石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

栃木県第二代目県令(県知事)藤川為親の頌徳碑調査報告

2014年10月26日 | Weblog

今回は、今月11日に栃木県栃木市で調査した石碑の再御紹介です。何しろ、今では栃木県では誰もこの石碑について関心をもたれる方はいませんので、少なくもここへ登場した人物の出身地である佐賀県の人のい中に、この人物について調べている方がいましたらと思ってのことです。
さて、その人物とは篆額に「正五位藤川君碑銘」とあり、上記掲載写真の下にも記しましたように、その名は「藤川為親」といい、天保七年生まれで明治十八年に亡くなっている。が、戊辰戦争のときに、佐賀藩主の命令によって従軍隊長として栃木県宇都宮に派遣されます。そして、時の栃木県知事はやはり佐賀藩出身の鍋島貞幹であり、その部下となって働く。その鍋島の推挙により(同藩というよしみにて)、明治十三年にその後を継いで第二代目栃木県令(今の県知事)となって活躍します。実際の県令としては三年余りでしたが、その性格が栃木の人々と会ったのか、栃木県令から島根県令に移ってからも記憶の中に残っていたとみえ、五十歳の若さで病死(酒を飲みすぎたのだろう?)してしまう。その悲報が当地に届くや、当時の県庁所在地となっていた栃木市の人々は損金をして当時の金額で千余円を集めてこの碑を建立した。これが、その彼の遺徳碑である。
今、佐賀県ではこの藤川為親について語るに、この遺徳碑を超える石碑が存在するのかは知らない私だが、この碑の篆額揮毫者が、時の三條實美であり、撰文者は明治三大文章家の一人としてその名をはせた金井之恭。そして石工は、江戸三大巨匠の一人と言われた宮亀年であり、書家は中林隆経(中林梧竹)であり、いわゆる名碑の一つに入るものである。以下に、その銘文画像を掲載して置こう。


そんな次第で、もし佐賀県の方あるいは藤川為親について調査研究している方で、この碑の存在を初めて知った方のために、ここへ掲載した。本来なら、手拓した拓本画像もと思ったが、それはこの藤川為親の碑についてもう少し知りたいと思う人はお気軽にメールを下さい。その目的によっては、この碑の拓本資料を含めて調査資料をお送りいたします。

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2014年10月18日も、先週の続きで栃木市の石碑調査でした

2014年10月19日 | Weblog

今回も、栃木市旭町第二公園内にある石碑の調査です。といっても、その内容は前回に調査済みなので、今回はその拓本取りに行きました。拓本サイズも、前回にしっかり計測してきたし、碑面もある程度きれいにしてきたので、今回は到着するや直ちに手拓開始です。この碑は、大木の下にあってしかも北向きということもあり、風も直射日光にも影響されないので最高の条件。相変わらず、半切の画仙紙を取り出して水張りし、そのまま墨入れ。篆額を抜かして三枚の画仙紙丁度で手拓が終了したが、今回は前回よりも丁寧に墨入れしたので些か時間がかかってしまって、終わったのは2時間半後。途中で休み休みしたので、まあ、仕方がないでしょう。そうそう、その篆額は「藤田高綱先生之碑」とある大正五年銘のもので(内容はメンドウなので省略)、撰文と揮毫者が「劉 須」という名に惹かれたから、どうしても拓本として残して置きたいと考えてのことです。その劉須という方は、漢文に秀でた人で、旧制栃木中学校の第二代校長を務めています。また、京都の大日本武徳会の第四代校長も務めた方で、勿論栃木県人ではありません。他に幾つかの碑文を叙していますが、その中の一つに当地からすぐ隣りの近竜寺墓域にある医業の傍ら門弟たちに学問を授けた立派な先生の第二代目「木塚先生墓碑」も撰文しています。ところで、その第一代目は、日高六郎の厳父である日高誠氏の撰文&揮毫墓碑。今日の石碑調査目的は、その墓碑調査を狙っていたのですが、写真だけならOKという事で目的を達せられず。特に、日高誠氏の書体は拓本として残して置きたかったのですが、致し方なしです。栃木市の残る調査したい碑は、あと一箇所のお寺さんにあるのですが、半分は調査を断られる可能性が強いので、この辺で栃木市の石碑巡りは終了としようと思っている。そして来週は、多分石碑調査には行かず、秋の一日を野山で過ごしタップリと秋の陽に染まってこようと思っている。

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2014年10月11日は、暫くぶりに栃木市中心部の石碑調査に行きました

2014年10月13日 | Weblog

栃木県栃木市中心部の石造物調査へ行くのは、かつて石仏調査に行って以来だから本当に暫くぶりである。その時に、旭町第二公園内で見た大きな石碑に目を奪われていたので、今回はその石碑調査に行くことにした。その碑がここへ掲載したもので、篆額は「正五位藤川君碑銘」とあり、篆額揮毫者は三條実美、撰文は金井之恭、そして書家は肥前 中林隆経とある高さが340cmの大きなものである。勿論、篆額の手拓は足場がないと届かないので初めから諦めていたが、その銘文だけでも本気になってかからなければならない。その前に。公園管理者の地元町会長さんの了解を受けてから、手拓に必要な枚数を車から持ってくるために計測すれば、全紙で8枚。私は半切の画仙紙だから10枚となる。1基で10枚の画仙紙を使用するのは今年初めてのこと。益々気合を入れて取りかかったが、午前9時前から始めて終わったのが午後の3時過ぎだった。その間、大休止として昼食時間に1時間を差し引いても実働5時間。銘文の最上部は、私がつま先立ちでやっと手の届く高さなので、終わってみれば足のふくらはぎがパンパンに張ってしまった。予定では、別の1基をも手拓するつもりだったが、もうクタクタ。ベンチに腰掛けて、ただ休みたいだけだった。それにしても今回の調査では、地元の皆様には大変親切にしていただきました。拓本採りを含めて調査には全幅の快諾。加えて公園に来ていました方々からは「見ていたら、ずう~と休みなしでしているが、疲れるから途中で一休みしたら」と、お茶等の差し入れをしてくださったりと、すべてが感激ものでした。
それでも、帰宅してから早速に居間で広げてみたらその大きさに自分が驚くありさま。まだまだ、体力的には大丈夫だと変な所で関心しきりである。しかし、それにしてもそれを揮毫した書体、隷書交じりの異体字が多くて「こりゃ~、概要を読むだけでも大変だ」と思う。現実に、見たこともないはじめての異体字が幾つかある。特にウ冠に△の文字。「ム」の所を三角にするものは幾つか見ているが、それがウ冠の下にあるのは漢字として記憶にない異体字。だれか、この異体字を読める方がいましたら安直に御教示願いたいものである。そしてその銘文文字数は1000余字。昨夜は早速、その第一回目の文字清書を始めたが、半分のみで終わってしまったので、今日は祝?(祭)日ということで、早朝からその続きをして何とか銘文清書用升目を埋めることが出来たが、やはり読めない文字が3字ばかり出てきてしまった。その文字解読には、まず前後の文章意味を理解してからでないと無理なので、今夜からの楽しみとなりそうである。何しろ、ここのところの3週連続で調査してきた碑文清書が幾つも残っているので、まずはそちらから先に仕上げなければならない。嗚呼、またまた自分の首を絞めている状態に陥っている。そして次回も、今回調査残しの石碑調査に出かけたいと思っているので、尚更大変である。

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