石碑調査(栃木県限定)と拓本等について(瀧澤龍雄)

石碑の調査(栃木県内限定)を拓本を採りながら行っています。所在地などの問い合わせは不可です。投稿は、実名でお願いします。

前回に掲載した「正覺院法縁無塵上座」の拓本画像等をご紹介

2016年03月31日 | Weblog

銘文文字を間違いなく清書するには、どうしてもその銘文を読まなくてはならない。この所が、石碑調査の難しさ以上に、1基の石碑を清書まで仕上げるのに時間がかかる所以です。それでも今回は、銘文が短いので間違いの有無や薄学のそしりを無視して何とか1っ週間で仕上げることが出来たので、ここに掲載しました。それにしても、「慎終追遠民徳帰厚」は難しいですね。今回はその中でも、最も一般的な内容で記しました。笑ってください。
さて、今週末が近づいてきました。石碑調査に出かけたいのだが、まだ馬鈴薯の種を植えていないので、今週末に作業しないとヤバイことになりそう。また、畑の掘り起こしもしなければならず、これは困ったと頭を抱えているところです。

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先週26日は、宇都宮市内の石碑拓本採りでした。

2016年03月28日 | Weblog

嘉永三年に建立された、「正覺院法縁無塵上座」とある先祖追善碑だが、それは江戸幕府最後の起藩となった、下野国高徳藩の城主である戸田忠至が自分の先祖を祭るために建立したものである。そしてそれを撰文&揮毫したのが大橋順、つまり江戸城坂下門外変の首謀者である大橋訥庵である。
当然ながら、この石碑は過去に調査済みだが、もう一度拓本が欲しくて訪ねた訳である。一日で、これ一基ということもあり、石柱4面をのんびり手拓することが出来た。
それにしても、流石は訥庵先生の撰文である。銘文後半に「慎終追遠民徳帰厚」に関する文章があり、大いに勉強しなければとてもではないが私ごときがその言いたかったことの真意を理解することは無理だろうと思っている。それでも、いや、それだからこそ、四苦八苦しながら時間をかけて自分なりにその内容を読んで楽しみたいと思っている。

来週から、4月。ここの所は、なぜこうなるのか悩ましいことだが、調査させて頂いた個人頌徳石碑の読み下しばかりを求められて困っている。元々、私は自分の楽しみとして自分だ けの銘文読み下しはしているが、それは他に出すような内容ではなく、改めて提出するとなると、文章力不足からまともな内容とならずに困っている。碑文内容 は、しょせんはそれを撰文した人だけにしかその真意は判るはずも無い。まして文章力の無い者では、その内容は読み下す人の数だけ、ひとつとして同じにはならないと思っている。だからこそ、私は碑文清書には最大の注意を払っているが、その読み下しは原則として「学が無く出来ないです」とお断りしている。それなのに、それなのに。気が つけば請われるままに冷や汗物の読み下しを提出している。嗚呼、いやだイヤダと云いながら。そして密かに、次回からは絶対に断ろうと思っている。そのための時間浪費を思うと、その時間を使って他に幾らでも進めたいものがあるのだから‥。

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那須町の猪乗り、勝軍(将軍)地蔵(愛宕地蔵)の大きな像を見てきました

2016年03月22日 | Weblog

この像を見たくて何年が経ったろうか。少なくも10年以上も前に、その存在を知りながら愛宕山へ登る機会が得られぬまま歳月だけが過ぎてしまったが、今回は思い立って那須町へ出かけた。尤も、その前にどうしても調査と拓本が欲しい、黒羽町に所在する石碑だけは早朝からバッチリ行って、全てを為し終えてからからだったが‥。
今回の、この愛宕信仰に関わる石造物を追いかけていたのは、今から20年以上も前のことで、那須町へは足繁く通ったものだが、ここの所は年に数回の那須町訪問に終わっていた。
さて今回の調査は、そんな念願の石碑調査が終わった足で行ったので、愛宕山を登りだしたのは午後1時になってからのことである。麓は心地よい春の風が吹く程度だったが、山頂へ着いてみると結構な風が吹いていて、薄着で登って来た身にはその寒風が身に堪える。それでも山頂広場に、大きな石碑の中に鎮座するこの猪乗り勝軍(将軍)地蔵を目の当たりにすると、そんな寒さも何とやらである。像高本体だけでは55cmと大きい。左手に持つ錫杖は今は無いが、宝珠ははっきり判る。また、猪の像容にはどこにも傷がない。
それにしても、石室は大きなもので、ここに写真で見せられないのが悔しいくらいである。銘文は、その石室に刻まれているだろうと、まずは紀年銘から見てみると「天明元辛丑歳九月二十四日(愛宕信仰の当たり日)」となっている。紀年銘の判る那須町の猪乗り愛宕地蔵としては、那須町豊原乙の愛宕信仰地に見る享保五年(1720)に接ぐものである。また、反対側の側面を見ると信州高遠の石工名が記されていた。さて、ここで大笑いの出来事。それは、頂上でのんびりしようとザックにコーヒーやら茶菓子などを詰め込みながら、肝心な手拓用道具一式を入れなかった事。そのため、石工名の箇所一部がもう一つ確認できないので、それでは拓本を採ろうとして初めて道具一式の無いことに気がつくドンくささ。そこで仕方なく、ザックの底にある小さな墨と、使い切れの丸まった画仙紙をなんとか手に入れ、タンポはタオルを代用。今度は、苔を取り除こうとタワシの代わりに周辺に落ちている杉の葉を集めてそれでゴシゴシ。次は霧吹きだが当然ないので、仕方なしに飲み水を口に含んで口での霧吹き代用。そして水張り開始だが、何しろ山頂ゆえに風が吹きまくっていて、画仙紙を水張り用意しただけで吹き飛んで行ってしまう。一人で苦笑しながら、やっぱり無理だったと苦笑する以外に無かった。後は、写真に良く映ってくれていることを願うのみだった。もちろん、山頂でコーヒーを飲みながらのんびりするほどの風を避ける場所は無く、まさかお地蔵様を出して替わりに自分がその石室の中へ入るわけにも行かぬと、名残惜しくも忙しく調査を終えて下山する。
何となく、消化不足。そこで、車道へ出た反対側の崖の上には万歳型の青面金剛像容等が建立されているたのを思い出し(当時は、庚申塔には余り興味がなかったので写真等を撮っていなかった)、それを再調査しようと向かう。そして改めて眺めれば、それは当地方の庚申信仰塔としては古い方に入る宝永六己丑十月二十三日という庚申当たり日のものだった。その画像も、今回は未掲載としよう。
いずれにしても、この段階で午後も3時近い。後は途中途中で寄り道しながら宇都宮への田舎道を通って帰宅する。

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今回は、栃木県烏山町にある「圃租法変更紀念碑」の銘文を御紹介します

2016年03月19日 | Weblog

これは、栃木県烏山町の宮原八幡宮境内にあるもので、江戸末期から明治初年の農作者の年貢法不公平に不満を持った人々が、幕府に対して起こした訴訟事件の顛末記としての石碑である。全国的にも興味のある石碑ながら、その銘文を正確に記しているものが無かったので、これでは如何と発憤し、その読み下しと共に全銘文の清書が終わりましたので掲載致します。興味ある方の参考になりましたら幸甚です。
さて、それにしても毎週末の天候が良くありません。折角の三連休ながら、初日の今日は雨で部屋に閉じこもっています。それにしてもこの頃は、調査してきた石碑の整理スピードが鈍っています。先週の土曜日に手拓してきた拓本等は、そのまま机の前に置いたままです。今日の午後は、その拓本をパソコンに取り込もうかと思っています。そして残る二日の内の一日は、どこかへ行きたいものと思ってる。予定では、那須方面へ行きたかったのだが、もう少し暖かくなって天候も落ち着いてからにしようと突然考えたので、出来れば佐野市田沼町へでも行こうか‥。と。

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栃木県烏山町の石碑手拓で一日を過ごしました

2016年03月06日 | Weblog

今回は、暫くぶりにクタクタになるまでの手拓作業で、現地朝9時から夕方5時まで休みといえば昼食を取った30分だけの、全時間が手拓作業でした。手拓したのはたったの2基だったのだが、画仙紙半切用紙で、実に10枚の手拓作業となり、最後の頃は疲れてしまって墨入れは文字さえ読めれば良いという雑になり、各画仙紙毎に墨ムラのある出来具合となってしまったが、まあ今回だけは許してもらおう。特にこんな時に限って、墨とタンポの調整をサボっていたので、作業時間が大幅に伸びてしまった。大いに反省し、今日は朝一番の仕事がその墨とタンポの手入れを行った。それにしても、予定では実働6時間で終わるだろうと予想していたのだが‥。いずれにせよ、7時間半も脚立の上り下りに、下部の墨入れは屈みこんでの墨入れと、年齢体力では限界に近い運動量だった。
それでも、これで烏山町の石碑は自分の知っている限りでは全部調査を終えたことになる。それが、今回の何よりの成果だろうと満足して、今日は先週に矢板市で手拓したのをパソコンに取り込む作業をした。なにしろ先月2月は、毎週4回の石碑拓本採りで未整理碑があり、加えて昨日の2基。これを早く清書完成させないと、これからの石碑調査での資料が益々溜まってしまうことになるので、気分的に脅迫観念がある。とは言え、それら銘文だけの作字作業だけでも膨大な時間が必要となり、加えて読み下しまで含めるとそれこそ寝る間も惜しんでの作業となるのだろう。
さて、今回で烏山町は終了したので、次回は那須町・黒羽町方面の気になる石碑・石仏の調査へ行きたいと思っている。もちろん、天候次第だが。そして次の今年の大目標である、栃木県田沼町の石碑調査も何とか4月までには終了させたいと思っている。ただ、その中には再度の拓本採りをしなければならないものも有るので、困ったものだと思っている。
いずれにせよ、今年も手拓の最適期となったので、昨年以上に年齢を忘れてがんばろうと自分で気合を入れなをしている。嗚呼、それにしても今日は昨日の疲れで足にガタがきていて、陽気が良いのに夕方の散歩さえ億劫になっている自分に苦笑している。

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2月28日も栃木県矢板市の石碑調査に行きました

2016年03月02日 | Weblog

天気予報では今日は風も穏やかということで、3度目の正直を狙って矢板市の途中まで手拓した残りを今日こそは完成させようと、4号線を北上。確かに、朝のうちは無風に近いので気分良くし、途中から同じ矢板市にある別の石碑調査に切り替える。それが上記に掲載した石碑である。ただ、石碑面には例のいやらしい石苔が酷くてその除去から始めなければならない。幸いに、この石碑所有者の御家族皆様の御理解があって、苔を取りたいと云うと喜んでくれる。そこでいつものように、各種の道具でゴシゴシと掃除してご覧のように手拓作業が出来るまでに仕上げて喜ばれました。そして早速に手拓へと進むが、今回も大きな文字で刻まれているので篆額を含めると、半切画仙紙で4枚が必要となる。掃除に時間を取られたので少なからずあせるが、それでも何とか12時半に無事終了する。碑文揮毫文字を見ると、多くの異体字があるので帰宅してからの銘文読みが楽しくなりそうである。
さて、この頃から風が強くなる。昼食はまだなので、取りあえずは最初の目的地に着いてから昼食時間として、また、先ほどの拓本採りで少なからず疲れた体を休ませる。その間も益々風は強くなり、「コリャ~、今日も拓本が採れずに追い返されるか」と、恐れる。試しに、石碑下部がまだ未手拓石碑の前に立てば、吹いて来る風は音を立てている。とてもではないが、手拓どころではない。しかし、そのまま諦めて帰宅するのはなんとも悔しく、再度別の日にくることになるのなら、夕方になればタブンこの風もおとなしくなるだろうと決め付け、車の中で長期戦を覚悟しその時が来るのを待つことにする。それから3時間近く待ち、午後の4時頃になると何とか工夫すれば水張りが出来る状態まで風が弱まる。急いで手拓道具一式を用意して現場へ立ち、最初の水張り。しかし、それは水張り途中で風に煽られてダメ。仕方なし、と諦めるわけにはいかず、再度の挑戦。今度はマスキングテープを先にしてから水張りした結果、何とか一枚目が終了。そうなると俄然やる気が出てきて続けて2枚め3枚目と仕上げて、夕闇が迫る前に念願だった石碑全面の拓本取りが完了した。本当に、今日は三度目の正直でやっと完成である。もちろん、上部にある篆額の手拓は最初から無理と諦めてしまったが‥。まあそれも、その隣りに建立されているもっと大きな石碑も、いつの日か拓本を取らなければと思っているので、今年中には再訪してその折に追加して採る事にしよう。
いずれにしても、今回で栃木県矢板市の主だった石碑は調査が終えたことになる。そして次回からは3月になるので、今度は栃木県東部の烏山町の銘文手写した石碑の拓本採りに行きたいと思っている。また、那須町の愛宕山へも登って大きな猪乗り将軍地蔵像を調査して来たいと思っている。勿論、その時は黒羽町へ立ち寄って、まだ未調査の石碑も是非見たいものと思っているが、所在するのが曹洞宗の寺院なので果たして許可してくれるかが不安である。

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