石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

暫くぶりに栃木県小山市へ行き、墓碑「松下堂翁之墓」を調査して来ました

2016年05月22日 | Weblog

栃木市から小山市へ入って直ぐの卒島(そしま)地区、新善光寺さん墓域にあるもので、文久三年四月に72歳で亡くなられて諱が松本元命で通称は京之輔。号を松下堂という先生の墓碑です。左側面から碑陰にかけて銘文と辞世の句が刻まれています。住職さんのご理解により、拓本を採らせていただきました。門弟子の数は凡そ千人と記されていますので、いかに人望が扱ったかが判ります。その門弟子からは。後に多くの逸材を輩出しました。
さて、のんびり手拓をしたのだが、それでも11時までには写真や記録を含めて全て終了。住職さんにお礼の挨拶をしてから、今度は栃木市へ戻って大平山へ行き、碑陰の松の絵の手拓がまだなのでそれを採ろうと向かったが、現地へ行ってみると神社へ登る道は工事中で通れない。下の駐車場は、当然ながら既に満車で1台も止まれない。予定では、山頂で昼食だったが次から次へと来る車で追い出され、いつの間にやら栃木ICの入り口まで来てしまった。何となく、今日の行動はこのあたりで終了気分となり、そのまま帰宅してしまった。その為に昼食は自宅でとなり、私が石造物調査を始めてから最も早い帰宅となり、家内に「どうしたの?何かあったの?」と訝れる始末であった。
それでも今日は、暫くぶりに江戸末期の拓本が採れたので、その銘文手写清書をしながら、はやり江戸期の文章と文字は明治期のものとは違うと、一人で悦に入ってパソコンに向かった。

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栃木県矢板市長峰公園内の石碑の一つである、赤禰大尉之碑。

2016年05月08日 | Weblog


昨年秋から、虫食い状態のままに訪れていた栃木県矢板市の石碑調査を、この5月連休中に終了させようと最後まで手拓が未了だった2基を目的に行きました。予想では、矢板市内最大のヤマツツジが満開のはずだったが、今年は既にその花の盛りは過ぎていた。
さて、今回はその公園内にある石碑のうちの1基を画像紹介。これは、題額とは別に「陸軍歩兵大尉赤禰篤太郎君碑」とある、軍人さんの碑です。出自は今の山口県周防熊毛郡阿月村で、長州藩重臣浦家の家老赤禰雅平の子として生まれ、主に日露戦役に近衛師団衛生隊長として活躍した彼の顕彰碑で、晩年に当地矢板市に住まいを移した。(彼の義兄になる武人(タケト)は、安政4年に赤禰雅平の養子となり、長州藩を救おうとして策謀しながらその志を達せられぬまま誤解が解けず慶応2年に処刑されてしまう。それは、山口県で志士として顕彰碑も建立されている赤禰武人であるので、日露戦役でお世話になった矢板地方在郷軍人達の感謝の気持ちからの建立に違いはないのだが、一方では多分にその赤禰家の関係もあっての建立と思われる。
それにしても思うのは、この石碑が建立されたのは碑陰に昭和6年9月とあるように、この時代になるととにかく巨碑の石碑(私の範疇では、巨碑とは石碑本体の高さが3メートルを超える物)が多く、それに比して銘文は中身が薄い。その一つが、なぜ勤皇の志士として活躍した義兄である赤禰武人の内容が抜けているのか不思議でならない。それは、徳太郎にとって義兄の篤き志士としての思想・活躍に影響されて育ったことは間違いないことであり、その思いもあって彼は軍人としての人生を選んだからだ。
そして、その分をカバーするかのごとく刻まれた碑文文字は、一文字が高さ5センチもある大きさである。手拓する立場からすれば、既にその漢文内容はB級であり、大きさは画仙紙用紙無駄食いの何物でもない。それでも今回手拓したのは、名門赤禰家の話と共に現地で手写する努力とその後の再校正の為に再訪する手間を考えると、拓本として手元に残しておいたほうが後々に便利だからである。そしてこれを調査手拓するなら、その前に調査する石碑が他に沢山あるのではないかと自問自答してしまう。まあそれでも、手拓していた時に地元の方から「市でもやらない、このような石碑の詳細調査をしてくれる人がいるのは嬉しい」という言葉をかけてくれたことであろうか。所で、その隣りに建立されているもう一つの巨碑の方、こちらは草書体で記されているので、地元の方には内容が全くチンプンカンプンとのこと。もっとも、「ここに文字があったのですね」と地元の方が云うように、それはそれは碑面は文字の存在すら感じないような汚れようで、それを手拓するために水洗いしたからこそ文字の存在を知っての発言だが‥。「何が書いてあるの」とのことで、概略を説明してあげると、「地元の小中学生のための副読本として、ぜひ活用したい内容なのですね」と、感心しきり。そうです。その石碑こそ、かつての矢板市民は教育に飢えて積極的に教育に情熱を持っていた素晴らしい人々の住む地方だったのです、と矢板市民として誇る石碑なのを話してあげる。
いずれにせよ、まだまだ矢板市には多くの石碑がある(特に沢地区・生駒神社にある吉沢治郎平翁の碑は残念ながら再建碑となっていたので調査外とした)のだろうが、この辺で終了として次の地へと進むことにしよう。

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