茲の所、週末になると天候が不順で困っていますが、それでも何とか石碑巡りをしています。今回は、拓本が取れない石碑を中心に、手写による銘文調査3基のうちの1基を御紹介。最初に調査したのは2010年ですから、それから随分と年月が経ちましたが、前回の調査の文字再確認として見て来ました。予想したとおり、一回だけの調査では不十分で明らかな間違い文字が2字ありました。拓本が採れない腹いせに、今回はその銘文の訓読をして1基につき3頁での調査報告書作成を心がけている私としては困ったのでその訓読もついでに掲載しました。漢文に秀でた方は笑いながら見てください。私の訓読は、この程度なのですから、間違っていても仕方が無いと苦笑しています。それでは以下に掲載します。そうそう、この石碑の著在地は、足利市中心地のバンナ寺境内です。
これは、去る9月20日と9月26日にこのブログへ掲載した続きの碑陰記である。
文政三年(1829)から天保六年(1835)の時代に、この碑陰に見るような個人での新田開発は栃木県では寡聞にして知らない。しかも、開田した耕地に新規百姓10家族の家まで新築して提供し、農具も無償で与え、更に扶養料まで与えて呼び寄せるなど、その内容を詳細に知るに従って、ただ驚くだけである。そしてそれに要した総額は5千45両という莫大な金額である。加えて、その開拓した新田全てを水戸藩侯に献上してしまったというから、ただ驚くばかりである。それでもなお事業で得た利益を基に、更に天保十四年まで開発を続けたというから尚更である。その開田意欲は更に衰えることなくその後も続けたという内容に、その外池一族のなみならぬ済世救民の志に感嘆するばかりである。この時代に、これほどまでの大事業を個人資金で為した人がいたのだろうかと、只ただ敬服するばかりである。しかもその後も開田が成功するや水戸藩に献上してしまうのだから‥。今世紀に入り、世界的に大事業で財を成した今の日本人達のと何と小さい心かと! 今更ながらに、昔の人の偉大さを思い知らされた、今回の石碑との出会いだった。
烏山町には、この石碑の撰文者と同じ川俣英夫氏の撰文&書に関わるものが多くあります。その中でも、今回の石碑銘文は内容が非常に易しいです。そして、石碑銘文表記としては大きな欠点があります。それは、篆額揮毫者の肩書きから名前までの部分が二行にわたって記されていることです。常識的な碑文としては、これは一行に収めなければなりません。それでも出来ない場合は、題名と篆額揮毫者の項目は行変えして二行にするなどの方法がある。このような石碑銘文の字割りとしては、最初に題名(ここでは「水道碑」です)が来て、それに津続いて篆額揮毫者の肩書きを含めた氏名等が続きます。そして行変えをして銘文本体に入ります。今回のように、その篆額揮毫者の名前を二行に振り分けて記すのは、篆額揮毫者を冒涜することになります。では、なぜそんなことが起きたのか? それはひとえに、この石碑を引き受けた石工の責任にあります。私が思うに、この石碑を請け負った石工は、このような大きな石碑に銘文を表す方法を知らなかったのでしょう。その石工の名前は記されていませんが、川俣先生から撰文した内容を清書する前に頂いて、その文字数などを元に石碑の大きさを打ち合わせし、その碑面にどのようなデザイン(篆額を含めた全銘文)のレイアウトを考え、それに基づいて画仙紙に升目を入れた用紙を揮毫者に渡します。其の時点で、川俣先生は篆額揮毫者の肩書きから氏名までが1行で入らないことを知ったわけですから、本来はその石工に対して一行の文字数で篆額者の肩書きや氏名が入るよう再要請すべきだったのですが、なぜかそのまま書いてしまった結果が、このような何とも間の抜けたデザイン(約束事違反)になってしまったのでしょう。石碑面全体に対して文字数が少なかったので、何とでも変更できたはずなのですが‥。いずれにしても、これは石工の責任です。それともう一つ。これは川俣先生のミスになりますが、銘文中に「翌年九月竢功」とありますが、多分これは意味的にも「竣工」の文字間違いでしょう。ちなみに「竢」は、「シ・ま(俟)つ」という意味です。しょっちゅう、文字を間違うことの多い私が指摘するのもおかしな話ですが‥。以上、今回はその意味では面白い石碑と出会いましたので記しました。悪意があっての書き込みでは、決してありませんのは断るまでも無いでしょうが‥。
秋晴れのすがすがしい一日を、栃木県東部の烏山町と馬頭町へ行きました。目的は、嘗て佐野市の山口氏から所在を教えていただいていた「水道碑」の調査です。相変わらず、到着して最初にしたのは碑面の水洗いです。酷い汚れようだったので、意外と時間が掛かりましたが、助かったのは境内に水道があって豊富に水が使えたこと。掲載した写真は、その水洗いが終わって直ぐの姿です。最下部に小さな文字で交名があり、画仙紙の選択に悩みましたが、結局は厚手の用紙で手拓することにしました。普通サイズ画仙紙のため、銘文だけで半切で2枚半。篆額で1枚の手拓作業となり、また洗ったばかりなので石碑本体に水分を含ませすぎてしまい、墨入れするのにいつもより長い時間がかかり、終わったのはほぼ午後1時になっていました。銘文内容的にはあまり面白くないのですが、それでも明治時代の当地の水不足に対応してのものなので、この地区の記録の一つとしては必要かと考えつつ手拓した次第です。昼食を取ったのは、午後1時過ぎになってしまったが、那珂川の河原へ移動してのんびり川面を眺めながら食べ、その後は9月16日に採択した馬頭町の新田開田碑の碑陰手拓をおこなった。これは前回に碑表は採ってあるので今回は碑陰銘のみ。写真だけで良いだろうと考えてい行ったが、実際に再確認するとはやり拓本を採っておこうと思い直し、半切画仙紙2枚を使って手拓。これで石碑の両面が揃ったので、この碑の調査は無事に完了です。その後は、帰宅する時間まであちこちの神社巡りをしながら烏山町まで戻り、成果の無いままいつもの向田街道を通って帰宅しました。