庚申塔が群れている、佐野市閑馬町の千躰庚申山山頂地区へ行く。今回も、何としても調査の最終確認が取れないため、何度この庚申塔の前に佇んだことかと自嘲する。読めない文字を読むために、これまで培ってきた様々な試行錯誤を重ねて今回もその前に立って早速始める。そして結局は、それが私には読めないことを証明するためだけにその文字箇所の拓本を採ること、今回で何度目だろうかと空しい思いである。結局は、読める文字はこれまで同様に数字が読めるだけで、全体としては全く分からないなさけなさ。そして結局は今回を最後として、読めないことを確認するための拓本を採るだけに終わった。そのためにも、その読めぬ個所の拓本は、後世に誰かが読むかもしれないとして本体の拓本と一緒に保存することにしよう。そんな事の繰り返しのため、最終報告書を纏める努力だけはしているつもりだが、その作業は少しも先へ進まないまま数か月が過ぎようとしている。まもなく、今年も5月に入る。嗚呼いったい、あと幾つ再確認が必要な庚申塔はあるのだろうかと、その未確定調査ノートを見れば、まだまだ優に50基はある。人は、軽く言う。そこまで、たかが庚申塔の調査に時間と情熱を傾ける必要があるのだろうか、と。しかし、これは私の性で、自分の納得できないままで調査を終えることはできない性なのである。誰が何と言おうと、これが私の調査方法なのである。少なくも、私の調査した報告書を見た後では、誰もこの千躰庚申山の庚申塔調査に挑戦しようと思う人は出てこないだろうと、自分で納得を持てるまで。又よしんば出てきても、私の調査以上に情熱を以て取り組める人は現れないと確信するまでは、その調査の手を緩めることはしない私である。
さてそんな次第で、今回の画像はその内の1基をご紹介する。ご覧のように全く普通の庚申塔で、常識的には「文字あるも不読」の一言で調査は終了しても異議の出ない庚申塔である。しかし、その正面向かって右側にかけて、文字(名前らしき)がある以上、私的にはそれを読みたかった。パソコン画面上なので、その箇所を拡大して掲載したが、まず以て読める人はいないだろうと変な自信を持っている。読めるのは「………右衛門」位なものだろう。ぜひ、私なら読めるという方は、現地で再確認してご教示頂きたいものである。読んでくださって、私が納得した場合は、「一字之師」として最大級の「師」として崇め申し上げます。
今回は、先週土曜日に拓本採りに行ってきた、相変わらずの千躰庚申山での手拓作業経過を簡単な写真を混ぜて掲載しました。それにしても、先週の朝は寒かった。予定では、8時前から拓本採りに取り掛かるつもりだったが、余りにもの寒さに水張りには寒すぎて朝日の当たるのを待つ羽目になる。その間、無為に過ごす私ではないので、下部が深く埋もれていて、昨年の調査時にも下部の掘り出し迄は出来なかった庚申塔を、手拓のために掘ることにした。兎に角、拓本を採るためには下部を掘り出す以外に方法はない。木の根や山石で地面はとにかく酷い。スコップで少し掘っては、移植スコップで少しずつ出てきた土や石を取り除く。また庚申塔に絡みついている木の根は、ノコギリで綺麗に取り除く。そんな苦労を1時間半もかけて掘り出しに成功したころは、全身汗びっしょりで、朝の寒さなどどこかへ行ってしまった。
そうして掘り出し、水洗いしてタオルで綺麗に拭き、続いて画仙紙を水張して墨を入れた画像が、次の二枚の写真である。そして最後に、自宅へ帰ってから手拓した庚申塔をパソコンに取り込んで最終的な拓本画像としたのが3枚目の写真です。
こんな調子で、以下に数基の庚申塔を掲載しました。御笑覧下さい。所在地は、庚申山山頂から鶉坂を下る北側052番目にある庚申塔です。なお、銘文内容などは、三枚目の拓本画像をご覧になればわかるだろうと、その詳細は掲載しませんでした。面倒くさいので、です(笑い)。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の043番目の庚申塔です。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の066番目の庚申塔です。右側下部が剥離しているので、拓本ではこの部分が採れないことになります。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の067番目の庚申塔です。この庚申塔に至っては、碑面に水張するだけでも大変です。その一つが、写真ではあまり分かりませんが、下部部分が手前にしゃくれているので、素直には画仙紙が張れません。また上部左側は、大きく下に落ちているので、この部分も画仙紙を張ってどうしても拓本を採る場合には、別紙の画仙紙で第二段階の作業となります。今回は、その必要もなかったので素直に採りましたので、その拓影は、ご覧のように実際の庚申塔の姿とは全く別物の庚申塔姿となってしまいました。
今度の庚申塔は、同じ庚申山の山頂から鶉坂へと下る南側の068番目の庚申塔です。最後の締めとして、全ての庚申塔がこんな石に彫られていたら手拓する方としては楽で良いのですが、私的には途中でつまらなくなってしまうことになるでしょう。
次は、最初の調査時から下部が埋没していて掘るのも大変なのでそのまま「下部埋没」として処理していたものですが、今回はその詳細調査ということで拓本を採る必要があり、意を決して掘り出したものです。案の定、その下部の右側には奉納者の名字が「中山」と刻まれていました。本当に、「調査する」事の難しさを実感した一場面でした。
と、いう次第です。
いずれにしても今回は、全部で12基の庚申塔を手拓しました。今回は、最初に紹介した庚申塔以外にももう一基の深く埋もれていた庚申塔の掘り出しもしたので、午前中でたったの2基のみの手拓という有様。加えて体はクタクタ。それでも夕方5時近くまでロクな休憩も取らずに作業を進めたので自宅へ帰りつくなり体力の完全消耗で、電池の切れたラジオのようになり、今日で丸二日が過ぎようとしているのに未だに体力回復とは至っていない有様。嗚呼、やはり年ですね。
今回は、本来なら初回に記すべきだった内容から始めましょう。それは、拓本を採る前の最初の仕事です。私の場合は、拓本を採ると決めた石造物は、何をさておいても徹底的に水洗いして綺麗にします。大きな石碑などは、バケツに満たした水を碑面全体に何度も掛け、碑面全体を湿らせます。それからがまた大変で、次に石質を確認してから大体は亀の子タワシの一番大きな物で、碑面にこびりついているノロを拭き取りします。と、一言で言ってしまいますが、石碑が背の丈を超える3メートル以上にもなると、最後のころは全身びしょぬれです(笑)。勿論これも一通り碑面全体を吹き終わったら、またしてもバケツで何杯も水をかけて表面のノロがなくなるまでタワシでゴシゴシと磨き上げます。要は、その石碑を建立した当時の状態に近い石面状態にします。問題はまだまだあり、年代ものですと亀の子タワシでは何としても落ちない厄介な石苔への対応です。無理に取り除こうとすると、剥離が進んでいるものは剥がれ落ちてしまいますし、江戸後期から明治にかけて、特に石工の廣羣鶴が愛用して日本全国に普及させた根府川石は注意が必要です。既に石質として耐用年数がきてしまい酷い状態の石碑が多いからです。いずれにせよ、その除去方法には悩まされますが、石碑そのものを痛めてしまうような状態の場合はもう諦めるしかありません。インターネット等では、そうした石碑の拓本の採り方はまずもって紹介していませんし、そんな石碑の拓本画像もまず目にすることはありません。だからというわけではありませんが、わたしもそれに見習って、自分なりに行っている石苔除去の方法は示さないことにしましょう。その方法を紹介して、大切な石碑が無神経な人々によって痛められるのを恐れてです。
それに比して、自然石などの今回の庚申塔のような石仏関係は気が楽なものです。特に河原石などは、亀の子タワシでほとんどの場合は綺麗に水洗いできるからです。いずれにせよ、拓本を採る碑面に泥気の水分が含まれなくなるまで磨き上げれば良いわけですから。この場合の石苔等も、かなりシツコイ石苔もブラシ等を併用すれば綺麗に取れるわけです。極端な話し、便器の汚れを落として新品状態にすれば良いわけですから(例が悪い!笑)。ここへ2回続けて掲載した拓本採り前のカラー写真も、最初の調査時に撮影した写真なのでかなり汚れている写真ですが(手拓作業に入ると途中で写真を撮る気がなくなる)、そうやって磨き上げてから手拓しています。
さて今回は、普通の方なら絶対に拓本など採ろうと思わない、四角柱が横に二つに割れている庚申塔です。最初に目にしたときは、半欠けの上部一つだけがあっただけでした。もう片方は、必ずこの周辺にあるはずだと探してみると、何と殆どが土中に埋まっている状態で見つかりました。それを抱えてきて、まず土台となる下部を少し掘ってぐらつかないように設置してから、上部を渾身の力を込めて転がしてきて、何とか上部に乗せた状態の写真を掲載しました。この時点では、まだ拓本を採るための水洗いはしていません。そしていよいよ拓本を採ろうとし、初めて三面に文字が刻まれているのでその3面を水洗いしました。これって、意外と時間がかかり、「私は一体、何をしに今日は来たのだろう」と、苦笑するばかりです。そして手拓するために、折角努力して組み立てた姿を、元のようにばらばらに横倒しにして最初に上部を採り、次に下部を位置合わせしながら手拓しました、それを三度繰り返すわけですから、この庚申塔一基の拓本を採るだけで水洗いから完成までには3時間ほど掛かりました。(今回の写真は水洗いした後なので、綺麗でしょう!)そして再び、その庚申塔を組み立てることになり、今回も体力勝負でギックリ腰を持病とする私としては、それこそ大汗と泣きべそをかきながらなんとか元の姿に設置し終えたのは、既に昼食時間を過ぎてしました。
今回の拓本をご覧になって、「それほどまでして拓本が必要なのか」と思うでしょうが、それが私の調査、記録の残し方なのです。考えてみてください。この先、50年いや百年が経ったとしても、この庚申塔は今以上の元の姿にはなりえないのです。それどころか、この場所からなくなっている可能性の方が大きいのです。ましてや、この庚申塔を拓本に採ろうという輩が現れるとは到底考えられないのです。だからこそ、今の現状姿を記録として、また拓本として私が残さなければならないと考え、実行しているのが私のヤリ方なのです。「拓本を採る」ということは、本当に悩みが深いのです。今のほとんどの拓本を採る人は、如何に美しい拓本を採るかが第一で、「なんのために拓本を採るのか」という本来の目的思考がどこかで食い違っているのかと苦笑しつつ…。そしてそんな考えだから、毎週毎週当地の庚申塔手拓を重ねていながら一向に進まずにいて、明日の土曜日も朝の7時頃には現地について一基一基の庚申塔の水洗いから始まる拓本採りを、ウグイスだけが美声で励ましてくれるのを糧に山の中で嬉々として行っていることでしょう。いわゆる、「言必信行必果」の実践を目指して!。別の見方では、「馬鹿らしい!」。また、コロナ禍で街中には行けないからだろうと、冷やかされながら…。
ところで原寸サイズでう。サイズ;高66.0×幅27.0×奥行19.0㎝。
今回は、台座に乗っている四角柱本体と、その台座と左側面を一枚の画仙紙で手拓する方法のご紹介です。その良いところは、該当拓本を保存するのに1枚だけで済むので、ばらばらにならぬことです。
私の今回の場合、最初に本体の四角柱を手拓します。但し、余分な余白の多い画仙紙を水張するわけですから、その採択しない所の画仙紙の扱いに気を付けなければなりません。兎に角、余白部分を破らぬよう、また汚さぬように様々な方法で処理します。助手がいる場合は「おい、その余白部部分の画仙紙を持っていろ!」と言えますが、私のように一人で採択する者にとってはそこでひと工夫もふた工夫もして処理します。この時に、意外と便利なのが洗濯バサミです。クルクルと小さく丸めてはパチンと止められるからです。
そうして最初に碑表を撮り終えたら、今度は左側面の手拓となります。この場合、碑表を包むようにして左側の画仙紙を水張する方もいますが、私はその境を意識的に白く空けます。そうしないと、本体の碑表と左側面の境が無くなってしまい、後で困るからです。そうそう、この時の注意としては、必ずその前に手拓した(ここでは碑表)箇所がある程度乾くまで我慢して待ちます。そうしないで次の作業へ進むと必ずと言ってよいほど、最初に手拓した碑面が破けたりします。
最後に、台座の手拓へと進むのですが、これも乾かしてから触っても破けなるまで辛抱強く待ってからの作業です。そして二か所を墨入れした画仙紙を広げて、本体四角柱の台座に当てて採択する場所を確定します。この場合は、側面の場合と違って本体の最下部と接するように水張するのがコツです。見た目に、上部が台座に乗っているように見せるためです。勿論、どうやっても少しは本体との間が離れてしまうのは仕方がありません。ばらばらにして手拓するなら別ですが、これは体力が必要ですし、本体を傷つけやすいのでなるべくしないでください。
こうして拓本を採ったのが、ここへ掲載した手拓写真です。あとはこの画仙紙の余白に、調査した現地(場所)の住所。調査年月日、そして手拓者の名前を記入しておきます。これはなぜかというと、手拓した拓本は、一度整理してしまいこんでしまうと、自分では滅多に見ることはありません。なにしろ、後世への記録として残すわけですから、手拓者が亡くなってから長い年月が過ぎ、偶然にこうした拓本に興味のある者の目に留まった時に、殆どが初めて開かれるわけです。それを見た人が、その拓本がどこで何を採択した拓本なのかが分かるために記録するわけです。勿論、調査月日を記して置くのも、その拓本が何時採られたものなのか、また誰が手拓したものなのかの情報も、その年代を過ぎてからでは重要な記録となるからです。勿論、最終的な目的は、今回も「今現在の情報を、拓本としてごまかしのきかない方法で後世に残しておくためです。また、自分で調査した内容の確かさを担保するための資料としているのは、当然のことです。これを見せれば、その内容に異議を唱える人は誰も出てきません。
夫あらゆる分野での石造物調査過程で、長い年月を振り返ってみると「拓本を採らざるを得ない」場面に遭遇すること数えきれず。その第一が、石面に穿たれた文字が読めない物が多く、それを何とかして読んでみたいという理由が出発点である。それからいつしか、自分の身の丈も考えず「後世にどうしても残しておきたい石碑」調査に入り、何とか文字が読める状態である今のうちにそれらの拓本も欲しくなって現在に至っている。そして今は、昨年から始めた栃木県佐野市閑馬町の千躰庚申山の庚申塔調査に入り、今はその最終段階で主銘文の他に文字(主に奉納者や紀年銘等)がある全庚申塔の拓本採りに熱中している。それもこれも、最終的に調査を終えた庚申塔その校正の正しさを担保するための拓本採りです。そして思い返してみると、その一か所での拓本枚数も90基余となっているにも関わらず、その報告をこのブログでは殆ど掲載していなかった。
そこで思い返し、今回から暫くはその千躰庚申山に於ける庚申塔手拓(手拓=拓本をとること)の方法やその時々に思い浮かんだ拓本採りの楽しさや難しさ、そしてその実際の私なりの採拓方法や目的等を、画像を中心にしてご紹介してみようと思いました。
今回がその初回の01として、この先どこまで続くかは分かりませんが(多分、当地の庚申塔手拓が終了する5月中頃まででしょう)続けられたらと思っています。
さて、その第一回は、その手拓の目的は「現状姿の痛みが激しく、文字剥離も進んでいるので、現時点での状態をカラー写真をお見せしながら、その拓本を掲載しました。従って、拓本が上手い下手の領域ではなく「もしも百年2百年後の誰かさんが、当地のこの庚申塔を調査しようと思ったときに、その今時点での在り様が判る拓本を残すために手拓しました。
この庚申塔は、四角柱ですから本来はその台座があったはずですが、今はその周辺に台座らしきものは見つかりません。碑表には石苔が生え、表面剥離は全体に及んでいます。一年ごとにその状態は悪くなる歩数を今以上に早く進むことになるでしょう。そんな時、何時の世かに今回の手拓した拓本が出てきたら、その痛みの進捗状態が理解できる筈です。そしてそれを見つけた人は、必ずや大喜びすることでしょう。両側面、特に右側面は幅が欠け始めてとても細くなってしまいました。幸いにも、碑表よりも石面が綺麗なので剥がれなければ文字はけっこう長持ちするだろうと思いつつ、とにかく丁寧に手拓しました。なおそのサイズは、高さが50.0×幅24.5×奥行き12.0㎝です。手拓日;2021年3月27日。