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石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

栃木県馬頭町の松野新田之碑の銘文清書を掲載

2017年09月26日 | Weblog

※上記銘文の最後のところで、「‥一部に拓本画像とは異なる字題‥」とあるのは、「字態」の誤りです。面倒で、訂正しないまま掲載しました(笑)。いずれにしましても、文政から天保にかけての開鑿碑なので、私としてはこういった内容に出会うと嬉しくなってしまいます。来月に入ったら、この碑の碑陰の手拓に行ってくるつもりです。
さてさて、先週は足利市松田町の松田神社でほぼ一日を遊んでしまい、予定していた他の地区の拓本採りは出来ませんでした。まあ、時には地元の人たちと楽しい一日を過ごすのも良いものだろうと思っています。加えて、神殿内の見学も出来、其の中から享保年間の銘文のしっかりした神鏡も出てきて、急いで佐野市の高橋氏に連絡して来てもらったりと、暫くぶりに石碑調査をせずとも楽しい足利での一日を過ごせました。

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栃木県馬頭町の松野新田之碑の御紹介

2017年09月20日 | Weblog

仕事で暫くぶりに当地へ来たついでに、仕事は午前中に済ませて午後からは宛も無く馬頭町へ入る。烏山町から那珂川沿いに進むと、道路沿いにご覧の石碑が目に入る。早速に路肩へ車を止めて眺めれば、昭和十一年の建立とある。原則として調査対象外の年号だが、念の為に銘文を読んでみるとその内容が素晴らしい。それは、当地松野地区は嘗て荒蕪不毛の地であったのを、近江の国蒲生郡下小房村から清酒釀造のためにやってきた外池宇兵衛が当時の領主であった水戸の徳川侯の徳としてこの地を農地にすることを決心した。そして文政から天保にかけて水路を開鑿し、それを更に子供の正西が受け継いで開拓に成功し、新たに農夫十数戸を招致し、完成後は家や農具まで無償で与えて耕作に従事させたという開拓した外池氏の頌徳碑であった。従って、題額は徳川国順が揮毫している。こうなると、私にとってこれは其の時代のこの地を語るには絶対に欠かせない内容となり、拓本と共に後世に残さなければならない石碑となった。題額を含む銘文サイズは高さが150センチで幅が80センチ。半切画仙紙では三枚と上部が少し足りない。めっきりと日の入りが早くなったこの季節ゆえ、昼食抜きで採らなければ帰宅が暗くなってしまう。そして3時間ばかり掛けて、何とか碑表だけは採り終えた。しかし、その裏面にはその新田開拓についての場所や広さに加えて、その新田開発と完成年号が詳細に記されている。ある意味、碑表よりの大切な内容であり、この碑陰は必ず必要な資料であるが、それを手拓するには時間オーバーである。その碑陰を採り終えるまでは資料完成とはいかないので、再び年内には必ず来ることを石碑に誓って、本当に遅い昼食を取ってから今回はここまでとして帰宅する。なお、撰文は文学博士の市河三喜であり、書は林 経明となっているが、石工の名は記載が無い。いずれにしても、碑表の銘文が清書を終えたらここへ掲載してみたいと思っている。

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足利市の庚申塔銘文を手拓してきました。

2017年09月03日 | Weblog

昨日は、足利市松田町の松田神社に建立されている個人顕彰碑2基の碑陰にある交名を手拓してきました。この2基の調査報告書を書くための資料としてなので、簡単に写真だけでも良かったのでしょうが、氏名は一字たりとも間違いは許せないことなので、念には念を入れて拓本を採ったわけです。しかし、朝方までの雨で碑面はビッショリ。加えて汚れが酷すぎて碑面を洗わないことには作業にならないので、相変わらず水路からバケツで水を汲んでは碑面掃除で、益々タップリと水分を含ませてしまった。そこで今回は、手持ちの画仙紙の中で最も薄い用紙を取り出して水張り。勿論、いつものようにタオルで水分を取るが、石の中から湧き出してくる水分で、見る間に又ビッショリ。そこで面倒でも、画仙紙の橋切れで吸い取り紙よろしく、それで水分を取り除く。面倒なので、二基一度に全て水張り(どうせ、碑陰なので一時間以上経過しても墨入れするにはまだ乾かぬだろうと推測)し、且暫く墨入れ出来るまで時間待ちとして一休み。そんなこんなで、二基の手拓作業が終わったのは12時になってしまった。半切画仙紙で5枚なのに、朝8時からここまで時間を費やすとは、と苦笑いである。
そして昼食後は、以前に手拓した文字が読めないところがあったのでその文字を再確認のために立ち寄ってから、掲載した写真の庚申塔がある篠生(おごせ)神社へ向かう。その目的は、この庚申塔の碑陰にある銘文箇所の剥離が進んでいるので、今の内に拓本を採って残して置くためである。その銘文は短く、以下に示すがごとくである。ただし、1文字が大きい!。苔などもあるが面倒なので、そのまま強引に手拓する。
「庚申」「七十七齢霞翁」(碑表)
「余嘗有所志願登高山渉深澤禮拝」
「庚申塔既歴七星霜其数一萬五千」
「體所願已就因建此塔云文久紀元」
「歳次辛酉冬十月十有六日」
        「阿部仙五郎知睦」
ここで思わず笑ってしまうのは、7年間で15,000基の庚申塔を高山・深沢を跋渉して礼拝したとあること。庚申塔は、高山には無く、深い沢にも勿論無く、その殆どは各地周辺の庚申塚にある。しかも栃木県全部でも庚申塔は10,000基もあるわけが無い。加えて、それらを7年で巡ったとは、庚申塔巡りがどれほど時間が掛かるかを知らない人のホラ吹き寝言である。江戸最末期のこととは言え、ここまで嘘を書いた石碑を建てて良い時代だったのだろうかと、苦笑である。しかし、それでも石碑銘文には変わりは無いので、後世に残すためせっせと手拓している自分が可笑しくなる。
それでも帰宅するにはまだ時間が余ったので、帰路途中で石碑のあるある神社に立ち寄る。見れば、銘文が泥などで汚れていて読めないどころか、見えない。仕方が無いので、神主さんのお宅を訪ねて水洗いの許可を得ようとしたら、奥様が言うには「神社総代の方々の許可がないと、私はいいです、と云えないという。碑面の銘文が読めないので、読ませてくださいと云って断られたのは、佐野市田沼町のあるお寺を含めて今までに2例目。自分の管理する神社の石碑を綺麗にせず、それは神社総代の仕事なのだろうかと思うだけで、口には出さずに「お忙しいところをお邪魔しました:と、呆れたまま帰路に着く。嗚呼、イヤダいやだ!。次回は、もっと気分良く調査出来る所へ行きたいものである。

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