くになったが、今度はどこへ行くとも話さずに大羽地区の地蔵院へ向かって車を進める。そしてその近くの路傍に立つ、安永銘の如意輪観音像を見せる。取り立てて何の変哲もない像容だが、その如意輪さんの胸に霧吹きをかけてタワシで磨けば、そこには又しても同じ心臓部位に楕円形が現れてきた。それを見て、二人とも色めき立って熱心に調査する。これでやっと私も、それは滅多に見られない像容だと理解していただけたので面目躍如といった所である。西へ傾き始めた陽の光に追われるように写真を撮り、本日最後となる地蔵院へ向かう。そこには、十九夜念佛塔としての、非常に生真面目な自然石文字塔があるので、それを案内するためであった。
 ここで、本日の石仏巡りを終了して一路、宇都宮駅へと向かってから、夕闇迫る駅前でいつものように見送りなしで別れる。遠路、日帰りで八王子から来県されました犬飼様、本当にお疲れさまでした。
 さて、次回は又しても小山市へ戻って、最後の石仏落ち穂拾いに精を出すことにしましょう。
コメント

今日は、雨ですので…

2009年03月14日 | Weblog
 多摩石の犬飼氏との、栃木県真岡市にある融通念仏塔を訪ねる旅は、明日15日となったので今日はのんびりしています。雨が降らなければ、ジャガイモ用の畑仕事をする予定でしたが、朝からの雨では仕方なく部屋でのんびりしています。
 その閑を利用して、「血盆経」の資料を別HPの方の「石造物資料データ」へ掲載しましたので、興味のある方はご覧下さい。寳永四年とあり、その内容は本邦第一級となっています。
 この資料は、佐野市の高橋氏が偶然に出会ったもので、早速に送って下さった資料です。管見ながら、これほど内容のある血盆経資料を見たことのない私は嬉しくて、その喜びをこの手の信仰に興味ある方々にもチラリと呈したいと考えました。なお偏に面倒故、これらの資料に対するお問い合せ等は一切ご遠慮下さい。また、何時も通りに印刷等も出来ません。
コメント

2009年3月7日も、栃木県小山市の石仏巡りでした。

2009年03月08日 | Weblog
 風が思いの外に強い一日だったが、それにもめげずに今回も栃木県小山市の石仏落ち穂拾いに行きました。その強風の中で、拓本取りを行ったのだから自分でも呆れる。尤も、手拓しない限り、その内容が判らなかったのだから仕方がない。そして今回も新たに、個人墓地の中で宝篋印陀羅尼経の刻まれた1基を収録することが出来て、小山市の当該塔は総数で37基になりました。念願だった、下河原田地区保寿寺の物をしっかりと銘文を読んできました。その後も各地のお墓を巡ったが、目にする宝篋印塔は故人供養の物ばかりで、経文の刻まれた該当碑には出会えませんでした。ガッカリのし通しでしたが、まあそんなものでしょうと、自分を慰めました。その間には、地元の方から飲み物やデザートなどを頂戴したり、小川の土手では余りにも綺麗に咲いている菜の花群の中に入って、少しだけ夕食の置かずにと花摘みをしましたが。
 さて、ついに小山市の実見碑塔の総数が1,438基になりました。小山市の総数を1,500基位と思っていたので、その95%は実見したことになります。何はともあれ、これで小山市の碑塔調査は大きな山を越えたわけで、ついでだからと調子に乗ってあと1回ほど小山市の西部地区最南端の落ち穂拾いに入ろうと思っています。あと、22基はなんとしてでも探しだし、総数で1460基になれば心おきなく小山市の碑塔調査を終えることが出来るからです。そうすれば、いよいよ季節も春本番となって、心浮き浮きと他の場所のつまみ食い的石仏巡りが出来るというものです。
 その次回の石仏巡り、予定では小山市行きを休んで石仏案内で真岡市方面へ入るつもりです。暫くぶりに、真岡方面。新しい発見があれば良いのですが…。
 そして今回も別HPの方への画像紹介は余りありません。困ったことですが、それが現実です。
コメント

2009年2月28日も栃木県小山市の石仏巡りでした

2009年03月01日 | Weblog
 昨日も相変わらず懲りずに栃木県小山市の石仏巡りでした。少し早く家を出て、8時過ぎには調査を開始しましたが、落ち穂拾いの空しさで一向に調査数は伸びずに、伸びたのは車の走行距離数だけで空しさが胸をよぎりました。そこで過去に訪れた場所を加え、午前中はその後12時半まで本気になって新たな石仏を求め巡りました。それでも午前中に調べられた碑塔の数は20基余りという空しさです。昼食は途中の空き地で急いで食べ、そのまま午後の部へ突入しましたが相変わらず新たな碑塔との出会いは少なく、そこで又しても予定を一部変更し、これまでに実見していながら詳細な調査をしていなかった宝篋印陀羅尼経の刻まれた宝篋印塔調査を加えて、一度に5基の宝篋印陀羅尼経銘文を書き写しました。一日で5基の宝篋印陀羅尼経の銘文を調べるのは、自分でも異常なことです。これで何とか、小山市の宝篋印陀羅尼経の刻まれた碑塔は36基となりました。あとは、例え出てきても個人墓地内にあるかもしれない数基だけだと思っています。そんな場所を次回には巡ってみようと思っています。そして飽きずに、次回も小山市へ通って、何とか早く小山市から足を抜け出したいと思っています。何しろ次回からは3月の石仏巡りとなるので、草の芽吹きと共にあちこちへと行きたい所が目白押しですので…。
 ところで、今回も別HPへの掲載画像が少なくて困っています。それでも、今回初めて気づいた新たな「妙哲尼」の名号塔があります。これでまた、妙哲名号塔が1基新たに加わりましたので、そんなこんなを少しだけですが数日中に掲載したいと思っています。何しろその前に、一気に調査した(1基だけでも以外と多くの時間を要するのに5基もある)宝篋印陀羅尼経の清書をしなければなりませんので…。
コメント