今回は、今月11日に栃木県栃木市で調査した石碑の再御紹介です。何しろ、今では栃木県では誰もこの石碑について関心をもたれる方はいませんので、少なくもここへ登場した人物の出身地である佐賀県の人のい中に、この人物について調べている方がいましたらと思ってのことです。
さて、その人物とは篆額に「正五位藤川君碑銘」とあり、上記掲載写真の下にも記しましたように、その名は「藤川為親」といい、天保七年生まれで明治十八年に亡くなっている。が、戊辰戦争のときに、佐賀藩主の命令によって従軍隊長として栃木県宇都宮に派遣されます。そして、時の栃木県知事はやはり佐賀藩出身の鍋島貞幹であり、その部下となって働く。その鍋島の推挙により(同藩というよしみにて)、明治十三年にその後を継いで第二代目栃木県令(今の県知事)となって活躍します。実際の県令としては三年余りでしたが、その性格が栃木の人々と会ったのか、栃木県令から島根県令に移ってからも記憶の中に残っていたとみえ、五十歳の若さで病死(酒を飲みすぎたのだろう?)してしまう。その悲報が当地に届くや、当時の県庁所在地となっていた栃木市の人々は損金をして当時の金額で千余円を集めてこの碑を建立した。これが、その彼の遺徳碑である。
今、佐賀県ではこの藤川為親について語るに、この遺徳碑を超える石碑が存在するのかは知らない私だが、この碑の篆額揮毫者が、時の三條實美であり、撰文者は明治三大文章家の一人としてその名をはせた金井之恭。そして石工は、江戸三大巨匠の一人と言われた宮亀年であり、書家は中林隆経(中林梧竹)であり、いわゆる名碑の一つに入るものである。以下に、その銘文画像を掲載して置こう。
そんな次第で、もし佐賀県の方あるいは藤川為親について調査研究している方で、この碑の存在を初めて知った方のために、ここへ掲載した。本来なら、手拓した拓本画像もと思ったが、それはこの藤川為親の碑についてもう少し知りたいと思う人はお気軽にメールを下さい。その目的によっては、この碑の拓本資料を含めて調査資料をお送りいたします。